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誰がリプレイアビリティを殺したのか?

それは私、とゲーマーが言った。

はじめに

“リプレイアビリティ/Replayability”というのはなかなかに曖昧な概念で、元々の英語はre-play-abilityで複数回ー遊ぶー能力であるから“複数回遊べるだけの能力”程度の意味であろう。近年のボードゲームコミュニティでは、概ね特定のゲームが「何度も飽きずに楽しんで遊べるかどうか」を表す言葉として使われている。“リプレイアビリティが高い”ゲームは何度遊んでも楽しめるし、“リプレイアビリティが低い”ゲームは数回遊んだらもう満足してしまう、というわけだ。おおよそそのような意味合いの言葉であるとして以下の文章を読んでいただきたい。

問題提起

この英文コラムを読んだのが話の始まりである。いや、実際にはこうした問題意識は以前からあったわけだが(このコラムの執筆者であるCharlie Theel氏や私自身以外にも多くの方が意識的・無意識的に感じていたことではないかと思う。例えばこれ)、このコラムが問題を明確化してくれた、ように思う。

Dominion Killed Replayability

https://playerelimination.com/2023/02/02/dominion-killed-replayability/

この後の議論を先回りして結論を先に書くと、私自身はこの記事の内容は意義のある指摘であるとは思うけれど、それは現実の一面にしか過ぎずかつバイアスの掛かった挑発的な記事になっていると考えている。なのでこの記事を翻訳公開するだけで終わらせてしまうのは必ずしも誠実な態度とは思えず(翻訳記事にはそれだけである種の権威付けがされてしまって取り扱いが難しい面がある)、むしろこの記事を起点として自分の考えをまとめる方が良いのではないかと思った次第である。それが潜在的な読者にとって良いことなのかどうか、と言われるとそれはまた別の話であるわけですが。

それはさておき

元記事の内容をざっくりとまとめると、昔のゲーム(~2000年代半ばまでの。代表例として『チグリス&ユーフラテス/Tigris & Euphrates』(1997, Reiner Knizia))においてリプレイアビリティは“戦略的な深さ(strategic depth)”と”ゲームシステムの探索(system exploration)”によって生み出されていたが、『ドミニオン/Dominion』(2008, Donald X. Vaccarino)以降はコンテンツ(≒内容物)の多さがリプレイアビリティの指標になってしまった、という指摘。その結果として本質的なゲームの“面白さ”よりも見せかけの多様性が重視されるようになってしまったのではないか、というようなメッセージであろう。
(かなり端折っているので興味のある方はそれぞれ御自身で元の英文記事を読んでいただきたい。比較的ハイコンテクストでかつフォーマルな英語ではないので、機械翻訳だとかなりニュアンスが零れ落ちてしまうところにはご注意を)

で、それって悪いことなの?

『ドミニオン/Dominion』を挙げるまでもなく、『マジック・ザ・ギャザリング/Magic: The Gathering』(1993, Richard Garfield)以降のTCG系のゲームは、定期的にカードプールを追加・交換することで、基本的なゲームシステムを変えずに環境を変化させることでゲームの寿命を伸ばしてプレイヤーの楽しみを継続させるという方法を取っています。それって悪いことなの?というとまったく悪いことではないわけです。ユーザー側としても、見せかけの多様性であれゲームの本質的な深さであれ、何度も楽しめるのであればどちらだって良い、というのが多数派の意見ではないでしょうか。だって楽しいんだから。
問題があるとすれば、それは「セットアップの多様性や追加コンテンツなどを優先した結果、ゲームシステム本体の面白さが薄くなって、結局リプレイアビリティが高まらなかった(あるいは単純にプレイが楽しくなかった)」という状況でしょう。残念ながらそうしたゲームは少なくないし、場合によってはKickStarterなどで高額の出資を集めてしまうこともあるわけです。しかしそれは“セットアップの多様性”や“追加コンテンツ”や“豪華なミニチュア”や“たくさんのシナリオ”といった要素自体の問題ではなく、単にそのゲームが出来の悪いゲームだった、というだけの話ではないでしょうか。出来の悪いゲーム(数回遊んだらもういいや、となるゲーム。あるいは一度もまともに遊べないようなゲーム)は『ドミニオン/Dominion』以前にもあったし、90年代後半にもあったわけで、それは今に始まったことではないのです。忘れたとは言わせないぜ。

リプレイアビリティは一元的な指標ではない

そもそもリプレイアビリティって、本来一元的な指標として考えるべきものではないのではないでしょうか。なんとなくの感覚ではありますが、「盤面のセットアップやプレイヤー能力、カードプールの変化などによる多様性によって、なんども異なる状況で遊べる“広さ”」と「プレイヤーの選択肢が多く、同じ状況でも様々な戦術/戦略を試してみたくなる“深さ”」の2つの要素があって、実際のリプレイアビリティは“広さ✕深さ”と考えるのが良いような気がします。この時、多様性によって生み出される広さは“飽きさせない”ための仕掛けであり、ゲームシステムによって生み出される深さは“また遊びたくなる”ための仕掛けである、であるようにも思います。当たり前ですが、ここでは論旨をわかりやすくするために単純化しているだけで、両者は独立しているわけでも直交しているわけでもないのですが。
ここで広さを優先するか深さを優先するかは、それぞれのゲームがどのような遊び方を(あるいはユーザー層を)ターゲットにしているか、の問題であって、善悪・優劣の問題ではないのです。プレイヤー/プレイコミュニティによって好みは異なるので、それぞれにあったゲームを選ぶことができればそれで良いと思うのですが、一方でこうした異なる概念が“リプレイアビリティ”という一つの言葉にまとめられてしまっている現状には改善の余地があるように感じています。多様性によって生まれる広さ、システムによる深さ、両者の総合的な指標としてのリプレイアビリティ、をそれぞれ別の概念として評価する言葉があると良いのではないかな、と思っています。
(私はボードゲーム批評家でもボードゲーム論客でもボードゲームジャーナリストでもないし、そもそもコミュニティのメインストリームから外れているので積極的に考えたりはしないのですが。誰か考えて)

なぜ多様性ばかりが目立ってしまうのか?

一方で昨今のボードゲームがセットアップの多様性や追加コンテンツや新たな特殊能力やらといった“広さ”を売りにするものが多いのか、というと、まあ単純にわかりやすくて訴求力があるから、なのでしょう。これについては元の記事の指摘にある通りKickStarterという集金チャンネルが開拓されたことと無関係ではない気がします(そういう意味では『ドミニオン/Dominion』以降というよりは、ボードゲームクラウドファンディングが拡大した2013年以降のトレンド、と言うべきでしょう)
多様性による“広さ”は当然ゲームの内容物の多さに繋がりますし、そうした要素はミニチュアや追加のカード/ボードといった見てわかる豪華さとして売り込むことができます。また、セットアップの多様性は単純に数値化できる(「300万通り以上の組み合わせ!」的な)のも売り文句にしやすいですね。システムの面白さや戦略的な深さは主観的・定性的にしか評価できないのでどうしても説得力という意味では弱くなってしまいます。「簡単なルールで深いゲームプレイ」「覚えるのは簡単、極めるのは至難」なんて惹句、見飽きてるんですよ!(個人の感想です)
結果として、ゲーム的な面白さは二の次に見栄えばかりが優先されるゲームが増えている、という傾向はあるのではないかと思っています。それは短期的な売上に直結するからで、今の業界では結局のところ中長期的な成功を期待するのが難しいというビジネス的な構造の問題とも関わっていて、一方的にパブリッシャーを批判できる話でもないでしょう。多くのユーザー側が見栄えに惑わされずに製品を評価できるようになると良いのですが(わかった上で見栄えに投資する、のはまったく問題ないのですよ。念のため)

ゲームシステムの深さとは?

一方でゲームシステムの深さというのも曖昧かつ都合良く使われる概念です。極めて主観的なものであると同時に、一定の批評が成り立つ側面もあるのでなかなか難しいのですが、コミュニティ全体(国内に限らず英語コミュニティも含めて)としてそうした部分の批評文化が熟成されていないようにも思われます。
そもそもゲームシステムの深さ自体が様々な要素を含む複合的な概念であり、流行り廃りがあるものと考えるべきでしょう。90年代後半から2000年代前半は、よりプレイヤー間のインタラクションを重視したゲームシステムが主流でした(インタラクションについてはこの記事で触れていますが……近日中に追記・書き直しします)。実はプレイヤー間のインタラクションを重視したシステムにおいては、他のプレイヤー自体が多様性を生み出してくれるんですよね。誰が隣りにいるのか、他のプレイヤーがどのような戦略を選ぶのか、といったプレイヤーに起因するゆらぎがそのまま多様性に繋がるわけで、プレイヤー固有の特殊能力をゲーム側が配布しなくても、プレイヤー自身が固有の影響力を盤面に及ぼしてくれた、と言えます。だからシンプルなコンポーネントでも十分な多様性を生み出すことができたし、わざわざコンポーネントを豪華にしてシステム側で多様性を用意する必要が薄かったわけです。一方でこうしたプレイヤー間インタラクションを重視するゲームには、ゲーム体験がプレイヤーコミュニティに依存してしまうという欠点もありました。参加者のゲームに対する理解度がある程度揃っていないとゲームが破綻してしまうことは当たり前のようにあったし、一回ミスをしたプレイヤーが何も達成感を得られずにボコボコにされることだってよくあることでした。良くも悪くもある程度固定化された、限られたメンバーで遊ぶことが前提としてゲームがデザインされていた、とも言えるでしょう。2000年代半ば以降、ボードゲームがより広いコミュニティで遊ばれるようになるとこのようにゲームが機能しない局面も増えてきて、そうなるとゲームの深さはプレイヤー間のインタラクションを限定していかにシステムを効率的に攻略するかの競争として実装されるようになり、その結果セットアップの多様性を確保することで新鮮さを失わないようにする必要が生まれて云々。つまりセットアップの多様性とプレイヤー間のインタラクションの低下はボードゲームが広まってコミュニティが拡大したことの帰結、であるとも言えるでしょう。同時にインターネットによる情報の蓄積と拡散の高速化もローカルコミュニティによる繰り返しプレイという楽しみ方には逆風であったわけですが、その辺りは以前書いたこのあたりの話とちょっと近いのではないかと思います。
極端な例を出すと囲碁・将棋・チェスなどはセットアップの多様性は皆無でゲーム体験は対戦相手に極端に依存するわけですが、分厚いプレイヤー層と適切なマッチングとハンディキャップシステムの実装によってリプレイアビリティを担保しているわけです。これはつまり、リプレイアビリティはゲーム単体で完結した性質ではなくゲーム外の要素も関わるより広範な概念なのだ、という話ですが。

そもそもリプレイするのか問題

しかしですね、そもそもリプレイアビリティがそこまで重要なのか、という問題があるわけです。20年前に比べて、ボードゲームのタイトル数は世界的にも国内的にも数百倍に増えているわけです(正確な数字を調べる気力がないので適当ですけどまあそのくらいじゃない?)。飽きたらまた新しいゲームを遊べば良い、なんだったら飽きなくたって新しいゲームを遊ぶないと、という環境においてリプレイアビリティを論ずることにどれだけの意味があるのでしょうか?1回しか遊べないレガシースタイルやキャンペーンスタイルのボードゲームに対して使い捨てだと批判した人もたくさんいましたが、果たして今の我々はそれぞれのタイトルをリプレイアビリティを議論できるほど遊び込んでいるでしょうか?家にはまだ遊んでいないゲームが積まれているのにまた新しいゲームを買っていながら「リプレイアビリティが」などとしたり顔で語ってはいないでしょうか?(自己批判です)
これはボードゲームよりもTRPGでよく言われる売り文句だと思うのですが「このゲームを買えばそれだけで一生遊べる」(つまりリプレイアビリティが極めて高い)と言ったりしますが、それが本当であるとするとビジネスとしてはおいしくないし、継続性も低くなってしまうわけで、むしろ新版なり拡張なり別タイトルなりを発売するビジネスモデルの方が健全であるともいえます。“ボードゲームバブル”と言われて十数年(2000年代後半には既に言われ始めていたと思うけれどソースが見つからなかった。軽く調べた限りでは2014年末くらいに一度話題になっている)、ユーザー層も変わり、ユーザーの好みも変わり、ビジネスモデルも変わり、ビジネスの規模も変わり、その中でボードゲームに何を求めるのか、ボードゲームをどう評価するのか、について、改めて考えてみるのも良いのではないかと思います。

まとめのようななにか

  • リプレイアビリティ多様性による広さ✕ゲームシステムの深さで近似できるのではないか。

  • 前者は目立ちやすく注目を集めやすいが、後者も評価すべき(ただし主観的・定性的になりがちなので難しい)

  • “ゲームとしての面白さ”自体にもトレンドがあり、向き不向きもある。

  • リプレイアビリティ自体が様々な要素を内包していて、優劣というよりは好みの問題である。

  • これだけゲームが溢れている中で、うまくユーザーが自分の好みに合うゲームに巡り会えるようなガイダンス/ナビゲーションができるようになると良いな(本文中では明示的に書いていませんが、多分これが一番大事なところではないかと思っています)

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