見出し画像

【論点整理】都市公園における自由(朝鮮人慰霊碑と水着撮影会)

都市公園における表現行為をめぐる、興味深い議論が出てきたようなので、簡単に所論を述べておく。

この問題、あまり指摘する人がいないようなので言っておくが、論点は埼玉県の水着撮影会と同じだ。

いずれも、都市公園における表現行為をどの程度まで認めるかという問題である。

なぜか、朝鮮人慰霊碑の撤去を批判する人々は水着撮影を認めず、水着撮影を擁護する人は慰霊碑の撤去を是認する傾向があるようで、たいへん興味深い。どちらの「陣営」も、せめて両問題に関する論旨は首尾一貫したほうがよいのではないかと思う。

個人的な意見としては、水着撮影を認めないのも、慰霊碑を不許可・撤去処分にするのも、「適法」であり、行政裁量の範疇だと思う。都市公園は「公物」なのだから、法律上、設置者である管理者、つまりは地方自治体の権限が幅広く認められるのは当然のことだ。

しかし、そうした行政処分に対する賛否は別だ。パブリックスペースにおける表現の寛容性がどんどん失われていくことには、はっきりと「反対」だと述べておきたい。

水着撮影会は、十分にゾーニングされているスペースで行われている限りは、見たくない人は見なければよいのであり、朝鮮人慰霊碑も、正門から遠い場所に設置されている以上、見たくない人はわざわざ碑に近寄らなければよいだけの話だ。

したがって、水着撮影会にせよ、朝鮮人慰霊碑にせよ、「表現の自由」という観点でこの問題を裁断することは、あまり意味がない。

例えば、水着撮影会を批判する人は、自分が見たくないから批判しているのではないだろう。水着の撮影、それも未成年が含まれるそうした興行が、公共的な空間で行われることによって、社会的・公共的な「承認」が与えられることに対して、異議申し立てをしているのだと思う。

いうまでもなく、「性の商品化」を非難している人々は、自分が販売者や消費者にならなければよい、と思っているのではなくて、わたしたちの社会が、女性のセクシュアリティを物のように取引し、享楽的に消費することそのものを問題視しているのであって、それを「よりにもよって」、地方自治体が設置する公園で、おおっぴらに許可を得て、行っていることが「問題だ」と言っているのである。

水着撮影会肯定派(アンチフェミニスト)の多くが誤解しているか、問題を矮小化しているのはこの点で、「反対している人は見なければいい」という話ではないのだ。

そうではなくて、水着撮影会という行為そのものに、社会が積極的な承認を与えることの是非を、批判者(フェミニスト)は問題にしているのである。

朝鮮人慰霊碑の問題も同じだ。

表現行為の機会だけを問題にするのであれば、人権団体なり関係者なりが自前の土地に建てればよいだけの話で、なにも都市公園に設置する必要はない。

慰霊碑の前で「強制連行」の文言を含む儀式を行ったことによって、政治的なメッセージが含まれるモニュメントとなってしまった。これを認めてしまえば、間接的に、強制連行や非人道的な労働搾取といった歴史認識を、日本社会全体が承認することになってしまう。

慰霊碑を問題視し、撤去を支持する人々が懸念しているのは、まさにその点だろう。

つまるところ、これは、都市公園という公共空間を戦場にした、公共的な承認を取り合う「闘争」なのである。

そうした承認をめぐる闘争の戦線が、いま、とめどなく拡大していることを、私は憂えている。

自分と異なる価値観が、社会において緩やかに承認を与えられていることについて、相互に許しあうことこそが、多様な価値観が併存する社会を維持するための、必須の条件だ。

そうした社会では、性の商品化を積極的に肯定して、自らの生きがいとする人々がいてもいいだろう。

また、自分から見れば唾棄するような歴史観が存在して、それを声高に唱えてはばからない人々がいてもいいはずだ。

それこそが自由で寛容な社会のありようではないだろうか。

気に入らない価値観を公共から排除しあえば、そうした自由はあっという間に窒息してしまうに違いない。

だから、水着撮影会を批判している人々は、同じような「行政権力」によって、自分たちが擁護したいと思う表現行為が公共の場所から追い出されたところを想像してみるべきだし(例えば、朝鮮人慰霊碑ではどうだろうか。あるいは、フェミニズムに関連するモニュメントや講演はどうだろうか。)、逆に、朝鮮人慰霊碑の撤去を支持する人々は、自分たちが好ましいと思う表現(例えばオタクコンテンツや性表現)が、公共空間で禁止された社会を考えてみてはどうだろうか。

もちろん、直ちに思い浮かぶのは、「私たちの側の表現は、正しい価値観を代表しているから公共的にも認められるべきであるが、相手の側の表現は、誤った価値観を代表しているから、公共的な否認が与えられるべきだ」という結論だろう。

だが、そのような価値観の正/不正の二項対立から一歩前に出てる必要がある。

「相手側の価値観が実は正しいのかもしれないし、自分の側の価値観が間違っているのかもしれない」と相対化しながら、今一度、公共空間における表現のありようを、一人一人が想像してみることによって、議論を新たなステージに進めることができるのではないだろうか。

少し不謹慎かもしれないが、非常に論点が類似した、しかし、賛成・反対の立場が正反対になるような問題が、時系列的に非常に近接して発生した、というのは思考実験の得難い機会だと私は思う。

いまこそ、「反転可能性テスト」を、自分の頭の中で回してみよう。

以上

青識亜論