そういえば烏丸さきのBGMってあさココと同じだったね、とタイトルで釣りつつ烏丸さき/ウノアキラを今さら掘り起こす

「この界隈でやっていこうとするのであれば、定義付けは結構大事になってくる。しかも問題が起きてしまった場合は特に」(ウノアキラ、2019年、YouTube配信『顔出し配信』より)

(*前置き:本稿は上記の配信や、ウノアキラ氏のYouTubeチャンネルに投稿された動画内容やコメント、氏のTwitterでの発言などをもとに構成しています。また幾らかの運営の声明についての言及もありますが、本稿は批評・評論として行っており、誹謗・中傷などの意図はありません。事実と異なる場合にはただちに訂正・削除を行います。あと、本稿は「定義付け」の話で「定義」の話はほぼしません)

1、序:「烏丸さき/ウノアキラ」というVtuber、のちにYouTuber

かつて、烏丸さきというVtuberがいました。

おすすめVtuberの紹介、V界隈の数値データの集計と考察など、Vtuberを取り巻くメタ・二次的な情報を主要なコンテンツとして活動していました (OP冒頭のBGMはなんと『あさココ』と同じだったりする)。

特に、一時期ウザがられていた粗悪な「Vtuber風広告」に苦言を呈した動画がバズり、後発の単騎型・企業系Vtuberとしてはなかなかの成功を成し遂げました。

その後も、Vtuber大百科の開設、Vtuberとして伸びる方法についての情報発信など、Vtuber界に明るい未来を感じさせるような方向性を次々と打ち出していくのが特徴でした。

しかし、2019年の6月あたりから、不穏な空気が漂ってきます。

実際に裏であったことの内容は推し量るしかありませんが、何か企画の練り直しを迫られる事態があったようです(下記の配信など本人談や当時のTwitterから察するに)。

それまで活発に行われていた動画投稿の頻度は減少し、ツイキャス配信などはあったものの(余談だが歌うまだった)、一ヶ月ほどの休止がありました。そして、その沈黙を破る形で発表されたのが、以下の『顔出し配信』になります。

なんとそこに登場したのは演者である「ウノアキラ氏」でした。チャット欄でのコメントに回答しつつ、様々な事柄に関してウノアキラ氏の見解を述べるとともに、以後はアバターの使用をやめYouTuberウノアキラとして活動する旨が発表されました。

その後の活動内容は、それまでと比べ、見事に反転したものとなりました。

動画の内容はこれまで述べてきた夢想家じみてすらいた理想から、その裏にあるV界隈の実情やキャリアとしての観点などの現実的な論点に変わり、それらは明るい内容とは言い難いものの、東大卒を名乗るだけあって変わらず分かりやすくまとめられたものでした。

活動方針を端的に示すキーワードして挙げられるものがあるとしたら「終活」でしょうか。目的があってVTuber界に参入してくすぶっている層が活動をいつやめるか、どうやめるのかについて、氏は関心を寄せていたようです。

しかし、そのスタイルに変更してからも程なくして活動は休止状態になり、その後は今に至るまで沈黙を続けています。

2、導入:ウノアキラ氏の言葉をサルベージしてみる試み

結果的に、氏はYouTuberとして「好きなことをして生きていく」こともなく、大きく炎上してネット社会のおもちゃになることもなく、おそらくそれまでの生活に戻ったと思われます。 (未だどこかでVtuberに関わっていると嬉しいというのが本稿の趣旨ですが不明。知らない。) 今頃楽しくARKでもしているのでしょうか。まさかV界でこんなに流行るとは予想だにしなかったことでしょう。

さて、そんな駆け抜けるように過ぎていった氏のVtuber/YouTuber活動から、我々は何を学ぶべきなのでしょうか?

Twitterなどで検索するとそれなりの意見が見つかります。しかし氏の、とりわけ顔出し後の発言についての解釈・考察については今のところ上手く見つけられていません(はてな・増田とか、それこそnoteにあったらごめんなさい)。私はその部分こそが大事だと思ってこの文章を書いています。

氏は、おそらく畑違いの領域からVtuber界隈に乗り込み、様々なことを体験しおそらく一生懸命考えてくれました。これを拾わない手はないと思う訳です。そう思ってもいいよね?いいよ。

上述した「終活」やニーチェの「君主道徳・奴隷道徳」など、氏がVtuber界隈の諸問題について提起したかったらしい論点はいくつもあります。

しかし今回はその中でも冒頭に引用した、「この界隈でやっていこうとするのであれば、定義付けは結構大事になってくる。しかも問題が起きてしまった場合は特に」(当該動画1:41:47あたり)という内容について考えてみたいと思います。

3、本論:「Vtuberの定義付け」ー「CTuber」「分人(?)」などコンセプトの濫用を見られる「定義付け」の重要性

2019年以降のVtuber業界は、成長は続くもののある種の幻滅が生じた時期と考えられます。

2017年、2018年に登場し、大きな成功を成し遂げたといって過言でない複数のVtuberコンテンツの運営での(よく分からない)トラブルが明るみになり、SNSがいわゆる炎上をし、何故か運営から(多分に抽象的な)公式声明が発表されるという事態が何度かありました。

そもそも「Vtuber界隈炎上し過ぎ問題」というのもありますが、それは何度となく語られていると思うので割愛。

それよりは、各運営から妙に抽象的な声明が出るたびに「ああ、そういえばウノアキラが以前何か言ってたなあ」と思い返していたので、その内容をお伝えしたいのです。

そして要点を先に述べてしまいますが、本稿で取り上げるのは「運営の発表する抽象的な声明に見られる問題点」であり、それに対し提案したい内容は「Vtuberには定義付けをちゃんとしてくれる人=『文芸・設定考証』みたいなものが必要だったのではないか?」というものになります。

では早速、いくらかの声明をエントリーさせていきましょう。まずはCTuberです。

次に「分人(?)」です。

それぞれの文章の論法・構造は(概ね)似ていて、要約すると「ファンの皆さんはVtuberというものをAとお考えだと思うのですが、我々はBと考えております 」というもので、概ね本文は「B」の説明に割かれています。

要は解釈違いの話なのですが、以下の二つの問題点が挙げられます。
・「A」=「ファンにとってのVtuberとは何なのか?」への説明がないこと
・「B」を説明するための「CTuber」や「分人(?)」などの概念が曖昧なこと

この時点でおおよそ明らかだと思いますが「定義付けは結構大事」なことが分かります。「A」の定義や説明がないのに「B」という独自性を説明されても分かりません。「曖昧なもの・分からないもの」を起点に論を立てるのは不毛です。

ついでに言うと「世界観・概念の整理」もそこそこ大事そうです。とりわけ「分人(?)」に関しては元々の平野啓一郎氏の「分人主義」の解釈として本当に妥当なのか個人的には疑問です。CTuberについても、概念を提唱するのは良いのですが、Vtuberとどう違うのかについて、あえて指摘する必要もないくらいその説明はふわっとしています。世界観・概念の扱いが曖昧だと、そこから自らの行為の正当性を導き出すことが難しくなります。

結論を急ぎます。ウノアキラ氏の考え・発言は正しかったと思います。そしてこの考えが実際のVtuber業界の運営・演者側に共有されていたか? その答えは間違いなく「いいえ」でしょう。

では氏のような人物が、上述したような運営にいたら何か変わったのでしょうか? その答えは「おそらく変化はなかっただろうが、炎上への対処のような危機管理には役に立ったかもしれない」といったところです。

もしかしたらVtuberという存在が、かつて「烏丸さき」が唱えたように、より新しい概念に近づいていたのかもしれません(下記動画参照)。とはいえ、その実現はまだまだ遠く、理想論の範疇を出ないでしょう。

それでも、その後もRPやプライベートの事柄含め、よく分からない炎上が繰り返し起き、不可解な対応がなされ「運営・演者・ファンにとってVtuberとは何なのだろうか?」という疑問が脳裏をよぎるとき、「定義付け」の問題は想像よりも軽いものではないと思わされます。

もう少しVtuberの定義付け・概念の整理がちゃんとしていたら、今とは違った未来があったのではないだろうか、と考えるところはあり、設定考証や構築など、分かりやすく「クリエイティブ」とは思いにくいところにも意味があるのかもしれないと考えるのです。

そして、以上のように振り返ってみて、烏丸さき/ウノアキラ氏の発言は、こうやって掘り起こして考えてみるだけでも、それなりに歯ごたえがあることが改めてわかりました。

4、おまけ:期せずして生まれた表現面での氏の功績ーVtuberの「死」

おまけです。

烏丸さき/ウノアキラ氏が提供した内容は、主にVtuberの「メタ」コンテンツでした。実際それで少なからず成功を収めているのでそれは良いとして、それが表現の面で新奇でクリエイティブな活動かと言われたら、おそらくそうではないでしょう。

しかし烏丸さき/ウノアキラ氏は、上述の『顔出し配信』以後、期せずして非常に興味深いことをしました。

上記の配信でウノアキラ氏が表明・志向したのは「Vtuberから人間に戻ること」でした。「現状Vtuber界隈でこれは禁忌となっている」「この役割は自分にしか出来ない」と本人は述べています。

果たしてウノアキラ氏は実写のYouTuberとしての活動を開始し、確かに人間に戻りました。そしてそれに伴い、以下のことを述べています。
・「烏丸さき」はウノアキラ氏の1アバターと明言
・「烏丸さき」としての活動を引退も休止もするわけではない

一方で、これらを演者であったウノアキラ氏本人が述べることによって、それまで存在していたキャラクター「烏丸さき」には何が起きたのでしょうか?

すでに配信動画へのコメントやTwitterに同様の意見が多々書かれていることではあるのですが、「ウノアキラ氏の登場により『烏丸さき』が死んだ」という解釈が迫力があって好きです。

どういうことかというと「顔出し配信」後の「烏丸さき」については、キャラクター付けを行うことはもはや不可能になってしまった、ということかと思います。その不可逆性を持って「死んだ」と表現するのはまあ理解できます

単に引退・休止するだけであれば、キャラクターの一貫性は保たれます。
コンテンツの方向性が反転するだけでなら、解釈の余地もあるでしょう。

しかし、「アバター」としての宣言とコンテンツの方向性の反転が、ほぼ同時に行われることによって、Vtuber「烏丸さき」のキャラクターとしての一貫性は失われ、その解釈の余地も大幅に狭められたといえます。

演者とキャラクター(Vtuber)が似たような方向性で活動をやっている、という演者はそこそこの数が存在しているのですが、演者とキャラクターでは全く反転したことをやっている、というのはかなり異端で強烈な印象を受けます。加えて上記のような配信でのデモンストレーション付きというのは欲張りセットが過ぎます。

かくして、ウノアキラ氏はVtuberから人間に戻り、Vtuber「烏丸さき」は「死んだ」と言っても過言ではない良くわからない状態になりました

こうしてみると、ある種の、おそらく不条理系の紋中紋、枠物語として捉えることも出来ると思われます。正直、ウノアキラ氏にはこの辺りの問題を半自伝的に小説化して、SF界隈で出版してほしいくらい。

(とりわけコンテンツとして強烈だったのは、とある絵日記でした。すでに削除されていますが、Vtuber界隈で見た二次創作的なコンテンツとしては最も尖ったコンテンツだったと信じて止みません)

まとめますと、ウノアキラ氏は非常に興味深いことをしたと思います。それも「Vtuber界隈の外側に発信する」という氏の表明した活動によってではなく、「Vtuber」という概念を巧みに用いてある種の不条理な構造を構築してみせた、「烏丸さき」という自身が演じたキャラクターを「死んだ」状態にしてみせた、という点においてです。しかも解釈の余地がないようにかなり念入りに。おそらくそれは氏が「人間に戻る」には必要なことだったのでしょう。

その念入りさ・丁寧さは「運営・演者・ファンにとってVtuberとは何か?」という、おそらく氏が繰り返したであろう思索の上に立脚していることが想像され、どこかアカデミックで、どこまでも東大生だなあと、ある種の感慨を禁じえません。みたいな感じで本稿はおしまい。

5、まとめ:まだまだ掘れそう

・「顔出し配信」は繰り返し、折に触れ視聴したい動画。面白い
・楽しそうに話す内容より迷っていたりボソッと呟くような内容が興味深い
・烏丸さき、あさココのベンチマーク論、という陰謀説が思いついて消えた
・なんかまだ書けることはありそう

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