朋子とやなみん

 長い握手の列がようやく終わると、テーブルから離れた朋子はすっきりとした顔をして、優雅に、踊るようにそこで一回転した。
 私が続けて何度か足を運んだリリース・イベント(リリイベ)では毎回そうだった。2019年、やなみんこと梁川奈々美さんのJuice=Juiceにおけるラスト・シングル「微炭酸/ポツリと/Good bye & Good luck!」のリリイベでのことだ(コロナ禍の前はシングルをリリースするたびに全国数ヵ所で複数回のリリイベが開催された)。やなみんが卒業を発表したので、私はしばらく敬遠していたリリース・イベントへ例外的に行ってみた(というか行かずにはいられなかった)。だから朋子がずっとそうして来たのかは知らないのだが、しかし握手会終わりにくるりと回ってみせるのが、たぶん彼女のルーティンであろうことは想像できた。いかにも一仕事終えたという感じで束縛から解かれた身体を華麗に回す朋子には、見守っていたこちらの心も解きほぐすような気持良さがあった。

 やなみんは単にハロー!プロジェクトを辞めるというだけでなく、芸能界そのものを引退するという。つまりもう二度と会えなくなるかもしれないという意味で、彼女の卒業は特別重いものだった。やなみんを送り出すのが苦しかったので、ミニライブなども見られ楽しいはずのリリース・イベントにありながら、心には重たいものがたえず浮き沈みしていた。それに私は彼女たちとの握手等(いわゆる接触)が苦手なのだ。実際いちばんお話しがしたいはずのやなみんとは、結局最後まで会話らしいものは成立せずに終わった。彼女になんと言えばいいかわからなかったし、言葉も表情も凍りつかせたままの初老の男を前にした彼女のほうもたぶんそうだっただろう。
 とはいえ自分はハロメン(ハロー!プロジェクトのメンバー)との握手をなにがなんでも忌避するというほど潔癖でもない。濃厚な接触の場へ自ら進んで赴くことはないが、ライブ等に付随してたまたま握手の機会が設けられているのであれば、あの輝かしい人たちをほんの数秒とはいえ目の前にできるという危険なしかし甘すぎる誘惑を、どうして断ち切ることなどできるだろうか。
 そんなことで、ほとんど生きた心地もなく握手会に臨んだ私にとって救いだったのは、最年少メンバーだったやなみんが「自慢のお姉ちゃんたちです」と言っていた、Juice=Juiceの他のメンバーたちの歓迎ぶりだった。特に紗友希、うえむー、朋子の三人を自分は今でも恩人のように感じている。彼女たちはそれぞれのやりかたで私を暖かく迎えてくれた。うえむーなどはただ笑っているだけなのに、その明るさで自分のような者でもここにいていいのだと肯《うけが》ってくれているように思えた。

 自分の順番が終わった後、まだまだ続く握手会の間、彼女たちと他のヲタたちのやりとりを遠目に眺めている時間ほど奇妙なものはない(リリイベの握手会はステージ上に長テーブルを置いてメンバー全員が横一列に並び、衆人環視のもと流れ作業のように行われる)。失敗した自分の握手を悔む思いさえ早くも色褪せ、あこがれの彼女たちがずっとそこにいる(改めて見直すたびそこに現実にやなみんがいる)という非日常に感覚も半ば麻痺し、他人の歓喜のようすを見るともなく見ながら、俺はいったいなにをしてるんだ、と自分を見失う。延々と続く握手に、まるで時のループにはまり込み、抜けられなくなってしまったような気さえしてくる。
 しかし一時はどこまでも引き伸ばされていくかと思われたそんな時間も、不思議なことに終わる。発行された握手券の枚数が有限であるからには、いつかはその列も途絶えるのである。
 その時、朋子は握手会のテーブルから離れて前に出ると、ふわりと回った。ひとつの仕事を締めくくる彼女なりの儀式なのか、また立ちどおしで固まった身心をほぐすためでもあるのか、とはいえ長かった握手会の疲れを感じさせぬ晴れやかな顔で、ステップを踏むようにして、軽やかに一回りした。腕はたしかやや肘を曲げながら軽く広げて、バランスを取っていたと記憶する。衣装がスカートならば、それは遠心力で落下傘かクラゲのように小さく膨らんだ。朋子はその儀式に、バレリーナごっこみたいな、いたずらっぽさも込めていたと思う。
 その朋子を見ることはよろこびだった。彼女の身体の運動を見る眼のよろこびであると同時に、朋子という人を見ることのよろこびでもあった。
 ライブでもイベントでも朋子はいつも楽しそうだった。本人もそう見えるよう心がけているとインタビューで言っていた。遅まきながらようやくJuice=Juiceのライブへ行き始めた頃、彼女がじつに嬉しそうにダンスしているのを見て、それだけで泣きそうになった。思えば私は最初から朋子に救われてきた。

 ところである時、私が見たのは一度限りだが、回転した朋子に続いて、やなみんがそれを真似るようにして、同じように小さく回ってみせたことがあった。
 まるで幼い妹がお姉ちゃんを真似る光景、そのままだった。あまりにもかわいらしく、微笑ましく、愛おしいその光景は不意に始まり一瞬で終わった。
 家族のような絆で結ばれたカントリー・ガールズから、兼任というかたちでJuice=Juiceに加入したやなみんであったが、Juiceにおいても「自慢のお姉ちゃんたち」から「やなちゃん」と呼ばれる、ひたすらにかわいい末妹であったことを、その瞬間にこの眼で見たように思った。またやなみんのお姉ちゃんたちへのあこがれにはどこか片想い的な側面があったかもしれない。朋子は自分に続いて回転するそのやなみんに気づかなかったように見えた。またそれはやなみんがお姉ちゃんに見えないところで秘かに仕掛けた、いたずらのようなものでもあったかもしれない。一方、思えば朋子のほうも、やなみんがライブで卒業を告げるMCをするたび涙ぐまずにはいられなかったというから、いくぶんかはやなみんに対して片想い的なところがあったのではないか。このかわいい妹は思いがけずもここから去っていこうとしていた。

 それから2年以上が過ぎ、朋子すなわち金澤朋子さんは先日Juice=Juiceを卒業された。しかし彼女の場合は永遠のお別れというわけではない。卒業の理由は体調によるものであり、彼女はいずれ治療を終えて、歌の世界へ戻ってくることだろう。また朋子と会える日のよろこびを心待ちにしている。
 往時の思い出を綴ったこの文章をもって、ハロー!プロジェクトの金澤さんへのささやかな送辞としたい。