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【小説】暗流~アンダーカレント~ 第一話

【あらすじ】
金沢で私生児として生まれ、両親に捨てられた過去を持つ美樹本リョウ。故郷を出て東京の大学に通っていたが、ジャズミュージシャンになるという夢が破れ、今ではギャンブルの才能だけを頼りに全国を放浪する暮らしを送っている。ある日、行方の知れなかった母の美樹本みどりが自殺したというニュースを目にし、大阪へ行く。そこで待ち受けていたのは、因縁の賭場経営者の男、そして彼の経営する賭場でピアノを弾く謎の女だった……。


 冬が訪れても、難波の街の体感温度は下がることがない。
 アーケードに覆われた難波センター街は、行き場を求めて彷徨う若者と観光客でごった返し、熱気と騒音が充満していた。飲食店やカラオケボックスはどこも満員らしく、通りにまで行列ができている。ゲームセンターやレンタルDVD店にも人があふれ、原色のネオンで彩られたパチンコ屋は通行人の足を止めようと耳障りな軽音楽を街路に垂れ流している。
 人波に流されるままにアーケード街から一歩はずれると、なんばグランド花月が見える。劇場前の広場には学生風の若者がたむろしている。
 劇場の裏手――塗装の剥げた「サウスロード千日前」のゲートをくぐると、がらりと街の雰囲気が変わる。シャッターのおりた家具屋、寂れたスナックにラブホテルが密集しており、人通りも少ない。
 路地を木枯らしが吹き抜けた。
 美樹本リョウは立ちどまった。コーチジャケットのポケットに手を突っこみ、たばこを取り出した。ひと目でホープとわかる短い太巻きを一本くわえ、ダンヒルのライターで火を点ける。金属音が鳴り響き、夜気を切り裂いた。濃い煙がただよう。
 リョウの前を、白髪頭の痩せぎすが歩いている。彼は軽く後ろをふりかえり、リョウの足元を盗み見た。視線の先にはコードヴァンの革靴が光沢を放っている。
 白髪は舌打ちをした。「二十三歳で、ダンヒルにオールデンかい……キザなやっちゃ」
「そっちは、もっと身なりを気にしたほうがいいぜ」とリョウは言葉を返す。
 白髪は色褪せたジャンパー姿で、安物のビジネスシューズを履いている。
「余計なお世話や。若造の分際で……」
「本当にこんなところに、例の店があるのか?」
「この先や」
 さらに奥へ進む。スプレーの落書きが目立つマンションが建ち並んでいる。街灯が少なく、明かりを発しているのは自販機くらいのものだ。
 とある雑居ビルの前まで来ると、駐車場に停められた黒塗りのベンツから、顔見知りの戸崎昌孝がおりてきた。
 この男は、百七十八センチのリョウが目線を上げるほどの上背があり、肩幅も広い。年は四十五、六のはず――。豊かな漆黒の髪はオールバックに撫でつけられ、トム・フォードのスーツを着こみ、靴はグレーのスーツと同色のジョン・ロブだ。
 戸崎はリョウに気づくと、口の端を曲げた。
 リョウはくわえていたホープを地面に落とし、靴底で踏みにじった。
「奇遇だな、戸崎さん」
 リョウがいうと、戸崎は険しい表情を一瞬浮かべたが、嘆息まじりに顔をそむけた。
「……こっちだ」戸崎は掠れた声で一言いうと、ビルに入った。
「あんた、もう帰っていいよ」リョウは、背後にいる白髪を手で追い払おうとした。
「……何いうてんねん。わしも遊びに来たんや」
 三人はエレベーターに乗って、最上階の五階に上がった。鉄製のドアの前に立つ。戸崎がベルを鳴らす。音がフロアまで響くこともなく、無音だった。ドアの斜め上には監視カメラのレンズが光っており、まるで意志を持っているかのようにリョウと白髪を凝視した。
 ベルの横には表札の代わりに、一枚の白黒写真が鋲で打ちつけられていた。ロングドレスを着た女性が、湖の水面下を漂っている――幻想的なショットだった。
 リョウが写真を見て、口を開いた。「店の名前は《アンダーカレント》かい?」
 戸崎が、リョウのほうに少し顔を傾けた。「……よくわかったな」
「ビル・エヴァンス&ジム・ホールのアルバムジャケットにそっくりだ」
「おまえもジャズは好きだったな」
 白髪は会話に入れず、後ろから二人を見比べるばかりだった。
 戸崎が遠い目をすると同時にロックが解除され、鉄製のドアが重々しく開いた。出迎えたボーイが頭を下げ、三人を招じ入れる。
「あんたの店か?」リョウは新しいホープをくわえながら、戸崎に訊く。
「そういうことらしいな」
 四十坪ほどの薄暗い店内には、バカラ台が三台置かれていた。
 それぞれの台には、白無地のワイシャツに黒ベスト、黒の蝶ネクタイという服装の男性ディーラーが配されている。ディーラーの立つ位置から、バカラ台は扇状にひろがっている。その半円に沿うようにして等間隔に置かれたスツールに、客たちは腰を落ちつけている。
 すべての台は、満席に近かった。客数は四十人程度だ。
 彼らは手もとに積んだチップの山から、幾枚かを前に押し出す。そして、めくられるカードに目を釘づけにする。バカラの一勝負は早い。またたく間に、皆の前に積まれたチップが移動する。ディーラーに没収されるか、倍になって返される。
 壁には「ミニマム50ドル」と書かれた紙が貼られている。
「ベット(賭け金)の下限が五千円か」
「なんなら帰ってもいいぞ」
 リョウは店内を見廻した。
「カジノらしくないもんが置いてあるな」
 リョウが顎をしゃくった先には、スポットライトに照らされた一台のグランドピアノがあった。
 ピアノの前には、袖の長いシルク製のロングドレスに身を包んだ、写真の女性が座っていた。彼女は両手を鍵盤の上に置く。顔を俯かせながらワルツを奏でた。インテンポに入ると、淀みない音運びで軽快な四拍子に変わった。ジャズ特有の転調だった。
「へえ、ジャズピアノの生演奏か。洒落てんじゃん」
「ゆっくりしていくといい」
 戸崎はそういい残すと、客で賑わうバカラ台を廻ってバックヤードへと消えた。
 白髪はすでにバカラ台の前に座って、ゲームに興じていた。
 リョウはバーカウンターに寄りかかり、ピアノの演奏に聴き入った。ホープを一本、灰にすると、バカラ台へと移動した。空席に腰を落ちつけた。クラッチバッグから帯封の札束をひとつ取り出して、テーブルの上を滑らせる。ディーラーが金を受け取り、百万円分のチップに替えた。
 リョウの右隣には白髪が座っており、紙に鉛筆で文字を書いている。
「風向きはどうだい」
 リョウが声をかけると、彼は顔を上げた。
「……バンカー続きやな」
 白髪がメモをリョウに見せた。それは出目表だった。序盤は「P」の文字と「B」の文字がほとんど交互に出ているが、直近の五ゲームは「P」だけが連続して並んでいる。
「ツラ目か」リョウは出目表を返した。
 白髪は面倒くさそうに数枚のチップを、テーブル上の〈PLAYER〉と書かれたエリアに置いた。他の客の多くも〈PLAYER〉にチップを積む。そろそろ目が変わるころだろうと〈BANKER〉に賭ける者も少なくはない。
 プレイヤーサイドとバンカーサイド、それぞれに配られるカードのどちらが強いか、ただそれだけを予想して賭けるゲームがバカラである。シンプルゆえに、ギャンブルの最高峰ともいわれる種目だ。
 リョウはピアノの旋律に耳を傾けながら、指でリズムを取った。チップを賭けようとはしない。
 ディーラーが前に手を出して、皆にベット終了の合図をした。そして手もとのシューターからカードを引き抜いてきて、〈PLAYER〉と〈BANKER〉に二枚ずつ伏せた。
 各サイドで最高額を賭けた客には、伏せたカードを自分の手で開く権利が与えられる。
 まずはプレイヤーサイドにもっとも高額を賭けた厚化粧の中年女性がカードをめくる。一枚目は絵札でノーカウント。二枚目が7だった。合計数は七。女は不満そうに唇を尖らせて、カードをテーブルの中央に投げた。
 次はバンカーサイドに最高額をベットしたチンピラ風の男がカードをめくる。一枚目が3。二枚目も3だった。合計数は六。チンピラは舌打ちをして、二枚のカードを折り曲げ、テーブルに叩きつけた。
 客たちはどよめいた。喜ぶ客もいれば、落胆する客もいる。ディーラーが即座にチップの移動をして、使い終わったカードも回収する。バカラでは一度使ったカードは二度と使われることはなく、破棄される。
「またプレイヤーの勝ちや」白髪は勝って倍になったチップを手繰り寄せながら、リョウに向かって歯ぐきを見せた。「どないした、にいちゃん。せっかく案内したったのに、賭けへんのか?」
 リョウは黙ってホープをくわえ、火を点けた。
 次も、その次もプレイヤーの勝ちだった。別の台にいた客たちも立ち上がり、リョウのいるバカラ台のゲームを観戦しはじめた。プレイヤーのツラ目がいつまでつづくのか、興味をそそられている。
 店内に一瞬、静寂が訪れた。ピアノの演奏が曲を終えたのだ。
 客の全員がプレイヤーにチップを積んだのはそのときだった。もはや笑いながら、行くところまで行け……と投げやりに口走っている者までいる。
 ディーラーが客のベットを打ち切るために、右手を振りかけた。
 店内に再びピアノの旋律が流れ出した。タッチは精確だが、どこか厭世的なメロディーだった。
 リョウの右手が素早く動いた。
「……ベットですか?」ディーラーが訊く。
 リョウは含み笑いを返し、手もとのチップをすべて、バンカーに置いた。
「正気か。百万やぞ」白髪が驚いた。「それもバンカーに……」
 リョウ一人だけがバンカーに賭けていた。
 裏向きにカードが二枚ずつ配られる。
 プレイヤーサイドに最高額を賭けた禿頭がカードを手もとに引き寄せて、端からめくっていった。一枚目は3、二枚目は5だった。合計数は八――皆がざわついた。
 リョウはホープを灰皿に押し潰し、寄越されたカードに手を触れた。一枚目を開く。
 周囲から失笑が漏れた。ハートのクイーンが嘲笑っていたのだ。絵札は点数にならない。
 リョウの表情は変わらなかった。二枚目のカードに手をかける。両手を使って、端から縦方向にカードを開いていく。
 スペードのマークが二つ、顔を出した。リョウの背後で観戦する人々も、前かがみになってカードを覗きこんでいる。
 さらにカードを奥までめくる。二列に並んだスペードマークが、計四つ。
一気に中央まで開いた。リョウのカードを覗きこんでいた者たちが、ジェットコースターにでも乗っているかのような雄叫びを上げた。
 列と列のあいだに、スペードのマークが鎮座していたのだ。
 リョウがカードをテーブルの真ん中に投げる。それが9だとわかると、その場にいる全員が歓声を上げた。
 プレイヤーに賭けられたチップは、すべてディーラーに没収された。ただ一人、バンカーに賭けていたリョウには、コミッションを引かれた約二倍の配当がつけられた。周りから拍手が起こった。
「運のいいやっちゃ……」白髪はどよめきを遮るように、押し殺した声を出した。「なんでバンカーが勝つと思ってん」
 リョウは人差し指を上に向けた。「天からのお告げを聞いてね」
「……天も落ちてくることがあるぞ」
 観戦者たちは自分が勝ったわけでもないのに談笑しながら、自分たちの座っていた席に戻った。
 リョウは二百万近いチップをディーラーに預けて、席を立った。
「どこ行くねん。一回勝ったら、ヤメるんかい」
 リョウはコーチジャケットのポケットに手を突っ込み、バカラ台のあいだを軽い足どりですり抜けた。店の隅でピアノを弾く女の後ろに立つ。彼女は弾き終わったところだった。楽譜はない。すべてアドリブで演奏しているのだ。
 客は皆、無関心だが、リョウだけは拍手をした。「いまのは、ヘンリー・マンシーニの曲だな」
 女はゆっくりと振り向いた。ライトに照らされた長い髪がなびく。柑橘系の香りがひろがった。
「詳しいのね」
 澄んだ声がそう答えた。上からスポットライトが当てられているものの、彼女の顔のほとんどは影になっている。
「おれの一番好きな曲だからな」
 女はフッと笑っただけで、ピアノに向き直った。
「さっきは騒々しくさせてわるかった」
「私の演奏よりも、あなたのクールなプレイに惹かれたみたいね」
「あいつらには、きみの価値がわかってないんだ」リョウは彼女の前に廻りこみ、側板に手をついた。「なぜこんなところで弾いている? プロでも通用するレベルだ」
「ここでしか弾けないのよ」
「どういう意味?」
 女は顔を上げた。影に包まれていた顔が天井のライトに照らされて露わになった。目鼻立ちの整った顔は、能面のように無表情だ。しかし、切れ長の瞳には幽かに動揺の色が浮かんでいる。
 リョウはホープの箱を取り出して、一本を差し出した。
 女は目を伏せた。ふたたび横顔が陰影を深める。差し出されたホープに、細く長い指で触れようとした。流行りのネイルアートなどもない、綺麗に切り揃えられた爪だった。
「……なぎさ! 今日はそろそろ上がれ」
 戸崎の声だ。バックヤードのカーテンから顔を出した。
「はい」
 なぎさと呼ばれた女は鍵盤蓋を閉め、立ち上がった。すらりとして背が高い。彼女はヒールを鳴らしながら、カーテンの奥へ吸いこまれるようにして消えた。リョウは戸崎と目が合ったが、視線を遮断するようにカーテンは閉じられた。
 リョウは、箱から飛び出て行き場をなくしたホープを口にくわえ、火を点けた。天井のライトに向かって煙を吐き出す。紫煙が光の中を渦巻いてただよい、やがて影に溶けた。
 バカラ台の客たちはピアノの伴奏がなくなったことにも気づかない。大声を上げながら目の前のゲームに熱狂していた。
 白髪の男だけが親指の爪を咬みながら貧乏ゆすりをしている。何かに取り憑かれたような目は、バカラ台の上ではなく、戸崎となぎさが消えたバックヤードの揺れるカーテンに向けられていた。



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