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⑪私は22歳年上の彼の子を20歳で出産した。娘は同意のない治療で窒息死した。研修医の衝撃的な告白で、亡くなった背景を知った。

私は10代の頃、集団レ〇プされた。自殺未遂を繰り返していた。搬送先の病院はたいてい同じ。気づいたら救命救急の医師と交際していた。22歳も年上だった。私は、彼の愛で再生していく。彼は私の人生において、最大の恩人であり、最愛の人。私は彼のことが忘れられない。特に、彼との夜を。私にとってはリハビリだった。
彼は、子育てがリハビリ完了のきっかけになると考えたようだ。彼は、しれっと笑顔で私を妊娠させた。私は、20歳で出産した。でも、娘は肺炎で入院し、同意のない治療で窒息死した。

娘を亡くしたとき、心ある研修医が号泣しながら「本当にごめんなさい。自分の身がかわいくて止められなかった。止めるべきだった」と背景を教えてくれた。山崎豊子著書の「白い巨塔」かのようだった。 涙、動悸、鳥肌、手足の震えが止められず、まともに呼吸できなかった。心の痛みとしてだけでなく、リアルに心臓が痛くなった。私は、たこつぼ心筋症を患った。

便宜上「医療ミス」という言葉を使っているが、私は実質、殺人だと思っている。娘の症状には適応外の薬品、効果があるはずのない薬品を肺に投与され、窒息死した。娘は、どんなに苦しかっただろうか? 想像を絶する。

投与することについて、何の説明も、同意もなかった。
「どうせ、何やっても死ぬ子だから。珍しい治療をやらせてもらおう」
肺に投与する手技を、准教授が研修医たちに見せたかった、なかなかやる機会のない治療の症例数を稼ぎたい、という理由で娘が犠牲になった。
どうせなにをやっても死ぬ? そこまで症状を悪化させたのは誰だよ! 
肺炎は不治の病じゃない。まともな治療をすれば治るはずだ。抗生剤の投与も、排痰を促すための吸入も、なぜか渋ってやってくれなかった。まさか、これが目的だったのか?! だとしたら、どうかしてる。人の命を、何だと思ってるんだ! 私の娘を実験動物か何かのように扱って。あなたがやったことは治療じゃない。殺人だ。許せない。涙が止まらない。

こども専門病院に緊急搬送し人工心肺に繋げれば、救命できる可能性はあると、ICUの医師から説明を受けていた。搬送の準備はできていた。なのに、小児科の准教授にそのチャンスを奪われた。ベストを尽くしてもらえなかった。

市役所の担当者には「 保険証の発行は、出生届提出後から1ヶ月かかる」と言われた。娘は生後15日で亡くなった。保険証は発行待ち中。10割負担の医療費の請求がきた。
娘は、まともな治療なんてしてもらえなかったのに、倫理観に欠ける准教授に殺されたのに、なぜ支払わなくてはならないのか?と思った。
しかも10割負担。保険証が発行待ち中なのは、私のせいではないのに。病院の事務員から、昼夜を問わず嫌がらせかのように
「保険証はまだか、支払いはまだか」
と電話が頻繁にかかってきた。発行元のお役所仕事の担当者には
「発行したって、もう死んでるから、すぐ返納しなきゃいけないのに必要ですか?」
と言われた。どいつもこいつも、どうかしてる。腸が煮えくり返った。
でも、反論することができなかった。娘を亡くした喪失感がすさまじく、疲弊していた。電話口にでるだけでも消耗し、反論する気力を絞り出せなかった。

准教授からの謝罪は、無いまま。 娘を亡くしたことだけでも、言葉では表現しきれない苦しみと悲しみを負うのに、なぜ、よりによって医療従事者によって、さらに苦しめられなくてはならないのかと思った。

毎日泣いた。水を一口飲むだけでも疲労を感じた。歯磨きすら、する気が起きなかった。唯一、体を動かせたのは、娘にお線香をあげることと、お花を供えることだった。それ以外は、ベッドに寝たままだった。いや・・・、搾乳もしていた。飲ませる相手がいないのに、この母乳、そうすればいい? また涙が止まらなくなる。ほどなくしてストレスで母乳は出なくなった。
混乱して、時間の経過もよく分からない。いったい何をして過ごしていたのか?  何ヶ月、そんな生活をしたのか、あまり思い出せない。喪失感がすさまじくて、思考が停止していた。

でも、そんな日々の中でも、娘の死を少しでも無駄にしたくないと思い始めた。娘は、もっと生きたかったに違いない。このままでは娘があまりにも不憫だ。

カルテ開示を求めたが、難航した。大学病院は「ご希望のある方にはカルテ開示をします」と謳っていたが、かなり渋られた。カルテ1ページにつき何円、レントゲンなどの画像は1枚につき何円・・・。細々した金額は思い出せないけど、総額4~5万支払った。そして、猜疑的になってしまうのは、たかがコピーするだけなのに、即日カルテ開示をしてもらえなかったことだ。1ヶ月ほど待たされた。その間に、カルテを改ざんしているのではないかと思った。
そして、手渡されたカルテを見て、愕然とした。やはり、改ざんされていた。吸入なんてしてもらえなかったのに、吸入したかのように記入されていた。何の説明も同意もなかったのに、同意書が存在していた。サインは「母親が情緒不安定なため代筆した」ということにされていた。医師記録には「ジリ貧なので、どんなことでもやってほしい」と私が述べたと、述べてもないことが述べたかのように記載されていた。なぜ、こんなに酷いことができるのか?! と思った。腐ってるにも程がある。

医療過誤専門の弁護士に相談したら
「勝訴できる見込みはある」
と言われた。でも・・・。
「判決が出るまで数年~十数年かかることもある。 いざとなれば、病院は嘘の証言もするし、カルテも改ざんする。賠償命令が出たとしても踏み倒せる。それを罰する法律はない。それでも裁判を起こす気はあるか?」
と覚悟を問われ、またも愕然とした。

結局、訴訟には踏み切れなかった。経済的な負担もとんでもない額になる。精神的にも苦痛が大きすぎて、娘のために戦うことができなかった。
「弱い母親でごめんね」
何度も号泣した。
でも、一方でこう思った。裁判となれば心ある研修医は、きっと証言することになる。大学病院で准教授に盾突くことは医師の道を閉ざされることになるのではと。ならば、裁判をせず心ある研修医には、心ある医師になって活躍してもらった方が良いのではないかと。また、訴訟を起こすことで、病院の隠ぺい体質が悪化するのではないかとも考えた。

娘が亡くなったのは25年以上前のこと。当時の医療現場は、こんなありさまだった。
そして時を経て、私は医療従事者になった。医療ミスを減らしたくて今の職業に就いた。でも、なかなか減らせない。無力感に苛まれる。自分の仕事は「人の不幸の上に成り立っている罰当たりな仕事だ」
と胸が痛くなる。娘が亡くなった当時より、少しはマシになっていてほしいと願う。

まだまだ道半ばなのに乳癌になった。今度こそ、娘のためにも戦うと誓ったのに。私は、微力ながらも「一隅を照らす」ことができただろうかと自問自答する。

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