思想なき思想の時代
先日アップロードしたnote記事に関して、様々な感想をいただいており、嬉しい限りである。
参考 前回のnote記事
普段は私のnote記事などにあまりコメントされないような方からも感想をいただいており、非常に勉強になっている。
その中で、一つ面白い感想があったので、取り上げてみたいと思う。
これは、要するに、フェミニズムも、アンチフェミニズムも、「思想」が失われており、文章を読解するにあたって、そこに内在している思想が読み解けなくなっている、という指摘だ。
確かに、フェミニズムというのは、「イズム」なのであるから、主義主張の意味であって、世間一般のイメージでは、それこそがまさに思想であると考えるだろう。ならば、それに反対する側(暇空茜氏やアンチフェミニスト)も、まさしく思想に基づいて発言しているのではないか、と考えるのが普通だ。
しかし、それにもかかわらず、そこには「徹底した思想のなさ」が存在している、というのだ。
なぜか。
この指摘を理解するためには、「思想」というものの本質を考える必要がある。
イデオロギーideologyとは、ギリシア語で理想などを意味するイデアideaと、「論理」あるいは「語られたもの」を意味するロゴスlogosの合成語である。
すなわち、社会や世界をある理想の形態(イデア)とするための価値規範、平たくいえば、社会はこんなふうにあるべきだというビジョン(男女平等とか自由とか物質的豊かさとか)があって、そこに至るためには人間はどう振る舞えば良いかとか、どんなふうに物事を捉えるべきか、といった一連の考え方や価値観を体系的に言語(ロゴス)にしたものである、ということになる。
要するに、普遍的で、論理的な、価値判断の基準を、私たちは一般に思想、「イデオロギー」と呼んでいる。
そんなもの、政治や社会に興味を持つ、いわゆる「主義者」なら、だれもが当たり前にもっているものじゃないか、といわれるかもしれない。
わたしも、かつてはそう思っていた。
だが、現実に、そのような思想を確固として保持している人は驚くほど少ないし、なんなら、思想を窓から全力でぶん投げることが、当世の「一貫性」だと勘違いされている節さえあるのである。
その話を、今日は書いていきたいと思う。
1 フェミニストはフェミニズムなんかちっとも信じていない件
たとえば、フェミニストと自称しているXのアカウントを一つ二つ観察してみればいい。
所得や政治家の男女格差の話になると、男女平等を勇ましく叫ぶくせに、共同親権や上昇婚、奢り奢られ論の話になると、とたんに男女の違いを強調し始め、女性専用スペースやスポーツ男女の別について論じる段になると、いかに女性が弱い立場で、女性身体が脆弱であるかを熱弁する。
そんな本質主義と構築主義の間を振り子のように行ったり来たりしながら、場当たり的な主張を繰り返す自称フェミニストのアカウントを、いくらでも発見することができるだろう。
私があきれ果てたのは、DJSODA氏を巡る言説だ。
びっくりするほどのファボが集まっている。ちなみに、論争の基になっているのは、このグラビアだ。
私も、DJSODA氏の国籍とか過去の言動をとらまえて、グラビア活動自体を批判する向きには反対だ。扇情的なファッションで読者を楽しませ、それを商売にする自由はあるし、それこそがまさに表現の自由というべきだろう。
だが、問題は、DJSODA氏のグラビア活動を良しとする人々、「主体的な女性の自己表現」だと肯定して見せている人々が、それまでにどのような主張をしてきたか、ということだ。
フェミニストの多くが扇情的なグラビア写真一般を批判してきたという、いわば「ダブスタ」は、検索すれば指摘することができるが(実際、過去ツイートを検索すると、ツイ主の柏木氏自身も、日本のグラビア文化に対して何度か否定的に言及されている)、それは本質的な問題ではない。
大事なことは、そうしたグラビア写真や萌え絵を批判するフェミニストの根拠であるところのフェミニズムがどういう「思想」であったか、ということだ。
いわゆる「性的消費」批判は、児童を含め、それを目にした人々が、女性一般を性的快楽のための道具として認識し、女性自身の意志を無視して性的な快楽のためのモノ扱いするようになる(結果として、それが男女差別の再生産や拡大に寄与している)という女性の「性的客体化(性的モノ化:Sexual Objectification)」を問題視してきたわけだ。
それを念頭に置いた上で、DJSODA氏の表紙写真を見てみれば、どうだろうか。
「このカラダ、すごすぎる」との煽り文句をつけ、女性の人格ではなく「カラダ」にフォーカスする作意のもとで、明らかに扇情的なポーズでモデルが微笑む構図をとっている。
そして、掲載誌のプレイボーイは全国のコンビニでも取り扱いのある、いわゆる「一般誌」なのであって、広く男性一般の性的快楽のために消費されるだけでなく、判断力の未熟な児童の目にも止まるものである。
であるならば、DJSODA氏本人が悪くないとしても、それが「性の商品化」を通じて、女性の身体を性的客体化するように機能しうる表象だ、と評価しなければフェアではないだろう。
別に積極的に批判しなくとも、留保をつけるだけでもいい。
これは、一般論としては良くない、差別を助長する効果のある写真なんだけども、それでもDJSODA氏が主体的に仕事に取り組んでいるのは好ましい、といったような論調もありえたはずだ。
だが、現実には、萌えイラストやグラビア雑誌をかつて批判していた人々が、同じ口で、DJSODA氏のグラビア活動は、性的に主体的な活動だから好ましいことだ、自立した女性の自己表現だと、手放しに賞賛する声がSNSに溢れている。
こうした光景があまりにも何度も何度も繰り返されてきた。
私は、そうした人々の主張を、ずーっと見てきたし、反論したり議論したりもしてきた。
なんでこういう主張が出るのかを知ろうと、観察もしてきた。
そこで、一つ私が分かったことがある。
フェミニストは、フェミニズムなんか、心の底ではちっとも信じていないということだ。
彼ら彼女らにとっては、フェミニズムを信じているから、フェミニストなのではない。
フェミニストの「敵」と戦うから、フェミニストなのだ。
DJSODA氏は、韓国人で、女性で、そして日本人男性の性加害を告発してくれた当事者だから、味方。味方がやることは、性の商品化だろうがなんだろうが、主体性のある行為で擁護する。
萌えイラストの作者は? 敵だ。女子高生の主体的な表現だろうが、女性の制作者だろうが、敵の味方をするのは敵なんだから、主体性のない自己客体化の産物。あるいは男社会の被害者。
敵か、味方か。
その素朴な色分けだけが、現代のフェミニストをフェミニストたらしめているのであって、フェミニズムなどという思想は、もはや邪魔でしかない。
その証拠に、ここ数年のインターネット・フェミニズムは、「思想」としてのフェミニズムを唱え、主張する、専門の学者や研究者への敵視・排除が顕著な特徴として立ち現れはじめている。
TERFという現象は、その必然的な帰結だ。
フェミニズムなきフェミニストの運動、これがインターネットにおける最新の「フェミニスト」のスタイルなのである。
2 思想なきアンチフェミニズムの極北としての暇空現象
じゃあ、その思想なき思想と化したフェミニストに対峙する人々は、体系だった思想を持っているのかと言えば、まったくそんなことはない。
私が言うのもなんだが、アンチフェミニズムの側こそ、惨憺たる有様である。
それもそのはずで、単にフェミニズムのアンチでしかないのだから、フェミニズムが本質主義と構築主義の間で揺れ動いている以上、そのアンチを張っている側も、腰の定まらない論に終始せざるをえない。
男女平等パンチだの、奢り・奢られ論争だの、弱者男性論だの、あるいはゴールディンなどを援用しつつ、専業主婦批判を展開するときは、男女平等の正しさを全力で内面化して、フェミニズムのダブスタを暴き立てようと躍起になる。
じゃあ、アンチフェミニズムは構築主義なのかといえば、男女の肉体差や性資本格差の話をするときは、不平等は是正不能か、少なくとも是正は著しく困難だという主張を展開し、進化心理学などの知見をつまみ食いしつつ、本質主義に着地してしまう。
あげく、少子化の話をする段になると、女性の上昇婚志向をあげつらいながら、「若い男性に所得移転を」などとうそぶく。
多大なコストを払ってでも既存の価値観を作り変え、男女が平等な社会にしたいのか、それとも、男女の性差は仕方がないから、それにあわせた社会デザインを作っていこうと主張したいのか、まったく見えてこない。
結局、話題ごとにフェミニストが悔しがりそうな方にベットしているだけであって、もともと定まった思想などありはしないのだ。これではあまりにも不毛だろう。
「それ以上いけない!」などと言って政治的に正しくなさそうな(要するにフェミニストが怒りそうな)話題を煽るだけ煽って、結論は見せないというのがアンチフェミニズムのお気に入りの話法だが、もうそろそろ賞味期限切れではなかろうか。
フェミニストもアンチフェミニストも、結局どっちも似た者同士であり、いわば合わせ鏡の、一卵性双生児のようなものだ。
そんな双子が仲良くいがみ合えるかっこうの論題が「表現の自由」であり、露出の激しい萌えイラストだったわけだ。先にも書いたとおり、フェミニストの言っている内容は矛盾だらけのうえ、差別だの搾取だのという強い言葉で表現者や企業・団体を炎上させてきたわけだから、それに抵抗するのはもちろん正しいと思うが、嫌悪を口にしただけの個人を囲んで、同じノリで攻撃をし始めたら、もうどっちもどっちと言うほかない。
そのあげくが今の惨状であり、私が先日のnote記事で書いた情況なのだが。
萌え系のイラストとかの問題は、敵味方がはっきりしているから、戦争ごっこが実にやりやすいのである。燃やされている表現者や企業を囲んでフェミニストとアンチフェミニストが仲良くリンダリンダ。楽しい時間の始まりだ。
そして、今や、そうした対立ムーブメントは、極北ともいえる場所に到達した。
暇空氏の支持者たちの界隈だ。
兵頭氏と同様、私も、暇空茜氏が「行動」によって提起した問題、すなわち、NPO法人のずさんな会計処理の実態や、福祉事業の非効率なスキームへの批判は、議論に値するものも含まれていたと思う。
けれど、これも兵頭氏がおっしゃるとおり、暇空氏とその支持者に見られる思想性の無さは、きわめて顕著な特徴として立ち現れてきている。
例えば、暇空氏は、当初、colabo批判を展開した動機について、次のように語っていた。
フェミニストへの「攻撃」の動機として宇崎ちゃん騒動を挙げ、仁藤氏をターゲッティングした理由として、温泉むすめを挙げる暇空氏だが、表現の自由については終始冷淡だ。暇空氏は自身、次のようにも述べている。
私は、ダブスタを批判したいわけではない。
むしろ、逆だ。ここでの暇空氏の態度は、見事に終始一貫しており、一切矛盾はない。
暇空氏のスタンスというのは、自分が好きだと思った作品を守るということであって、自分が嫌なものであったりとか、気にくわない人々をも守る、普遍的な「表現の自由」のために戦っているのではない。
彼の戦いや、彼を支持する人々の論理というのは、好きか・嫌いか、もっと言えば、敵か・味方かしかないのであって、そこには「思想」は存在しない。
そしてそれこそが彼らの強みなのだ。
なぜなら、それは絶対に矛盾しないからだ。
思想のない「攻撃」は、理由の説明も「臭い」とか「キモい」の一言で十分であって、それだけで敵と認定できるし、味方となるためには彼の「嗅覚」に賛同する声を挙げるだけでいい。
キモいというのは暇空氏や支持者たちの主観に過ぎないのだから、矛盾のしようがない。
それでいて、暇空氏という「偉大なる人物」とつながり、社会をなにか良くするための活動にコミットしているのだという実感を得られるのだから、多くの支持者を集めるのも、当然だと言える。
今や、インターネットにおける「政治」は、思想なき思想という、新しいステージに到達したのである。
3 思想なき思想の行き着く果て
私は、堀口氏や反暇空の人々が言うように、暇空氏のことを反知性的な人間だとは思わない。むしろ逆に、非常に鋭敏な先見性と、優れた知的能力を持った人物だと思っている(その点でも、兵頭氏と見立てが一致している)。
そしてだからこそ、あえて思想を持たないという選択ができたのだろうと思う。
インターネットという「ゲーム」の構造を見抜いたからこそ、最も有利な体勢を取ったがゆえの選択だと、私は考えている。
しかし、私たちがそこで考えるべきは、暇空氏や現代フェミニストのような思想なき思想を突き詰めた先に、社会はどうなっていくのだろうか、ということだ。
「思想なき思想」は、なにも今に始まった事態ではない。
いまから百年前の欧州において、混乱に陥る民主主義政治を目の当たりにした一人の偉大な思想家が、まさにこの思想なき思想の現出を看取しているのである。
それが、現代保守思想の源流の一人として知られる、ホセ・オルテガだ。彼は主著『大衆の反逆』において、混迷する大衆的政治状況を次のように活写した。
私は、今のフェミニズムとアンチフェミニズムの対立は、まさにこの大衆の反逆における予言そのものの様相に陥っていると考えている。
いずれの陣営も、自らを拘束する「思想」を語ることを厭い、対立者との議論を病的に嫌がる。そもそも、共存すべき対象として対立者を承認すること自体、「馴れ合い」であり、矛盾であるように見えるのだろう。
以前、暇空氏は、東野篤子氏(筑波大学教授、国際政治学者)を「メスになった青識」などと表現して批判したが、それというのも、東野氏が「ロシアやウクライナの事例を見て、有事に備えた議論を行っておくことが大事」という意見発信をしたことが発端だった。
このような議論という営為そのものへの嫌悪は何に由来するか。
それは、オルテガが指摘したように、この種の人々が、「意見を吐きたがるが、意見を表明するための条件や前提を受け入れることはいやがる」からではないだろうか。
何かを対立者に説明し、説得しようと試みることは、対立者でも理解できるような理屈で自らを縛り付けることになる。例えば、「表現の自由」というような理屈を持ち出すならば、対立者の表現さえ守らなければ、ダブスタや矛盾が生じる。対立者をキャンセルしたりすることができなくなってしまう。議論をするということは、どんどん自分の両手両足を縛り付けていくことに等しい。
生粋のマキャベリストにとっては、それは敵に利する愚かな行為にしか見えないだろう。
だが、なにか意見を述べるというのは、本来、そういうものだ。自らの全身を理屈という鎖で縛り付けながら、異質な他者に理解可能なかたちになるまで理由を噛み砕き続ける営為だ。
それは、暇空氏の好きなHUNTER×HUNTERの作品内の概念に例えれば、「制約と誓約」のようなものだ。思想とは、自身の理念に基づく制約(誓約)を自身に課すということなのであって、制約なき思想は、思想として存立し得ない。
そうした制約を拒否し、思想なき思想として立ち現れた言論がどうなるかと言えば、後に残るのは、好きか嫌いか、敵か味方か、といった断定でしかなくなる。俺の好きな漫画を攻撃するのは敵、敵だから攻撃する、といった具合に。
先日、堀口氏が、暇空氏から受けた様々な批判や攻撃について語った記事を公開した。
一方当事者である堀口氏の記事なので、記事の正しさについては保留するが、議論のテーマとなっているのは、徹頭徹尾、堀口氏がいかに周りに嫌われているかとか、人格的に低劣であるか、といったような話題ばかりだ。
私が暇空氏界隈の人々の発言を見て驚いたのは、「好き嫌い.com」での堀口氏の投票結果に対する執着だ。好きとか嫌いこそが、界隈のもっとも主要な関心事で、意見や思想の妥当性は、そこではほとんど話題にさえなっていない。これは異様なことではないだろうか。
現代社会における政治的言論の有様を、オルテガは「恋愛詩曲」のようなものと評したが、まさにそのとおりだ。
議論と対話を厭い、思想による自己の制約を嫌った人々の言論は、なにか・誰かが「好きか嫌いか」しか語る術を持たなくなる。
恋愛詩曲のような政治言論。それこそが、思想なき思想の行き着く果てだ。
そして、好きと嫌いで分かれた人々は、議論をやめてしまう。議論とは、双方が普遍性のある、外に向かって開かれた思想に基づいて発話する場合にのみ成立する営為なのであって、好きと嫌い、敵と味方でしか世界を語れない人々には不可能なものだからだ。
獣のように自らの好きと嫌いを叫びあうだけの人々、これをオルテガは「大衆」と呼んだ。
「議論無しで嫌いな奴らを黙らせるためにはどうすればいいか?」
大衆はやがて、自分たちの「嫌いなやつ」を社会から排除する方策を探し始める。
職場から、社会から、そして生命から、「嫌いなやつ」を排除するよう、大衆は欲望し始める。
そうした社会の行き着く先を、オルテガは次のように予言する。
その末路を、私たちは知っている。
かつて欧州は、オルテガが予言したように、共産主義とファシズムが支配し、議論無き議論、思想無き思想の支配する社会を生み出してしまった。
酸鼻をきわめた過去の歴史が、私たちに議論なき世界の末路を雄弁に語ってくれる。
私たちは歴史的な教訓を踏まえ、少なくとも「直接的行動」によって、議論が閉鎖されることのないよう、自由と人権を憲法に書き込み、法による支配を抑止弁として、社会を再構築することに成功した。これが二十世紀の歴史だ。
だが、思想無き思想をはびこらせた原因であるところの、オルテガの言う大衆的な「心の閉鎖性」は取り除かれていない。それこそが最も根本的な病巣であるにもかかわらず。
そして私たちの社会の閉鎖性は、SNSの普及によって、皮肉にも拡大しつつある。SNSは、好きと嫌いの拡声器として、さらには敵と味方をわかりやすくクラスタ化する装置として機能している。
このまま、私たちの社会は対話や議論から背を向けて、歴史を繰り返すのだろうか。
私は、そうは思わない。
まだ、私たちの社会において、人々を対話と議論のテーブルにつける術はあると思っている。思想というものの復権だ。
最後に、私たちの社会に思想を取り戻すための未来像を、フェミニズムを巡る論争に焦点をあてて書いてみようと思う。
4 これからのフェミニズムの話をしよう
そもそも、だ。
なぜ、私たちの社会から思想性が剥落してしまったのだろうか。
例えば、フェミニズムを巡る論争一つを観察してみても、暇空氏のように確信的に思想性を否認している向きは少数派であり、なんらかの首尾一貫した「理念」や「イズム」を保持しているように振舞うのが通常である。
だから、ダブスタをやってしまう人たちは、別に明確にダブスタ上等と思っているわけではなくて、やむを得ずダブスタに陥っているだけではないか、と私は考えている。対話拒否も、答えられない問い(彼ら彼女らは「答えるべきではない問い」としばしば言いかえるが)を避けるための仕草ではないか、と思える時がある。
はっきりと言ってしまえば、彼ら彼女らの「本心」、つまり欲望や願望、情念や素直な気持ちと、自らの「思想」の部分がズレてるのではないだろうか。
それは、身体に合っていないサイズの服を着ているようなもの、あるいは、古い革袋に新しい葡萄酒を入れているようなもので、思想に沿って発話しようとすると本心とズレてしまうし、本心から出る言葉や行動は、自らが掲げてきた思想に背くものとなってしまう。
ある種の思想的な失語症が、吃音のように発話をためらわせ、やがてそれが対立者との対話や議論への厭わしさにつながっていく。
そして、やがては、本来、他者に自らの言葉を伝えるために生まれたはずの思想体系が、ある種の信仰のように、あるいは敵味方を色分けするレッテルのようなものでしかなくなってしまう。思想が、思想性を失う。
そのような事態への処方箋はなにか。簡単なことだ。
思想そのものの中に潜んでいる、本心から乖離した前提を取り除けばいい。
服が身体に合わないなら、サイズの合った服を着るべきだし、新しい葡萄酒は新しい革袋に注ぎ直すべきだ。
そして、フェミニズムとフェミニストの乖離を生んだ、根本的な矛盾は、私から見ればはっきりしている。
「男女平等」という理念だ。
男女に差が生まれているのは、女性が差別されているからだ、したがって、女性の低い地位というものは、社会が作り上げたものだ。
これは、特に戦後の「第二波」と呼ばれるフェミニズムの思潮の中で、中心的な地位を占めてきた思想であるように思う。
特に、フランスの哲学者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールが述べた、
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
という言葉は、今でもフェミニズムの方向性を強く規定し続けているテーゼであるように思う。
だけれど、私に言わせれば、これこそがフェミニズムから生気を奪い、いびつな怪物と化さしめた呪詛そのものだ。
女/男といった区別や差異が、生物学的な不変の性質として作り上げられているという立場を「本質主義」、社会の構造や文化によって作られた人為的な構築物だと考える立場を「社会構築主義」と呼ぶ。ボーヴォワールのような主張は、社会構築主義の側に立つものだ。
もちろん、妊孕性や月経のような明らかに生物学的な差異はある。これは、生物学的性差(セックス)と呼ばれる。しかし、社会構築主義は、今の社会で男女の区別とされているものは、従来考えられていたよりも、社会的に作られた性差(ジェンダー)のほうが多いのではないか、と主張する。
より過激な立場では、そもそも生物学的性差も作られたものだ、とみなす人々もいる(ジュディス・バトラーのように)。
そのうえで、ジェンダーをなくしていけば、男女は対等になるはずだという発想があった。女性の社会的な不幸は、まさに女性を抑圧し、男性支配を維持するためのジェンダーが生み出したものだと、多くの思想家が主張した。
それは、ある時代までは意味があったことなのだろうと思う。あまりにも女性の能力が軽んじられ、低い社会的地位を強要された時代があったのは事実で、男女平等という理念は、そうした社会を変革する意味があったのだろう。
だが、今や、その「当たり前」の構図こそが、フェミニズムという思想を無力化しているのではないだろうか。
そもそもの話をしよう。
社会的構築と生物学的本質は、そんなに簡単に分けられるものではない。
コミュニティを維持するために都合が良い、便宜的な習慣や性質が、長い歴史の中で、人間の本能と言えるほど定着してしまう、などという事例はいくらでもあるだろう。
女性の上方婚志向みたいなものもそれだ。
原始の社会において、妊孕性を有する女性は、妊娠や子育て中の生活を保障してくれるパートナーを必要としていた。逆に、男性は妊孕性を持っていない分、子どもを産んでくれる女性身体を必要としている。
結果、男性が命がけで狩猟や戦争に出て、女性が比較的軽度・安全な労働に従事する代わりに、命がけで妊娠・出産といった労苦を負う。
それは男女不平等と言えばそのとおりだが、だからなんだという話だ。
長い歴史の中で私たちの身体に刻み込まれた習慣は、一朝一夕で変わるものではない。変えられないものは、結局、生物学的本質と現実的には変わらない。
上方婚はジェンダーだから、女性のみなさん、明日から下方婚をしてくださいと言われても、できるわけがない。
そこで、自分たちの都合の良い性差は「本質(セックス)」であり、是正するべきものではないが、都合の悪いもの、不愉快なものは、「差別(ジェンダー)」だから、直ちに是正せよ、是正されないのは社会が悪い、自分らは男社会の犠牲者だ……といったような言説を弄するようになる。
それはまるで、レストランのメニューのように、男女の格差のリストを眺めながら、除去すべき差別を優雅に指さして「社会」というシェフに格差是正を注文する、そのようなものだ。
それはもはや思想とは呼べない。
ただのご都合主義だ。
そして、アンチフェミニストたちは、そのような女性たちが徹底した男女平等に耐えられないのに、それでも、社会変革のための男女平等という理念を手放すことができないのを見抜いている。
特に、勉強熱心で性格の悪い論客(小山(狂)氏とか)は、男女の身体に埋めがたい差があることを知りつつ、男女平等パンチを繰り出し続けて、フェミニストや一般女性が音を上げるのを待っている節がある。
「さっさと下方婚! さっさと下方婚! シバくぞ!」
というわけである。
そんなロジカル・ハラスメント行為を続けられれば、フェミニストは対立者との議論や対話をしたくもなくなるだろうし、究極的にはフェミニズムなんか知ったことではないという話になるだろう。
結果、フェミニズムなんかちっとも信じてないけれど、言っていることはなんとなくフェミニストっぽいという思想性のない思想が跳梁跋扈する結果となったわけだ。
不毛である。
先程も述べたように、私が見る限りにおいて、処方箋は一つだ。フェミニズムから、男女平等という枷を外せばいい。
歴史的・社会的に形成されてきたジェンダーロールや格差の中にも、実際には合理的で、人口の維持や女性の幸福にとって欠かせない、というようなものもあるだろう。
例えば、エッチなイラストへの性嫌悪の表明一つにしたって、小宮友根先生らのいう「性差別だから」よりも、露骨に性的な表現は女性にとって本能的に嫌なものだから(いわゆる負の性欲)、と述べた方が、よほど隙が無く論理的だ。
もちろん、そうした性差によって利益を受ける者、損する者は、女性の中ですらまちまちだろうし、性的なものに対する嫌悪感にしたって人それぞれで、どこで線引きをするのかというのは議論の余地がある。
功利主義に基づいて統計や市場競争で線引きを作るのか、あるいは、義務論・権利論ベースで線引きを論じるのか……少なくとも、そのような議論が可能となるだけ、「差別だから」で議論を閉鎖するよりは、良い状態だと思う。
では、男女平等論のないフェミニズムは、実現可能だろうか?
私が見たところ、すでに萌芽は生まれているように思う。
先日、小学校でのドッジボールについてのポストが話題を呼んでいた。
このエピソードも、いわゆる男女平等パンチの亜種で、快哉を叫ぶアンチフェミと、これはジェンダー平等ではないと批判するフェミニストと(では何がジェンダー平等なのか、という問いが深められることはない)で分かれていた。
しかしその中で、多くのファボを集めていたのが次のようなツイートだった。
ちなみに、このポストには、このような引用リツイートもついていた。
特に若い男性たちの間には、男女平等パンチ的な言説をもてはやす傾向があるようだが、私は必ず限界が来ると思う。
なぜなら、男女は違うからだ。
ボーヴォワールがなんと言おうと、男は男に生まれるし、女は女に生まれる。その身体的・物理的な現実を無視した言説は、必ず、「本音」と乖離していくことになる。
本音の部分をある程度押しとどめて、論理や理想で塗り固めた建前を掲げるやせ我慢も、社会を良い方向に変えていくためには大切なこともあるが、それが行き過ぎれば、思想は生命力を失い、形骸化してしまう。共産主義の失敗がいい例だろう。
フェミニズムを巡る論争がそのような失敗を繰り返さないためにも、フェミニズムという思想そのものを、男女両性の実感に合ったものに再構築していく必要があると、私は思う。
フェミニズムの核心的な主張は、女性の人格的尊重、自己実現と幸福、そして自由であるはずだ。それは、必ずしも「女らしさ/男らしさ」や性差の否定を要請しはしないはずだ。むしろ、「らしさ」こそが安心や幸福につながるような局面というのも、少なくないはずだ。
もちろん、一方で、むき出しの本音の吐露の集まりは、ともすればTERF的な言説に引き寄せられがちな危うさをはらむ。
それを思想的に洗練させていき、第4波ともいえる思潮を作り出すのは、社会学や人文学のアカデミアの人々の役割であると思う(実際、千田先生らは、意識的にそうした仕事をされているように見受けられる)。
具体的にどのように言語化するかは、私も思考の途上だが、今一度、思想が思想としての力を取り戻すためにも、フェミニズム周りの思想の再整理と再構築は不可欠であると考えている。
そして、対話と議論が可能な世界が戻ってくる方向に賭け続けたいと私は思っている。
以上
青識亜論
マシュマロやってます。ご感想とかなんでもどうぞ。