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「強運」の正体

「運」についてXにポストした流れで、1つ気づいたことを。

子どもの頃から母親に「みーちゃんはくじ運がいいから」と言われて育った。母がなぜそう思ったのかというと、たまたま幼い私に何かのくじを引かせてみたら、それが当たったからという単純な理由である。母はとても思い込みの激しい性格なので、おそらくその1回で「この子は運がいい」と信じてしまったのだろう。

それから私は宝くじを買うのに連れて行かれたり、くじ引きをするときはくじをひく係を頼まれた。そうこうしているうちに大物を引き当てることもあり、中学生のときには年末ジャンボ宝くじで10万円が当たったこともあった。

その後の人生でも、ちょこちょこ抽選に当たったりしていたので、私自身も自分のことを「運がいい」と思うようになった。最初はくじ引き限定だったが、だんだんと拡大解釈して、全体的にざっくりと「自分は運のいい人」と自己認識するようになった。

しかし、今回経沢さんのXへのポストから派生して「運」についてまじまじと考えてみると、私が信じていた「強運」というのは、単純に抽選に参加した回数が多かっただけなのではないかと思った。つまり、私や母が些細なきっかけで「この子は運がいい」と思い込んでしまったことで、自分自身が積極的にくじを引くだけでなく、他人の分までくじを引くようになり、単純に抽選の機会が何倍かに膨れ上がり、その結果「当たり」を引く回数が増えただけなのではないかと。

とすると、多くの人はこう思われるかもしれない。「抽選の回数が増えたら当たる数も増えるけど外れる数も増えるのでは?」と。確かに、それは実際にそうだろう。しかし人間とは都合のいいもので、当たったことは覚えていても、外れたことはたいてい覚えていないものである。少なくとも自分についていえば、当たった記憶は強烈に残っているけれども、外れた記憶はきれいさっぱり消し去られている。

というわけで、私は心底「自分は運がいい」と思い込んで今まで生きてきたわけだが、このような思い込みを、意図的ではないといえ私に与えてくれた母には感謝している。というのも、この思い込みのおかげで、明らかに標準的な人より不確実なことにチャレンジする機会を多く得ることができたからだ。

留学、結婚、起業、未知の世界への転職。こういった機会を得た時に、私は迷うことなく「やる」方を選んできた。その根底には「自分は運がいい(から大丈夫)」という根拠のない自信のようなものがあったように思う。そして実際に手痛い失敗もしているのだが、それでもやっぱり「自分は運がいい」と思い込んでいるので、「こんな大失敗をしたけれども、この程度の傷で済んでよかった。やっぱり自分は運がいい」と思っているのである。

だから、失敗しても失敗しても懲りずにトライを続けることができるし、むしろトライを繰り返すごとに「失敗してもどうにかなった」という経験に基づく楽観思考が強化され、より一層「恐れ」が消えていく。「怖い」という気持ちの大部分は「無知」「未知」に起因するものだからだ。そして、そうこうしているうちにヒットやホームランが出る。これが「強運」の正体なのではないだろうか。

とにかく運を引き寄せたければ、アクション、アクション、アクションだ。やはりどう考えても物事のランダムな確率が人によって大きく変わるとは思えない。短期的な運不運の偏りはあるかもしれないが、長期的に見たら良いことが起こる確率にほぼ大差はないはずである。つまりどんな人でも、機会を増やせば必ず好機は訪れる。

あと1つ大事なことを。人にはなるべく親切にとてつもない不運に見舞われたときに、その不運から救ってくれるのは人しかいない。それは家族かもしれないし、友人かもしれないし、同僚かもしれないし、取引先かもしれない。私の経験上、他人に救われる経験ほど「自分は運がいい」と実感することはない。それは一見すると、コントロール不能なことに見えるからだ。

まとめると、強運とはつまり、コントロール不能なことのように見えて、実はそうではないものなのではないかと思う。少なくとも良い結果をもたらす確率は、自助努力で高めることができる。今のところ、私はそのように考えている。

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