海外のVtuberについてあれこれ。そして2019年をちょっと思い出す

歴史は繰り返す?


1、2020年はすごかったですね

2020年を振り返るつもりで書いた以下の記事。一言でいうと「Vtuberという概念が日本から海外に広がっていてすごいですね」という内容。

この記事を投稿してから思ったよりも時間が経った。さて、読者諸兄姉に「The Future JP」はやってきただろうか?結局これが一体なんだったのか筆者にはまだ分からない。

とはいえVtuberという名称は、その後も留まることなく世界(のオタク)に広がっている。海外のマンガ・アニメの大きなイベントでVtuberが取り上げられることももう目新しいことではないといえる状況にある。爆発的に広まったものとはいえ、本格的な起点は2017年、2018年にあることを考えれば、これは大変なことと言えると思う。

現在、世界で最もYouTubeのチャンネル登録者が多いVtuberは英語話者であり、その登録者数は400万人を超える。この数字を多いと感じるか少ないと感じるかは読者に委ねるとして、世界には少なくともこのくらいの数のライト層も含めたオタクがいると見積もるのに便利な数字かも知れない。

今後もVtuberという概念は広がり続けていくだろう。今後も振り返るたびに、2020年が大きな転機であったということに疑問はないと考えられる。

2、2023年はどうですか?

さて2023年である。といってもまだ半ばなので2022年のことも含むのだが。

とても雑にいうと、色々なことがあった。これまで比較的ポジティブな面を紹介してきたのだが、残念ながらネガティブなこともあった。

ここでは具体的に述べることは避けるが、それらは、企業所属の英語話者のVtuberたちを中心に、その企業との規約・関係に基づく誰もが望んだ形とは判断し難い経緯での卒業や契約終了であったり、Vtuber同士でのコラボレーション等に起因するVtuberと一部のファンとの意見の相違であったりした。

(これらの出来事についての仔細を述べたいわけではないので名前は伏せますが、公式のアナウンスであったり元の配信など特定のものを指しておりそれ以上の情報・内容は全く知りません)

実際に何があったかは部外者には何も分からないが、企業所属のVtuberという特殊な契約関係と、Vtuberというものの特徴も相まって、企業、演者、そしてファンの間で良好な関係を維持することはなかなかに困難であるということが、英語話者の世界においても成り立つということは認めざるを得ないと思われる。

企業、演者、そしてファンにとって、Vtuberというものはいったいどのような概念なのだろうか。未だこの新しい存在にまつわる諸問題に対して明確な答えを持てないでいる。

……。

なんだか、こんな流れ、どこかで見た気がする。

3、この流れ見たことないですか?2019年くらいに!

企業所属のVtuberとその運営企業との問題、Vtuberのコラボレーションにまつわるファンとの軋轢。上記の出来事はこのような観点で並べると、2019年に日本の企業Vtuberを中心に起きた出来事が想起されてくる。どれも「どうしてそんなことが起きてしまったのか」「どうしてここまで大きく物議を醸すことになってしまったのか」というような疑問が尽きない時期だった。

(これらも実際に公式のアナウンスや配信で発信された内容をもとにしています)

そして類似性の見られる現象が、なぜ英語話者の世界でも起きてしまったのか、その正確なところは分からない。契約やマネージメントについて英語圏に合わせた適切な対応ができていなかったのかもしれないし、もしかしたらVtuberを取り巻く人間の集まりには、言語圏によらずどこか共通のパターンが存在するのかもしれない。

大成功と言っても過言ではないこれまでの流れ、そして大きく広がっていた夢のような成り行きにどこか幻滅が生じた、とすら言えるのかもしれない。

4、これからどうなるの?

我田引水ではあるが、2019年の日本の出来事と英語圏の出来事にどこか類似性があるというのがもし本当なのであれば、これから何が起きるかについてもいくらかは推測できるかもしれない。

大まかなところからいうと、新しい存在が出てくる限りは、ある種の幻滅はあるものの、ジャンル・概念としての成長は続くと思われる。

また今後は規約やルール、マネージメントの方法が整備され、それらを原因とするトラブルの発生が、少なくとも表立って公式からアナウンスが出るような規模では少なくなることも予想される。

細かいところでいうとVtuberから発信されるコンテンツが、より無難なものに近づき、様々な意味で刺激的ではなくなるかもしれない。

とはいえ、2020年以降に日本のVtuberの視聴者が(なぜか)目にしたような、大小のトラブルについての公式からのアナウンスは、今後も英語話者Vtuberに関しても目にすることは念頭に入れておいても良いかもしれない。

これからも楽しい知らせと、時には悲しい知らせがきっとやって来るだろうし、そのいくらかにはあたかもどこかで聞いたような顛末も含まれると思われる。

5、もしもトラブルが言語・文化によらないのなら

(長いので下部の太字を含む部分だけ読むことをおすすめします)

上記したように、英語話者のVtuberを取り巻くトラブルと、数年前の日本での出来事に類似性が見られることについて、「もしかしたらVtuberを取り巻く人間の集まりには言語圏によらずどこか共通のパターンが存在するのかもしれない」と述べた。

自分で書いておいて正直疑わしくはある。ここでは類似していると思ったところを取り上げているからそれらしく見えるだけかもしれない。またパラソーシャルな関係について言えばVtuberに限ることではなく、また言語にも依存しないので新しい論点でないと言われればその通り。

一方で、Vtuberのような日本のマンガ・アニメ文化に立脚する概念を取り巻くトラブルの本質が言語圏に依存しないとは、荒唐無稽だとも思う人もいるかもしれない。

しかし、もしこれが成り立つなら、これも既に述べたが日本での事例を参考にし、他の言語圏ではまだ起きていない出来事を予測・対処できる可能性がある。

さらには、かなり願望めいた仮説だが、以下のようなことも考えられる。

  • Vtuberを取り巻くトラブルの本質は、その活動様式や周囲を取り巻く人間達の構成や性質によるものであって、日本語圏(=日本)の特殊な点に起因するものではない

どうして突然こんなことを述べるのかと言われれば、上記したようなトラブルに関するツイートやredditを読んでいると、時に日本の文化の特殊性について言及したものが散見するためだ。

例えば「日本のアイドル文化 (Japan's idol culture)」なる言葉を目にするのだが、残念ながらそこにはどのような定義に従うかの記述はなく、また参考とする文献の引用もないため、いつの時代のどのような文脈なのか筆者には分からず、しばしば困惑する。結局のところ日本の文化を「知らないよく分からないもの (the unknown and the unfamiliar)」とし、そこを議論の落とし所としているようなきらいがある。

Vtuberというものが最初に大きく広まったのが日本であることは承知している。しかし、それを取り巻くトラブルに関しては、必ずしも存在するか分からない文化の対立構造を前提とするのではなく、パラソーシャルな関係に基づく活動者を取り巻く、一般的な出来事として捉えられるべきだと思う。

簡単にいうとVtuberのトラブルを日本の文化・習慣のせいにするのはよくないし、Vtuberの権利や自由を制限するのに日本の文化・習慣を持ち出すのも無意味だと言いたい。(これは日本語圏の内部であっても同様に。さらに言えば権利や自由を自発的に放棄するように要求する・詭弁を使って仕向けることも極めて卑劣だと思う)

この仮説は現段階では説得力に欠けるが、いつか少なくとも日英2カ国語の資料や文献を集めて考えてみたいところ。

おまけ:ここはいつ見ても変わらない。Vtuberはなりたい自分になれる

なんとなく暗い気分にもなったので、久しぶりに覗いてみた。楽しい。

Vtuberは本質的に自由なものだと思う。そうあってほしい。

女性が男性に、男性が女性に、若者が老人に、老人が子供に、はてまた宇宙人に、幽霊に、異世界人に。想像の及ぶ限りになりたい自分になる。そんな思いを性別、年齢、そして国や文化圏、言語圏を超えて共有できる、そんな世界の一層の広がりを願って止まない。というようにそれらしいことを言って本稿はおしまい。

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