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『あかり。』➀ 相米慎二監督の思い出譚

相米慎二監督という映画監督がいた。いまから20年くらい前に病気で亡くなってしまった。
いま、当時のことを思い出しても胸が痛くなる。

監督が残した映画は全部で13本。その映画には多くの資料や証言が残されているので、詳細はそちらに譲りたい。DVDもある。未見のひとは、ぜひ見ていただきたい。

よく、映画監督が映画を撮っていないときにどうやって暮らしているのか?と半ば、興味本位に話題にする人がいるが、実際のところ僕も同じように思っていた。
自分でも映画を撮ってみて改めてわかったのだが、監督料などほんとに雀の涙で、数ヶ月ギリギリなんとか暮らせる程度のものでしかない。

映画が実現し、脚本を作り、撮影し、公開するまでには何年もかかる。
つまり、なんらか他のことをして収入を得ないと、生活できないことになる。
当たり前だが、映画監督も僕たちと同じ生活者である。

一つの例。

映画監督は、例えば、稼げる女の人と暮らす。それが女優の場合もあればスタッフの場合もあれば、映像業界ではない女性の場合もある。
監督が女性であった場合は、聞いたことがないからわからない。失礼でとても聞けない。

独身の場合。実家が裕福・・・これはあまり聞いたことがない。貢ぐ人が男女に関わらずいる・・・これも噂レベルでしか聞いたことがない。

では、どうするかといえば、若手なら深夜ドラマを撮る、あるいは他のドラマを撮る、いまならNetflixもあるけど、昔はそんなのなかった。

映像派ならミュージックビデオを撮る、そして多くの場合CMを撮るのだ。CMの場合、誰が監督したかなんて、業界誌にしか出ないから、一般的には知られないことが多い。


あと、いま負の話題になっている演技を教えるワークショップもあるが、あまりに単価が安いので、生活費というより飲み代くらいにしかならない。
今なら、芸術系の大学や専門学校なども多くあるので、そこで先生をやってる監督も多くいる。


というわけで、というか、当時の相米慎二監督は、一時期、CMを撮っていた。
僕は、CMの仕事で監督と出会った。
まさか、その出会いが自分の人生をこんなふうに変えてしまうとは、その時思いもせず、ただ自分の焦燥感から、相米慎二監督の現場で勉強してみたいと考え、志願兵として参加したのだった。

いま、こんなことを思い出しながら書いてみようと思ったのは、いくつか理由があるけれど、それはおいおい・・・。

これは、今となっては昔日の思い出話だ。


それが果たして今を生きる若い人たちに、どんな意味があるかわからないけれど、とにかく書いてみようと思う。

あの頃、僕は相米慎二監督と出会えて、ほんとうによかったと思っている。


素晴らしいひとだった。
まるで、暗い海に浮かぶ小舟から見る、灯台のあかりのような人だった。

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