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力を抜いて、考えない を頑張る。

すれ違いを埋めてからの日々は、とても平穏で幸せ。

特別嬉しい楽しいことがあるわけではない。
日常の些細な時間が 幸せだと感じられるようになって、鈴木奈々ちゃんの言葉を借りれば『愛してるが止まらない』

止まらないことはないんだけど、零れない程度の量が満タンにずっと入ってる感じ。


今朝、珍しく私の出勤時間の方が恋人タミオ君よりも30分ほど早かった。

『今日は俺が全部やるから、御子ちゃんは自分の用意だけで大丈夫だよ。』

宣言通り、ご飯のお片付けもお弁当の用意も(夜のうちに作ってあるのであっためるだけなんだけど)全部タミオ君がやってくれた。


やってもらったことには全力のありがとうを伝えよう大作戦決行中なので、私も全力のハグとともに感謝の気持ちを伝えたところ

『自分のことだし』と言ってクールに私をあしらった。

照れるなよ。

というか
『それを毎朝自分でやってないってことだからな!』ってオケツをモミモミしておきました。



『今日もお弁当ありがとう』と言って、タミオ君は自分のお弁当を保温バッグに入れる。

【明日から自分で入れなさい】と宣告したお茶は
そう伝えた翌日から本当に自分で水筒に入れている。

今日は私のお茶まで入れてくれた。


ほんの一言なんだけど
『今日のお弁当も楽しみだな』なんて言われると、頑張って作ってよかったなと思えるし

『美味しかったありがとう』って言ってもらえると、空になったお弁当箱を洗う行為ですら幸せを感じる。

自分でけしかけたこととは言え
ちゃんとお礼の言葉を伝えるだけで こんなにも円満に平穏に毎日を頑張れるんだなと実感している。


感謝も愛情も、言葉にすることで自分自身が実感する っていうからくりもある気がしている。心なしか、タミオ君も毎日楽しそう。
私からもきっと、幸せが滲み出ている気がするので、伝わっているのかもしれない。そうだと嬉しい。


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お互いに対する要望を話し合ったあの日

『御子ちゃんにとって何をしてる時が幸せ?』と聞かれた。

私は割とインドア派寄りなので、お休みが重なった日はどこかに遊びに出るより家でゆっくり過ごせる方が好きだったりする。

タミオ君はアウトドア派寄りなので、外に出たり一緒に買い物に行ったりしたいみたい。ここ最近は引っ越しに伴い必要な物が重なったこともあって、買い物に出ることが多かったけれど、私が対して買い物を楽しんでいない気がする(間違ってはいない)のを気にしていたようだった。


決して買い物やタミオ君と出かける行為が嫌なわけではない。
しかしながら、大きな買い物(出費)をすることや 必要以上に時間をかけて買い物をすることに疲れてしまったり、それに伴い外食が続いてしまうことにストレスを感じてしまうことが多かった。

なんでそんなことがストレスかって話は

もともと私は実家で半身不随の祖母を在宅介護していた経験から、長時間家を空けることがほとんどなかった。
母と祖母(母娘)はあまり折り合いがよくなかったこともあって、物理的にも精神的にも二人の間に入ることが規定値だったために、出かける予定を入れること自体 私の中では親不孝者の感覚があった。

当時は母もストレスが多くて、実際私が予定を入れることに否定的だったし 自分だけが大変な思いをしているとよく口にしていたから というのもある。


ばあちゃんが最初に倒れたのは60歳の時。でも実際介護生活を始めたのは私が高校生の時からで、土日は毎週のように通っていたし、平日も唯一学生生活で楽しかった部活をずっと休部していた。

在宅介護が始まったのは、ずっと元気だったじいちゃんの方が先に亡くなった13年前の話。ばあちゃんとの共同生活は約7年に及んだ。


ばあちゃんを引き取った時、妹たちは既に実家にいなかったので、必然的に私がサポートすることになったわけだけれど
当時飼っていた愛犬も老化と病気により看護が必要な状態になり、ダブル介護により尚更拘束状況は悪化したりして。


ばあちゃんも愛犬も、自分で動けなくなってからだいぶ長生きしてくれたおかげで、そんな生活を何年も送っていた。

必要以上に外出しない生活も、やむを得ず外出する場合に速攻帰ってくる事も当たり前だった。寄り道やハシゴなんて絶対にしなかったし、時間とともにお金もなかったので外食なんてもってのほか、そんな贅沢はしちゃいけないと脳みそ全体に刷り込まれて生きてきたので

なんというか、ゆっくり買い物をしたり、買い物ついでに食事を済ませて帰ってきたり、なんなら会社の帰りにカフェや居酒屋に寄っちゃうとか そういう普通の ちょっと贅沢な生活を当たり前に送ることができなかった。

そういうことをしない生活が当たり前で
ばあちゃんも愛犬も見送って環境が変わってからも、ずっとそうすることに罪悪感があった。


あった、というか実際には今もある。
ただそれは今までの生活で刷り込まれた個人的なものだとわかっていたからこそ、タミオ君と二人で暮らすようになったら少しずつそういう 一般的な当たり前に慣れていきたいな、と思ってはいた。

実際は、その罪悪感や 罪悪感を抱えてしまうことに対するストレスや疲労がタミオ君に伝わってしまっていて
私を無理に連れ回しているような印象を与えてしまっていたようだった。


これまでの生活や状況については伝えたことがあったけれど、それに伴う 先に記したような気持ちの部分はちゃんと話したことがなかったので
少しずつ慣れて本当は買い物も外食も楽しみたいと思っていることも伝えた。

『御子ちゃんはもっと自由になっていいんだよ』と、いつもタミオ君は言ってくれる。私は自由が何かわからなくて、どこまでが贅沢なのかわからなくて、いつも自分自身を 私が思う安全な位置 で制限してしまう。

自分なりの自由の正解を追い求めつつ、凝り固まって縛り付けているいろんなことから ゆっくり自分を解放してあげようと 努力している。

努力という言葉を使うのはおかしいかもしれないけど、ちょっと頑張るぐらい 贅沢しないと、なかなか自分の感覚を変えられない。

もちろん時間も懐も、限度はあるから
他に支障が出るほど贅沢ぶちかますわけではないけれど

常識の範囲内で与える贅沢すら、私はこれまで自分自身に許してこなかった。



少しずつ、本当に少しずつだけど
今までできなかったいろんなことを、余計な思考にとらわれず二人で一緒に楽しめるようになったらいいな と心底思っている。


今でも十分、幸せを感じているからこそ
これ以上の幸せを望む気持ちなどないわ と思ってしまいがち。


人生一度きり
できることはできるときに
会いたい人には会える時に

時には自分を甘やかすことも、結果的にそばにいてくれる人のためにもなるんだと 自分に言い聞かせながら 力を抜いて過ごしたい。



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