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小さな夜明けの後に

 3時55分、目を覚ました。まだ世間は薄暗く、あたりは静けさに包まれている。新しい年を迎えた実感もないまま、このまま再び眠りにつこうか迷っていた。少しだけ腰がヒリヒリと痛かった。考えれば考えるほど、頭が冴え、気がつけば東から少しずつ日が登り始めていた。辺りが少しずつ、ゆっくりと、橙色に染まっていく。

 昨年は何故かはわからないけど、少し腑抜けてしまったし、自分の中でも何をどう頑張れば良いのか、前に突き進んで良いのか、そもそも私はどんなふうに文章を書いていたのか、向き合っていたのかわからなくなってしまった年だった。もしかしたらそんなタイミングが周期的に訪れるものなのかもしれない。何かをしようとしても、何も頭に入ってこない、手が動かない。抗う術を持たなくて、常に何かが目の前を覆っている感覚がある。

 うっすらと肌寒い空気の中で、私は少しだけ早朝、散歩した。なにか憑き物が落ちる感覚がある。道端は人通りの気配がなく、吐く息は白かった。かしえりさんの記事を読んで、私がもともと文章を書きたかった理由を思い出したような気がした。人にはなかなか伝えることのできない、自分の中にあるモヤモヤ。それをきちんと言葉にすることで、誰かひとりでもいいからその人の心を救いたかったのだと思った。そして私は確かに、彼女の言葉に救われた。

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 私自身も、自分の中にある嫌な部分に対してずっと蓋をし続けてきたのかもしれない。

 ちょうど年を越す前に友人が家へ遊びにきて、共にご飯を食べていたのだが、その人のちょっとズボラな感じが目についてしまって、どうしようもない怒りが沸々と湧いてくるのを感じた。前はこんなことなかったのに。以前よりも、潔癖な自分がいる。確実に私の中の細胞は入れ替わっていて、いろんなことに対して融通が利きにくくなっている。理想と現実は少し、かけ離れている。

 ひとりでいるのは嫌で、誰かといる瞬間が愛おしいと思うのに、それでも実際に誰かと同じ空間にいると気づまりになるし、苦しくなる。そして彼らがいなくなってしまうと、また深い孤独に苛まれることになる。矛盾している。そうした矛盾の中で私はか細く息をしていて、時折自分自身の持つ冷えた毒饅頭によって、体調を崩してしまうこともある。

 ちょうど年を越す前に、最後の締めくくりとして『PERFECT DAYS』を見た。平日にも関わらず劇場は満員御礼。みなが静かに息を潜め映画が始まるのを待っている。それから、ゆっくりと一見平凡に見えるひとりの無口な男の日常が紡がれていく。全てを見終わった時に、思わずため息が漏れた。画角自体は、スクエア型で両端がすっきりしている。最近あまり見ないタイプで、フィルム調の雰囲気も私の好きな感じだった。

 こうしたありふれた日常を描いた作品として『PATERSON』が思い浮かんだ。人の日常は毎日同じように見えて、その実少しずつさまざまなドラマがある。私は、日々トイレ掃除に精を出す平山の生活と、彼の人生に愛を覚えた。湯を沸かすほどの、深い愛。確かにそれは完璧な日常で、毎日規則正しく生活する人の姿は、こんなにも美しいのかと思った。

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 ぼんやり頭の中で、そういえばなんでこの時期って、「初春」っていうんだろう? と唐突に問いが浮かぶ。

 初冬とは言わないよね。きっと旧暦とかそういった時代背景もあるのだと思うけど(あえて由来は調べない)、でもなんとなく初春という言葉は正月というこの季節を表すピッタリの言葉のように思える。みんな、新しい年を迎えたら温かい気持ちで迎えたいもの。

 たとえ新しい年を迎えても、人々の日常は変わることなく進んでいく。でも、確実に変わるものもある。この文章を書いている途中にグラグラと足元がおぼつかなくなるほどの揺れがあり、わーんわーんと携帯が一斉に鳴り出す。ふと13年前の大震災のことを思い出した。おめでたい日であるにも関わらず、こうして恐怖に直面した人たちのことを考え、胸がザワザワした。

 どうか、今年平穏でありますように。みんながみんな、自分のことを考えずに誰かの平和を思っていたら戦争なんて起きないのに。不確かで不透明になりつつある日常のことを思い浮かべ、被災地の方々が一刻も早く安心して眠れる日がきますように、とただただ祈った。

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