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人を所属や肩書きで見るか、ひとりの人として見るか

法律を一切持ち出さない弁護士

出版社に勤めていたとき、著者との間にある問題が同意できず、その著者の代理として弁護士の人と会うことになった。こちらも弁護士を立てようか迷ったのだが、余計なことを言わないよう注意しながら、その弁護士との会談に挑んだ。

やってきたのは初めて聞く名前の事務所に所属する弁護士さん。緊張しながらお会いしたのだが、この弁護士さんの振る舞いには驚いた。僕ら出版社が著者の希望を認識しているかの確認が終わると、こちらが著者の要望を受け入れられない事情を聞いてくる。その事情を理解するやいなや、さまざまな提案を示してきた。「○○であれば、○○にしてもいいか」などである。それに対し僕らの要望を伝え、提案内容を修正して新しい案を提示する。その繰り返しで、ある意味、僕ら出版社にとってとても望ましい案が出来上がり、弁護士さんは「著者の意向を聞いてきます」と帰っていった。その後、弁護士さんとは何度かやり取りがあり、結局とてもスマートな案で著者も僕ら出版社も合意することができた。その合意案は、どちらから妥協したものでもなく、当初、著者も僕らも想定していた以上の着地点であった。

この弁護士さんは、一連の交渉において、法律の知識や法的処置を一つも使わなかったのだ。それなのに、僕らと著者の間にある問題を見事に解決することができた。おかげで著者との関係は、この問題が発生する以前の、とても良好な信頼関係に戻ることができた。

この件で、僕は当の弁護士さんにすっかり興味が湧いてしまった。そしてこの件が完全に終わるのを見計らって、僕は適当な理由を伝えて、この弁護士さんと面会させてもらった。

お会いして話を伺うと、人と人との関係でトラブルが発生した際、法律を使うのは最後の手段だと言う。「法律を持ち出すと、元の関係に戻れにくくなる。だから出来るだけ法的手段以外の方法を考えます」と言うのであった。この方には、別の仕事で、以後も大変お世話になることになった。同じ弁護士の方と知り合うのでも、こういう方と知り合えるのはラッキーである。

肩書きと付き合いか、人と付き合いか

この話を思い出したのは、先日、「名刺交換から人と人の繋がりはどこまで深まるか」というテーマのイベントに出たことがきっかけだった。今から思えば、議論の根底に流れていのは、人を所属や肩書きで見る発想と、人を人として見る発想の違いである。

名刺はその人が所属する組織、そして部署、それに肩書きを知らせてくれる。有名な大企業に所属している人だと、立派な人かもしれないという類推が働くが、一方で、我々はその人の実力や人間性と、勤める会社のブランド力が相関しないことも実体験として知っている。肩書きは、その人が組織内でどんな責任を負う立場であることを伝えると同時に、その組織からどういう評価を受けているかを物語る。しかし、それとて、組織に勤めた経験のある人なら、組織内で担う役職と、その人の実力や強みに乖離があることは経験上知っている。つまり、名刺はある程度の情報は伝えるツールになるのだが、本当に知りたいことは何も語っていない。

本当に知りたいのは、その人の人となりである。
ある会社と仕事をしたいと考えたとき、その会社の社員の方との出会いを求める。しかし、現実はその会社の社員であれば、誰でもいいわけではない。新しい提案であれば、「前例がない」という理由で話を聞いてもらえない人だったらアンラッキーだ。ビジネスライクに処理する人にも、新しい提案や前例のない提案は難しい。組織として仕事をする際も、「誰と仕事をするか」は常に重要である。

一方で組織での仕事が属人的なのも困る。人が変わってもビジネスが継続する仕組みこそが、企業が守るべきものである。担当者が変わっても同じような関係が維持されることは重要だ。だからと言って、どの担当者にも画一的な対応をしてもらいたいわけではない。個人的なベトベトしたウェットな関係を求めているわけでもない。それでも一緒に仕事をする人には、ビジネスライク以上のものを僕らは求めてしまう。先の弁護士さんのような人と出会いたいのだ。それが「誰と仕事をするか」問題である。

フラットな人間関係を築くには

そのなことを考えていた折に、脳科学者の茂木健一郎さんのコラム(ぼくらが地上波テレビを見なくなったワケ)を目にした。記事の主眼はネットフリックスでは、ユーザーの性別も年齢もマーケティングに活用していないというものだ。つまり、ユーザーという人を、年齢や性別でステレオタイプなもののとして見るのではなく、一人ひとりの好み(視聴データ)で判断しているようだ。そして茂木さんは、ネットフリックスが人気で、地上波テレビが以前より面白くなくなった要因をこの「人の見方」で分析している。誰しも機械的にセグメントされた属性の中にいる人としてではなく、一人の人として見てもらいたい。便宜上、典型的なカテゴリーに分類されても、その典型と一人ひとりの「自分」は異なる存在である。人を型に押し込める発想からは、人と人との深い繋がりは生まれてこないだろう。

属性ではなく、一人ひとりを「人」として見る。この発想こそが、人を所属する会社や肩書きで見ることの対極に思える。先のイベントでは登壇者の一人が「名刺に書かれた所属会社の力がないと何もできない人と仕事をしたくない」と語っていた。僕も全く同感で、その会社と仕事をしたいとしても、誰でもいいのではなく、その人自身に魅力のある人と仕事をしたい。ネットフリックスも、性別も同じで年齢も同じ人であっても、全く嗜好は異なるという前提でユーザーを見ている。これは人間関係の基本であり、それが企業と企業の関係でも、企業と消費者との関係でも、基本は同じなのではないだろうか。

このコラムの最後で、茂木さんは「個性に寄り添うと、人々の関係はフラットになるのだ」という言葉で締めくくっている。そう、僕らは属性や肩書きから離れて人と付き合うことで、よりフラットな関係性が構築されるのだ。

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