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秋風の吹くころ

夏から秋へと移り変わる季節になると、ある過去の記憶の一ページが僕の胸に舞い戻ってきます。まるでそれは忘れかけていたタイムカプセルを掘り返した時のように。
その度に僕はいつもとても不思議な空間と遠い記憶へと自然に心が誘われていくのです。
それは秋風と共にどこからともなくやってくる僕宛ての手紙なのかもしれません。

僕がまだ幼い頃、近所に『くにくん』というお友達がいました。
本名はわかりません。
「くにお」なのかあるいは「くにひろ」なのか…
覚えてないんです。
くにくんの家は床屋さんでした。
僕は幼稚園に入るまで別の土地に住んでいて、父親の転勤で引っ越してきたわけなのですが、はじめの頃は新しい環境になかなか馴染めないでいました。
そんな僕にとって一つ年下のくにくんと遊ぶことは何よりも楽しいひとときでした。
くにくんは小柄で目が大きくくりくりっとしていて、長い襟足が特徴的なとても活発で明るい男の子でした。
くにくんは男の子のくせに人形やぬいぐるみなんかが大好きでいつもどこへ行くにも大事そうに抱えていました。
そんなふうにくにくんは甘えん坊で人懐っこいところがあり、僕がどこかへ行こうとすると必ず後ろに付いてこられて困っていた記憶があります。
そのせいか、いつのまにか僕にとってくにくんはまるで実の弟のような存在になっていたように思います。

くにくんは三輪車に乗るのが大好きな子でした。
三輪車を片足乗りで漕ぎつつ、お店で働いているお父さんとお母さんやお客さんに近所まで響くような大きな声で

「行ってきまーす!!」

と元気よく表に飛び出し、そしてそのまますぐ近くの僕のうちに遊びにやってくるのでした。
くにくんのお父さんとお母さんはお店のことで忙しかったので、くにくんは保育園に通っていたのですが、僕は普通の幼稚園だったのでそれぞれ幼稚園と保育園の時間が終わるまでは別々でした。
そのことを寂しく感じていたのか、やがて僕が小学校に通うようになると、一歳年下のくにくんも翌年春に入学して僕と一緒に小学校に通う日が来ることを待ち望むようになり

「早く一年生になりたいな」

と目を爛々と輝かせていたのを覚えています。

残念ながらくにくんの記憶はそのくらいしかありません。
二人でどんなことを話し、どんなことをして遊んでいたのか…断片的にしか覚えてないんです…。
いつも“ひっつきもっつき”みたいにちょこまかと付いてきていたことくらいしか思い浮かばない…。
あれほど仲良く遊んだはずなのになぜか思い出せないのです。

もしかすると僕の無意識が思い出させないようにしていたのかもしれない。
聞いた話によると、人間には過去に辛い思い出やショックな出来事があると、記憶から消し去ろうとする本能の働きがあるらしいのです。
というのも、思いがけず僕とくにくんは、突然お別れしてしまうことになってしまったからなんです。

あれは僕が小学一年生の秋だったように思いますが、断定はできません。
なぜ秋だと思うのかというと、毎年この時期が近づくと彼との思い出の記憶が自然と甦ってくるのできっとそうに違いないと思うのです。

話を戻します。
ある週末に僕はおばあちゃんの家に一人でお泊まりに行きました。
ところが今思い返してみてもこのことが不可解でならないのです。
というのも、僕はあまりおばあちゃんが好きではなく、時折り家族で遊びに行くときだっていつも退屈に感じていたはずなのです。
それなのになぜあの日僕はおばあちゃんの家に泊まりに行ったのか…
自分でも未だにそれがよくわからないのです。

その“報せ”を親から聞いたのは、明くる日のお昼すぎ、僕がおばあちゃんの家から自宅へ帰ってきてからのことでした。
僕は直ぐさま母親と病院へ出かけました。
けれど面会謝絶でくにくんに会うことはできませんでした。
くにくんは僕が留守の間に交通事故に遭ってしまっていたのです。
僕がおばあちゃんちに泊りに出掛けたその日、くにくんはお店で忙しく働いている両親を横目に、駄々をコネながらずっと退屈そうに過ごしていたそうです。
するとくにくんは何を思い立ったのか、突然店を飛び出してしまったのだそうです。
不幸にもくにくんのお店のすぐ正前は道路でした。
店を飛び出したその瞬間、そこを通りすぎようとしていたバイクと衝突し、くにくんは高く撥ね上げられ、そしてその直後、さらに後続の車に轢かれたのだそうです。
くにくんはそれから今に至るまで意識不明の危篤状態でした。
僕は母親に
「なんでもっと早く教えてくれなかったの?」
と責め立てました。

それから家に帰るとどこからともなく近所の子供たちが何人か集まってきました。
けれども、誰も重たい口を開こうとせずにしばらく静まりかえっていました。

すると、重苦しい沈黙を破るかのように

「くにくん、死ぬのかなぁ…」

と誰かがポツリと呟きました。

「死ぬ……………!!!??」 

その思いがけない言葉に僕はハッとなりました。
そんなこと考えてもみなかったからです。
その時僕は、これからしばらくの間、くにくんと遊べなくなる寂しさや、もし昨日自分がおばあちゃんの家に泊まりに行かず、くにくんといつも通りに遊んでいたらこんなことにはならなかったのに…という後悔の思い、そして事故の際にくにくんが受けた痛みのことばかり考えていたのです。
「死」というものを明確に理解するには、きっと僕は幼すぎたのでしょう。

「死ぬなんてウソだ!ゲームも貸したままだし、一緒に小学校に行くって約束した」

僕は混乱して急に頭のなかがグルグルと回りだしました。
その日は夜になって床についてもくにくんのことが頭から離れず、なかなか寝つけずにいました。

「くにくん、ひとりぼっちにしてごめんね。」

そして、くにくんが元気になって退院したらまた遊びに行って、学校の話をたくさんしてあげようと心のなかで誓ったのでした。

けれどもその思いも空しくその翌日、くにくんはあっけなく逝ってしまいました。
最期までとうとうくにくんの意識が戻ることはありませんでした。
くにくんのお葬式はお店の中で取り行われました。
その時、僕はようやく変わり果てたくにくんと再会することができたのです。
くにくんは真っ白な顔をしていて、鼻にティッシュを詰められ、目を閉じ静かに棺の中で横たわっていました。ティッシュには少し血が滲んでいました。
傍らにはボロボロになった大好きだったぬいぐるみが添えられていて、まるでくにくんと一緒に眠っているようでした。
きっと事故に遭った瞬間も大切に抱えていたのでしょう。
幼さなかった僕は死に化粧というものを知らず、くにくんの顔を見て綺麗だなと感じました。
納棺の時、知らないおばさんに

「最後のお別れをしてあげて」

と言われ、僕はどうしておばさんが泣いているのかもわからずに訳も分からないまま、渡された一輪の花をくにくんに向かって放り投げ、叱られてしまいました。

それから数ヶ月後、まるで忌まわしい記憶を振り払うかのように、僕の家族は隣町に引っ越して行きました。
僕はくにくんが死んでしまったという実感を持てないまま月日を重ねていきました。
もしかしたら今でもそうなのかもしれません。
ただあるのは、くにくんと楽しみにしていた小学校へ一緒に通うことができなかったという切ない思いだけです。

僕はやがて大人になりましたが、くにくんは今でも変わらずあの頃のままです。
これからもずっとそうなのでしょう。
そしてまた秋が来て、くにくんのあのあどけない笑顔に再び出会うと、僕は大人になったくにくんを想像して、不意にまたどこかで会えるのではないかという思いに駆られるのです。

いつも指をおしゃぶりしていた甘えんぼうで寂しがりやのくにくん。
蜂に刺され、大声で泣いていたくにくん。
一年生になることをあんなに楽しみに待ちわびていたくにくん。
さようならも言えずに別れたくにくん。 

「また遊ぼうね!」

季節がめぐり、街の景色が鮮やかな彩りをしはじめる頃になると、ちょっぴり冷たくてそれでいてふんわりとしたやわらかな風が、ふいに僕の心にそう語りかけてくるのです。

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