「Q」とホロライブEN Mythについて2020年を思い出しながら今更いろいろ考えてみる

熱狂を巻き起こした「英語による日本文化コンテンツ」の在り方。

本稿は、カバー株式会社が運営するホロライブプロダクションの英語話者Vtuberグループ「Hololive English」からデビューした最初のユニット「Myth」の"Gawr Gura"と"Mori Calliope"の2人による楽曲「Q」を主軸にMythのコンテンツの特徴とその凄さについて論じてみるものである。

同曲の発表は2022年2月であり時間差があるにも程があるのだが、当時別テーマで書いてみるもまとまらなかった下書きを読み返したところ、昨今の状況についても通じるものがあるかもしれないと思い、再構成してみることにする。

要旨を先に述べると「2020年にデビューしたMythの凄さは英語による日本文化コンテンツの体現にあった。しかしこれが模倣され主流になったかというとそうではないのではないか。凄すぎて真似できなかったのではないか」である。


1、Mythが作り出す「新しい日本文化コンテンツ」と熱狂

さて、始めよう。以下が「Q」である。

歌っているのは"Gawr Gura"と"Mori Calliope"の2人であり、日英2言語による歌唱・ラップが行われている。その作詞・作曲にはMori Calliope本人とともに、ボカロPとして有名なDECO*27氏の名前があり、Gawr Guraの「日本語」ボーカルとMori Calliopeの「英語」ラップが組み合わさった曲になっている。

そして動画のアニメーションも、日本のアニメ的な演出で構成されており、どういった方が担当されてるのか気になって、クレジットのKay Yu氏について検索してみたら以下のインタビューが見つかったので紹介する。

記事によると氏は米国マサチューセッツ出身のアニメーターであり「ソードアート・オンライン アリシゼーション War of Underworld」などのアニメの制作に参加した経験があるとのこと。(該当する話数のクレジットはホロプロを追っている人ならば他の驚きもあるかもしれない)

この時点ですごくおもしろい。

あれこれ書き連ねていると長くなってしまうので、先に話の主題を書いておくと、この動画は「日本文化コンテンツの境界線のやや内側」あたりを狙って製作されていてすごい気がするということが言いたい。

「日本文化コンテンツ」とか言い出して突然どうしたの?と思われるかもしれない。これは以前Mythのデビュー後に書いた以下の文章において言及した話題であり、本稿はその文脈を前提としている。

摘要を述べると、記事の一部において「日本文化コンテンツに興味がある層にとってやはり言語が高い壁であったこと」、そしてそれ故に「『翻訳を待たずに見れる日本文化コンテンツ』がいかに待望の存在であったか」「それがMythの巻き起こした熱狂の本質である」と述べた。

そこから一年と少し経って発表されたのが「Q」である。その出来栄えに当時、筆者は驚嘆した。何が驚きだったかといえば、デビュー時よりもさらに「日本寄り」になっていると感じたからである。

Mythはデビュー時から、流暢な日本語が喋れるメンバー、日本の習慣・文化について造詣の深いメンバーがおり、大半の配信は英語で行われるものの、かなり「日本的」であることが意識されていたように思われる。実際に「翻訳を待たずに見れる日本文化コンテンツ」というような形容がなされたことからもそれはうかがえる。

(このあたりは実際のところどうだったのかはよく分からない。ホロライブJPとの連続性の維持を意識したのかもかもしれないし、日本語の歌を歌っていたのは音楽などの著作権の問題だったかもしれない。これについてはインタビュー記事などを探したら言及があるかもしれない)

そこで「Q」である。筆者はこれを彼女らが日本文化コンテンツについて深く理解をした上で「ホロライブEN」として「新たな日本文化コンテンツ」を作ろうとする試みではないかと考えた。

その後も、特にMori Calliopeは、様々なクリエーターとの活動を積極的に行い、最近では漫画「ONE PIECE」の単行本の公式テーマも担当している。これは最新の日本文化コンテンツに参画しているといって過言ではないだろう。

2、すごすぎて後が続かなかった疑惑と、もしかしたらそこにあるかもしれない幻滅

ここまで大きな熱狂を作り上げたMyth、それならば誰しもその方向性を目指してみたくなるものではないだろうか。Gawr GuraやMori Calliopeに迫るようなVtuberが現れても良いはずではないか。

だが、Mythのデビューから3年が経過した本稿執筆時点からしても、そのような存在はいまのところ見当たらない。例えばMythのデビューの直後に発表され、海外の有名Vtuberが参加していたVShojoもその方向性は違ったものであった。

Mythのデビューから半年と少し経って発足したNijisanji ENも、初期のLazuLightの頃は方向性の類似も感じられたが、その後、規模が拡大されるにつれて提供されるコンテンツは独自色を強めていったように思う。おそらくここではVox Akumaの名前も挙げるべきなのだろうが、その魅力も上述した「新たな日本文化コンテンツ」やそれを作り上げる試みとはやや違うところにあるように思う。

暴論ではあるのだが極論すると、結局のところ第2のMythを生み出すことには世界中の誰も成功していないように思う。

これは必ずしも悲観を述べるものではなくて、その後も多くのVtuberがデビューし今も世界中でそれが続いているというのは、様々な方向性のVtuberの活動が提案され、またコンテンツが発信されているということでもある。いっそシンプルにGawr GuraやMori Calliopeが凄すぎたと言ってしまっても良いと思う。

しかし2020年にあった熱狂の根本に立ち返ると、その後派生した様々な方向性の全てが、その熱狂に応えたものであるかというとそうではないとも言える。その後に起きた様々な事務所でのトラブルも含め、Vtuberというものについてある種の幻滅というものが起きていてもおかしくはない。

3、2020年は正しく相対化されるべき

では2020年に戻ればいいのかというと、そこまで単純なものではない。これまでの様々な活動やその間に現れた多様な方向性のVtuberはすでに存在しているのだから。単純な過去への回帰は、活動の制限や他のVtuberの存在を否定することに繋がる。それらこそはこれまでの種々のトラブルを引き起こして来ている遠因・原因である。

結論を急ぐと、2020年の熱狂は適切に相対化されるべきだと思う。ホロライブ4期生の成功、世界的なYouTube視聴者の増加、Mythに集った才能など、そこには再現性のない要素が大きすぎたように思う。輝かしい成功や成果ばかりが取り上げられるのではなく、そこに至った文脈や現在の状況との違いなどが理解されるべきだと思う。

そして未来に向け私見ではあるが期待するのは、Mythとはまた違った形で更なる「新たな日本文化コンテンツ」が生み出されることである。本稿では日本文化コンテンツというものをほぼサブカルチャーの言い換えとして使用しているが、それでもなお「日本文化コンテンツ」はもっと広範なものだと考える。Mythのようにそれが正しく理解・解釈されることで新しい・面白いものは生み出されるはずだ。

そんなものは現れない、現在の成功者が存在している場所だけが存続可能な領域なのだ、という意見もあるかもしれない。しかしVtuberというものも人口に膾炙して随分と経った。Vtuberのコンテンツを見てきた層がコンテンツクリエーターの側に回り始めてもおかしくない時間である。

7年前の2016年にはVtuberという存在がここまで広がるとは誰も予想していなかっただろうし、さらに7年前の2009年は初代Project DIVAが発売されたくらいで現在のプロセカの方向性を誰が想像できただろうか。

このような筆者の意見は畢竟、日本語話者以外のVtuberに多大な期待するということで気の長い話ではある。まずは「日本文化コンテンツ」がVtuberを介して発信される「バーチャル化された形式」にならないといけないし、さらにそれが他言語の文脈で翻訳され再解釈されなければいけない。

しかし、それでも待つべきだと考える。なぜならば、このバーチャル化と翻訳・再解釈の試みは翻って日本文化コンテンツを豊かにするように思えるからだ (上記拙記事参照)。

たぶん現在もなにかしら新しいことを始めているVtuberはいる。幅広く日本語および他言語のVtuberのコンテンツに目を通すことで、まだ見ない新しい可能性を発見できるかもしれない、という過去一で放り投げた結びを書いて本稿はおしまい。

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