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高卒派遣ワーママが大家になったワケ#1【幼少期編】

バブルが弾けた平成元年に
浅草で商売をしている家に生まれた。

商売といっても、
喫茶店、焼肉屋、ビデオ屋、靴の工場という
真っ当な仕事もあれば

パチンコ、風俗、金貸しなど
人に言うのを少し憚かるような
商売も一族経営していたので

家族が集まると
いつだって仕事の話、
いや、金の話をしていた。

ようは、
どうやったら
もっと儲かるかだ。


そんな話を、
物心がつく前から聞かされて
育ってしまったので

自分も必ず社長になるんだ。と
当たり前のように考えていた。



そんな家庭で
自由奔放に育っていたある日、

突然、父が精神を病んでしまい
精神病院に入院した。

当時は、腰の病気といって
お見舞いに連れて行かれていたが

子ども心に、
あの妙な雰囲気が怖かったので
弟と硬く手を繋いで
病室まで向かったのは今でも覚えている。

そこから、
父ありきで周っていた会社は
あっという間に倒産してしまい
残ったのは祖母の焼肉屋だけだった。


ビルや別荘は全て売り払い
東京都で一番住民税が安いという理由で
葛飾区のボロアパートに引っ越しをした。

「今日から、ここに住むのよ。」と
母から言われて
生意気な小学生だった私は、

「なんで、この私がこんな所に!?」と
上から目線で憤った。

車はベンツから、原付になり
家はボロアパート。

これは、なんとかしないと、
父と同じ過ちは繰り返したくない。

思ったのは忘れられない。


それから、毎日寝る前に
「どうしたら、
父は病気にならずに
会社を経営し続けられたのか?」

「私が過去に戻れるなら
なんとアドバイスするか?」

考え続けた。


そして、

10才になる頃
一つの答えに辿りついた。


それは、
大家さんになることだ。

社長の父が会社のシステムの
一部になっている
会社経営をしていたから

病気になって
すべてを失ってしまったなら

社長がいなくても
経営が成り立つ会社をつくればいいんだ!と

気づいた。


じゃあ、自分が
大家になるにはどうしたら良いか?

資金調達の方法は、
子どもの私には分からなかったので

小6の卒業アルバムの将来の夢には、
「宝くじを当てて大家になる!」と
書いていた。

同級生からは、
恥ずかしいやつだと言われたが

親戚に大家さんがいたので
私にもなれるだろう。と本気で考えていた。


大人になってから、
ロバートキヨサキの
「金持ち父さん、貧乏父さん」で
キャッシュフロークワドラントを知り

自分の考え方は
間違っていなかった!!と確信を得られて
あの時は、ものすごくうれしかった。


ただ、

小学生だった私には
もう一つ大きな悩み

があった。


それは、
壮絶な夫婦喧嘩だ。

退院してから
身を粉にし雇われて
ギリギリの精神状態で働く父と


今まで外で働いたことがなく
ピリピリしている母は

毎日のように喧嘩をしていて
ものすごくストレスだった。


父はガタイがよく
カタギなのに
よくヤクザに間違われるような人相で

キレると
手がつけられない。


夕食中にちゃぶ台をひっくり返したり
ガラスの馬鹿でかい灰皿を投げて
窓を割ってしまったり、


母も父がキレるまで罵倒するので
蹴りを入れられて
よく腐ったバナナみたいなアザができていた。

仕方ないので、
毎日のようにケンカの仲裁に入って


小学3年生くらいから
「親父!やめろよ!!」と
叫びながら止めていた。

そんな修羅場の日々に
ほとほと疲れ果てて
自律神経失調症になったり、

突然、足に激痛が走り泣き喚いて
救急車で運ばれたり

夜眠れなくなったり

小さな子どもながらに、
よく戦ったなと思う。


大人になった今、
父を俯瞰してみると

過去のスマートだった自分と
現在の自分との違いに
精神的に耐えられなくて
八つ当たりしていただけな気がする。

そんな家庭環境で
育ったので

絶対に元の生活レベルに
以上になってやる!と
心に決めていた。

大人になった時、
ビルを複数もつオーナーになれば
父のようにはならないし、

好きな仕事に
損得関係なく
思う存分夢中になれる。

小学生時代の、
素直な想いとしては、
犬が大好きだったので
ブリーダーに憧れていたが

盤石な収入基盤を
作ってから
夢は叶えれば良いと思うようにして諦めた。

学校の勉強は、
所詮は会社員として雇われるのに
都合の良いように
集団行動を叩き込まれる場。


くらいにしか思っていなかったし、
世の中を斜に構えて
見ていたので

興味のないことと
リターンを生まないことに対して
まったくモチベーションが湧かなかった。

そんなわけで、
将来役に立ちそうと感じた
パソコンの授業くらいしか
身に入らず


通知表は、ほぼオール3。

熱心な女性の担任の先生から
「おまえは、悔しくないのか!?」と
叱咤されたけど

まったく悔しくなかった。

自分が苦手なこと、好きじゃないことは
得意な人を雇ってやってもらった方が
有意義だと思っていたからだ。


ただ、
好きなことは、自分で調べて
出来るまで熱中するので
パソコンばかり触っていた子どもだった。


当時は、ADSL回線が普及したばかりで
同級生の家のパソコンにトラブルが
あるとよく呼び出されて
セットアップしなおすと

とても喜ばれて
よくごはんをご馳走になっていた。


小学5年生の頃、
父のDVが激化

し見ていられなかったので

「お母さん、
もう離婚して
おじいちゃんと住もうよ!」

母を説得し


右葉曲折あったが
なんとか、また浅草に戻ってきた。

離婚して
父と別々に住むようになってからは、
夫婦喧嘩がないので
神経をすり減らす必要がなくなり
まるで天国だった。


たまに、父が家に来ては
母とケンカしていたが
一緒に住んでいる頃と比べたらマシだった。


ちなみに、暴力を除いて
父のことは、好きだ。

勉強家で仕事に対しては真面目だし、

日曜日は、私の友だちを引き連れて
遊びに連れて行ってくれたし、

ものすごくお喋りで
いつも笑わせてくれるおもしろい親父だ。


それからあっという間に、
17才になり、

奨学金を借りて大学へ行くか?
それとも、高卒で就職するか?

人生の分岐点に来た。

その時点での私の目標は、
不動産業界で働くことだった。

奨学金を借りて大学へ行って
その投資した資金を回収できるほど
会社員で稼げる算段がつかず
悩んだので父に相談した。

会社員の給与では、
回収できないと説明され、

「そもそも高卒で
不動産業界に就職すれば?」と
言ったかと思うと

その場で、高校に電話して
「不動産業界に
就職できないのか?」と聞いてみたら

話はトントン拍子に進み
ありがたいことに


紹介先に野村不動産の
グループ会社があったので
就職することになった。

将来、役に立ちそうと思って
取得しまくってきた
パソコンや簿記の資格が
役に立った瞬間だった。


それから、
何年か高卒で正社員として働いていたが

2011/3/11に東日本大震災

が起こり、

「人っていつ死ぬか分からないのか」と
ものすごく衝撃を受けて

「やりたいことをやって
後悔しない人生を生きよう」


と思いたち、
前々から英語を話せるように
なりたかったので

会社を辞めて
フィリピンへ語学留学し

そのあとも、
子どものころ好きだった
プログラミングの学校に通ったり

一年ほど
お金を稼ぐことを目的にしないで
ただ、好きな勉強をしまくってみた。


結局、振り返ると
今の仕事に役立っていることが
多いのは不思議だ。


帰国してお金がなかったので
とりあえず派遣で働いていたある日。

夜遅く、家に帰ったら・・・

母がいなくなっていた。


弟が一言、

「お母さん、DVの保護シェルターに入っちゃった」

というの言うのだ。


もう、意味がわからない。

話を聞いてみれば、
父が突然やってきて
警察沙汰になり

「殺す!」と言ったことが
決め手となり


母は、DV被害者として
半年間もの間、
保護シェルターに隔離されたのだ。


なんて悪い意味で
ドラマティックな両親だろうか。


その間、母と連絡がとれず
本当に大変だった。


母の収入がないと
家賃を払いきれなかったので
一人暮らしをするつもりだったが


今の夫が、心配して
一緒に住んでくれることになった。


夫の母から
「一緒に住んだら
デキ婚になるだろうから
もう、結婚しちゃいなさいよ。」と

勧められ、
「確かにこの人以外考えられないな。」と
思ったので結婚することにした。


入籍して3ヶ月後
義母の予想通りに
見事妊娠した。

そして、
この結婚が大家になる
大きなきっかけになった。

続く


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