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終の棲家 ー母の最期ー

母から引っ越しの話を聞いた時は、驚いたという訳ではないが、その可能性をまったく考えていなかった。私が5歳の時に移住した団地、そこで育ち大人になり、私と妹が結婚のため順次家を出て、離婚によって父が去り、一旦一人暮らししていた弟が戻り母と二人。何がどうあっても母だけはそこに留まり動かないような気がしていた。

私達が暮らしていた団地は賃貸だったが、母は同じ団地内の中古の分譲を購入した。前の家から歩いて行ける所にあり、築40年経っているがリノベーションされてきれいになっていた。部屋も一つ増えてゆったりしていた。
「おとうさんと一緒にいたらできなかったね。」
と、嬉しそうに笑っていた。父は稼ぎが悪いだけでなく、お金の使い方がわからない人だった。手元にお金があれば、あるだけ使ってしまう…昔はそんな人が結構いたように思う。だから母はお金の苦労が絶えなかった。

父に愛人が出来て出て行った時は、さすがに堪えたようで、いつ行っても父の愚痴を聞かされた。さんざん苦労させられて、子ども達が成人して、ようやくゆったりと過ごせると思った矢先だったので無理もない。それでも離婚できて良かったと、負け惜しみではなく言っていた。

お金の苦労がなくなったことは確かに大きかったと思う。母は着物がことの他好きで、着物を買うことが自分へのご褒美だった。着付け講師の免状を何種類も持っていて、新しい家では近所の奥さん達に着付けを教えたりしていた。

新しい家に移って3年ほど経った頃、母は転倒した。台所の床で滑って腰と右腕を骨折してしまった。弟は最初すぐに治ると高を括っていたが、高齢者の骨折は侮れない。思いの外重体で、要介護認定を受けてしまった。
家族で相談して、妹と私がそれぞれ週に1度介護に行き、平日の残り3日はデイザービスでお世話になる。週末と毎朝晩は弟が見るというスケジュールを組んだ。

退院した直後は、ベッドから車椅子、車椅子からトイレのへ移動が一人で出来ないため常に介助が必要だった。とはいえ、トイレに行くのは排便の時だけなのでそれほどの負担はない。問題は排尿のほうで、自力で排尿が出来ないため尿バルーンに溜まった尿を時折トイレに流さなければならない。私達からすると大した手間でもないが、母はそれをひどく申し訳ないと気にしていた。そんなことよりもカテーテルをつけっぱなしの状態は痛かっただろうし居心地も悪かったと思う。よく愚痴もこぼさず我慢したと感心している。

介護生活に慣れた頃、母は近所の友達を家に招いた。買ってきた助六寿司と母の指導のもと、私が作ったすいとんをお出した。母は料理を仕事にしていたので、本当は自分が作りたかったのだろう。味付けだけは自分でやった。

お友達が到着した。私が存じ上げてるのは妹の同級生のママ友さんが一人、あとは以前の職場の同僚や近所の方々で初めてお目にかかった。皆さんとても感じのいい方で、離れて暮らしていても近くに頼れる友達がいてくださるのは、身内として少し安心できた。前に住んでいた所は厄介な隣人がいて、住み心地のいい環境とは言えなかったので、雲泥の差だ。その点は本当に感謝している。

母はできるだけ誰にも迷惑をかけたくなかったのだろう。一所懸命リハビリをして家の中だけは車椅子から降りて杖をついて歩けるようになった。いつの間にか尿カテーテルも取れ、デイサービスに行くのもやめた。自分がボケてるわけでもないので、デイサービスで子どものようなお年寄り達と過ごすのは疲れると言っていた。その代わり、訪問介護の方に来てもらい、お風呂に入れてもらったり歩行訓練を続けていた。

料理や洗濯も一人で出来るようになり、私達にはもう来なくていいと言い渡した。後で思い返すと奇跡的な回復で、凄い精神力だと痛感する。そんなわけで、毎週通っていたのは正味1年くらい、そのあとは時々病通院に付き添う程度だった。

母が息を引き取ったのは、要介護の状態になってから足掛け5年経った頃だった。最後に入院していた病院で、最初に見舞いに行った時は普通に接していたが、次に行った時は私を叔母と間違えていた。もしかするとその時には結婚して子どもを育てた記憶が既に無くなっていたのかもしれない。最後は意識もなくなり数日間家族が見守る中で亡くなった。

世の中には親の介護で大変な思いをされている方々がいる中、介護と言っても大して手間をかけずにいられたのは母に感謝するしかない。

母は小さい頃に実母を亡くし、子どもの頃から継母に気を使って生きてきた。結婚してからは生活能力のない父に翻弄され、苦労の多い人生だったと思う。それでも最後に神様が、身体は不自由になっても心の休める環境を提供してくれたように思える。
 ここから見える桜がとてもきれいなのよ、と窓から満開の桜を眺めていた母は、満ち足りた表情をしていた。

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