Abema討論での戸塚宏校長の意見を徹底解説

Abema TVの討論番組で「子供の声はどこまで聞くべき?」というテーマで議論が交わされ、ゲストで戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が出演した。

戸塚校長は現在83歳。質問に端的に答えずに、使われる言葉の定義などから話し始めるため、メインテーマにはなかなか届かずもどかしく観る方が多かったのは否めないと思う。
これまでいろいろあったため、「リベラル」や「マスコミ」、日本のリーダーであるはずの「エリート」に対する強い憤りの感情があり、それらが前面に出すぎていた。テレビの議論という場に合わせて自分をうまく制御できていなかったと言わざるを得ないところもある。
はっきり言って観ていたほとんどの人は訳がわからなかったはずだ。

しかし、「体罰は善だなんて年寄りの古臭い妄言」として片付ける前に戸塚校長の話したかった意図を徹底解説したい。傾聴に値するものがあるのかないのかこれをお読みいただいてから判断いただいても遅くはないと思う。

まずは、世界人権宣言で「生まれながらに権利や自由があるのは『自明の理』」というのは間違いだと校長は主張する。生まれながらにあるのではなく、権利は作るものだと言う。話の流れからしてなんだか唐突に見えるだろう。

これは簡単に言えば、正しい教育を受けて、判断力や行動力が一人前になったら権利をもつことができる、ということだ。自由が責任とセットだと言うのと似ているかもしれない。一人前の行動がとれないくせに主張だけするなということだ。

そして西洋の思想というのは、人間が一人前に育つ中でその度合いに見合った自由が与えられるというような現実的な考え方をせずに、それこそ「神の似姿たる人間様」には権利があって当たり前というような、言うなれば根拠のない「信仰」をそもそもの出発点としているというのが校長の従来からの主張だ。
このような「人は生まれながらに尊い」というようなそれ自体は証明できないような、数学で言う公理のような根本思想を校長は「理念」と呼び、そんなものを基礎に据えている教育論は間違うのは当然だと言う。
例えば「子供も尊い存在だから体罰なんていう尊厳を踏みにじるやり方は間違っている」というような考えは理念にすぎないというわけだ。
ちなみに途中で出てくる「哲学」という言葉も理念と同じと考えて差し支えない。現実によって検証されない単なる理念=信仰だから、哲学は単一なる世界を一意的に記述できていない、つまり複数の哲学が存在してしまっているという見解が校長から番組内で示されている。
そのような理念やら哲学からではなく、体罰によってまともな大人が「実際に」育つかどうかで体罰の善悪を決めろということだ。

では実際のところどうなのか。
校長は「自分たちは科学的に理論で教育をやっている」という主張だ。校長による科学の定義は「再現性」である。同じようにやってみて、きちんと同じ結果が出るかということであり、それによって法則が導かれればそれは理論だと言う。

生命の危機を感じる洋上でのスポーツを通して、生きたいという本能を沸き上がらせ、それによって健全な精神や行動力が養われる、これが校長がヨットスクールでの実践の中で見いだした法則性、教育理論なのだと言う。

本能を沸き上がらせるとなぜ健全な精神や行動力が養われるのかを答えるのが科学ではと思うかもしれないが、校長の科学の定義は再現性であり、実際に不登校児やひきこもりのような情緒的な問題を抱えるたくさんの子供たちを同じ方法で立ち直らせてきたのだからそれは科学的な教育理論だという自負があるのだ。
逆に「褒めて伸ばせ」だの「体罰で無理に言うことを聞かせるのではなく言葉で言って聞かせるのが真の教育」なんていうやり方をしたせいで情緒障害児が量産されたというのだ。
「リベラル」というのはきれいごとだけ言って、まともに育たない子供を量産しても責任を取らない。三権やマスコミにこのような勢力がはびこるのは、戦後アメリカが自分たちを思いのほか手こずらせた日本を弱体化させるために、日本の優れた精神論、本能は善であるという大和魂を潰したからだというのが校長の思想なのだ。この話もチラッと番組内で出ていたと思う。

さて権利の話に戻すと、rightを権利と訳すと、一方的で身勝手な主張をすることに使われて将来に禍根を残すから、「通義」と訳せと天才福沢諭吉は言っているという話が校長から出てくる。
義に通ずるということだから「正しいことをする分には邪魔されない」という意味となる。
番組冒頭では、「中学受験とセックスでは中学受験の方が身体に悪いのに後者だけが禁止されているダブルスタンダードでは」というツイートが紹介される。

例えば小学生が「自分には売春をする権利がある」「他人に迷惑をかけていない」と言い出したらそれは通るのか。
それを考えるには小学生の売春が正しい振る舞いと言えるのかを考えるべきだ。何が正しいかは人それぞれと言い出す人はもちろん出てくるが、正しさについて考えるという項を経由しなくては行動や意見の自由を主張できないということに大きな意味がある。

校長が、「権利が作られるものだとして、ではいつから権利はあるのですか?」との問いに答えずに、「そもそも権利という言葉を遣うことがどういうことかわかっているのか?」というのが校長の問いであり、そこをはっきりさせてからではないと議論はできないということを言いたかったのだ。
「自分が遣う言葉の意味もわからず議論したり、人を批判したりするな」というのが校長の主張であり、「人は生まれながらに~」なんていうトンデモ信仰をスタート地点とした議論なんて話にならないというわけだ。
モノを思考する態度として間違ってはいないかもしれないが強情だし回りくどい。そして何より伝わりにくい。

「権利はいつどの段階から認められるのか」という問いを再三共演者から投げ掛けられるが、これは「正しく教育されて一人前になったら」ということだろう。
また「作るのは誰か?それは子供本人である」というのも理解しにくい。これは「正しい教育を受けることで」というのが抜けているのでわかりにくいのだ。教育によって子供たちの中に内発性の種をまいてあげる、そしてその内発性が芽を出せば責任主体となり、それと同時に権利が発生するということであろう。

また「幸福の形は複数ある」という兼近さんの発言に対して「共通項がある」と校長は言う。
これは例えば、芸人になるのと医者になるのと銀行員になるのとどれが幸福かは人それぞれと言えるだろうが、校長が言わんとすることはこういうことだ。
そもそも人生に希望を持って、自発的に努力して自分のなりたいものになり、成った後も充実した職業人として生きることが幸福であるということは共通しているのではないだろうか。
いくらステータスが高くても嫌々やっていたり、親に言われたからやっているというのが幸福な状態だろうか。自分さえよければ犯罪まがいに人を騙して金儲けをしてそれで幸福を感じられるのか。

校長は生きるベースとしての能力や意志を強く持てることを教育で育めと言っているのだ。それはどの道に進んでも人生を充実させる基礎になるだろう。
校長はこうも言っている「どう生きるか以前に、生きるんだという強い意志の力がまずは必要だ」
先の例で言えば、前半がどの職業に就くのか、後半が幸福を希求する基本的な態度に対応させることができるだろう。
そのような生への意志を育むのがヨットスクールでの実践ということになる。

また議論の中でパックンさんが「犯罪が減ってるのはリベラル教育が成功しているとは言えないのか?」との問いに校長は「暴走族が減ったのはなんでだと思う?行動力が落ちたからだよ」と答える。
共演者の方々は「何言ってるの?」的な反応だったが、私はここは校長が正しいと考えている。
まず、番組内で言われていたように、子供たちの死因は自殺が多いし、精神的な幸福度も低いということだ。パックンさんの理屈で言えばこれらも戦後リベラル教育の責任であることになる。

ではこれらいくつかの事実をつなげる理屈は何か。「行動力」という表現がふさわしいかはさておき、エネルギーが落ちた、文字通り生きる意志が弱まった、もしくは攻撃性や主張性が他人や社会に向かずに自分や自分の内面に向けられたり、鬱屈する形をとっていると考えて辻褄が合うと思う。
犯罪という他者への攻撃の形はとらないのが、何らかの理由で自身のエネルギーの発露が妨げられたり抑圧されているのだとすれば、それを単純にいいことと考えていいものかよく考える必要がある。

いわゆるワルそうな子たちではない普通の子たちを見ても、15年、20年と教育に携わっていれば、最近の子たちはカッコつけたり悪いことをしてそのスリルを楽しむよりもお行儀よくて真面目な子が増えたという印象をもつ人がほとんどだろう。いい悪いは置いておいてカッコつけたり悪ぶるのには一定の行動力が必要となるとは言えると思う。
いろんな見方はあると思うが、少なくともエネルギーを向ける方向や向け方は変わってきており、そのことが肯定的に現れたり、否定的な形に現れたりしているのだ。物事には表面、裏面があるという話だ。
今回の議論でパックンさんのこの問いにだけは校長が事実と理由を端的に即答している。

なお「その分半グレが増えたのだ」という発言が別の共演者から聞かれたが、暴走族と半グレが社会に迷惑をかける連中という見かけ以外に本当に関連はあるのか。
暴走族減少分が半グレ増加分に対応するのか、成員となる理由・背景は同じなのか、集団としての結束や包摂性は同じなのか。これらは本来はきちんと検証しないと決めつけることはできないが、私の感覚ではほとんどが異なるように感じる。つまり関係ないと思う。

甘やかして何でも自由でいいですよ、努力しなくていいですよ、競争や暴力に曝すことは傷つけるのでダメですよ。こういった美辞麗句で子供がしっかり育たなくても誰も責任を取らない。これが校長の怒りなのだ。
三権やマスコミにはこんな奴だらけだという憤り。
始めは持ち上げておいて死亡事故をきっかけに手の平を返して自分たちをバッシングしたマスコミ。教育目的の体罰による過失致死なのに、体罰の定義もできないくせして傷害致死だとして自身を裁いた司法。現場を下に見て現実を見ずに指図する文科省などのエリート行政官僚。これら「偏差値秀才」への憤りと、まずはそれを皆に認めさせたいという思い。そして戸塚校長自身も含むはずだが国民のほとんどが戦後教育で育った人間になってしまい、日本の精神論が忘れ去られてしまうという危機感や焦燥感。これらが前面に出てしまい、有益な議論にならなかったというのが真相だ。

※街録ch出演時の解説記事もご参照いただきたい。
今回よりも詳しいものとなっている。






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