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愛着ある今治のためにゴールを決める #FC今治でプレーする 日野友貴

デビュー戦でいきなり示したストライカーとしての雄姿。11年ぶりに故郷に戻ってプレーする日野友貴選手は、ピッチでゴールに向かい続けます。このチームとともに上を目指して、どん欲に結果にこだわりながら。


▼プロフィール
ひの・ともき
1997年6月15日生まれ、愛媛県出身。170㎝、65㎏。利き足は右。FW。背番号21。
新居浜船木SS(愛媛県)→新居浜北中(愛媛県)→長崎総合科学大附属高(長崎県)→長崎総合科学大(長崎県)→ホンダロックSC→ミネベアミツミFC

■自然な流れでシュートを打っていた

FC今治、そしてJリーグデビューとなった4月のAC長野パルセイロ戦(第8節△3-3)で、いきなり初ゴール。続くテゲバジャーロ宮崎戦(第9節〇2-1)でもゴールと、“ストライカー日野友貴”の存在感を見事に示しました。

開幕直前にひざをけがしてしまって、プレシーズンからファン、サポーターのみなさんにはほとんどプレーを見てもらえていなかったので、自分がどういう選手か少しは分かってもらえたと思います。『去年のJFL得点王らしいけれど、どんなプレーをするの?』『本当に点を取ってくれるの?』という見方をされていたかもしれませんが、今後に期待してもらえる結果を出せたと思うし、デビュー戦で点を取れたことはとてもよかったです。

初ゴールはゴール前でこぼれ球を拾い、すばやく反転して右足を振り抜いて決めました。

去年、ミネベアミツミFCでもそうでしたが、狙いながらとか考えながらではなく、自然な流れでシュートまで行くとき、点を取れている感覚があるんです。長野戦のゴールシーンもそうでした。後ろを向いて数タッチ、ボールを運んだあと、気がついたらGKの脇をボールがすり抜けて、ポン、ポンとはずみながらゴールの中に入っていったんです。何人かに名前を呼ばれましたが、体が自然に動いていました。

迷わず、大胆にシュートを打つことは大事です。それもありつつ、パスもできる。そういう状態だったと思います。結果的にゴールにつながったし、デビュー戦でそこを出せたのはよかったですね。

何より、興奮しました。あれだけの応援を受けてサッカーをすることはこれまでなかったし、開幕からずっとスタンドから試合を見るばかりで、早くアシックス里山スタジアムでサッカーがしたいという気持ちがありましたから。純粋にサッカーを楽しめていたことも、自然にシュートを打つことにつながったのだと思います。

今治市と同じ東予地方の新居浜市出身ということもあり、初出場となった長野戦にも、たくさんの知り合いが応援に駆けつけてくれたのでは?

そうですね。試合直前のオフに実家に帰ったとき、中学時代のサッカーの恩師である井上博先生に会って、『調子はどうや?』と聞かれたんです。そろそろ試合のメンバーに入りそうだと伝えると、『じゃあ、長野戦は行くか』と見に来ていただきました。それから奥さんと子どもも来ました。ただ、それまでずっとホームゲームに来ていた父が、長野戦に限って用事で来ることができなかったんですよ。

ということは、それまではリハビリ中で日野選手が試合メンバーに入らないと分かっていても、お父さんは応援に来られていたのですか?

そうなんです。これまで高校、大学が長崎で、社会人のホンダロックSC、のちのミネベアミツミは宮崎と、新居浜から遠く離れたチームでサッカーをしていたましたから。負傷中で出ないと分かっていても、息子がプレーするFC今治の試合を見たかったのだと思います。

それに父がプレーしている『オールドキッカーズ』というサッカーチームの仲間が、僕の横断幕を作ってくれたんですよ。「日野さんの息子がFC今治に入るんなら、作ろうや!」となったらしくて。開幕からずっと父がその横断幕を持ってきて、スタンドに張ってくれていました。

アシックス里山スタジアムで、FC今治の選手たちは右のCKフラッグ付近でアップしますよね。その斜め上に張り出されています。父からは、「ピッチに入ったら分かる」と言われていて、JリーグYBCルヴァンカップのヴィッセル神戸戦(第2回戦●1-2)のウォーミングアップでピッチに入ったとき、初めて幕を見ることができました。

横断幕には僕の名前と、「動!」、「継続は力なり」という言葉が入っています。添えられた言葉は、僕が高校時代に指導を受けた小嶺忠敏先生がよく使われていたものです。

■宮崎戦には間に合わせる!

プレシーズンのけが(右ひざ内側側副靱帯損傷)は、リーグが開幕する2週間前のことでした。

けがをするまで練習試合でもしっかり点を取れていたし、いいイメージがずっとあったんです。カテゴリーが上のチームに対しても通用する手応えを感じていたし、『ピッチに立てば、自信を持ってやるだけだ』と思っていました。

それだけに、『いよいよ開幕だ!』というところでけがをして、最初はかなり落ち込みました。サッカーをやってきて、これまでで一番、大きなけがだったし、何よりめちゃくちゃ痛くて。

でも4月の宮崎とのアウェイゲームまでには絶対に治そうと、そこから逆算してリハビリに取り組んだのが良かったと思います。リバウンドもほとんどなかったし、日に日にできることが増えていって、どんどん気持ちも高まっていきました。

そしてリーグ戦初先発となった宮崎戦の前半26分、抜群の得点感覚を発揮してヘディングシュートを決めました。

この感覚は、言葉で説明できないです。僕の目の前でボールに頭で触ったトヨくん(阪野豊史選手)も、とっさのプレーだったと思います。セットプレーで「ファーに合わせる」「ニアに合わせる」というくらいまでは練習できます。でも、それ以降はそれぞれ体が勝手に動いた結果です。『ここら辺にボールがこぼれてきそう』という感覚はあるけれど、なかなか人には言葉で伝えられないものがありますね。

僕はもともと、高校までは“ザ・ストライカー”みたいな感じではなくて、どちらかというとウイングとかサイドの選手でした。FWでプレーするようになったのは、大学4年くらいからです。

ミネベアミツミではFWでしたが、1年目はスタメンが1試合もなくて、途中出場するにしても最後の5分とか、10分。『これは点を取らないと何も評価されないな』と、ゴールを強く意識するようになりました。

点を取ることから逆算してイメージし、プレーするのはもともと苦手ではありませんでした。『味方がこう動きそうだから、自分はこうしよう』というプレーをずっとしてきたし、裏抜けはサイドのときから自信がありました。

そして去年、得点感覚が一気に花開いて19得点。見事、JFL得点王に輝きました。

おととしまでは3-4-3のシャドーでプレーしていて、守備の役割もかなりあったんです。守備のときは5-4-1になるので、それに応じて自分も下がる。そこからいざ攻撃に転じたとき、パワーを出せないこともありました。

去年は1トップを任されて、もちろん守備もしっかりやりつつ、常に裏を狙ったり、相手が怖がるプレーを意識できました。その中で得点も重ねていけたので、どんどん自信が深まっていきましたね。チームのボランチからも、『動きだしの切れが増して、パスを出しやすい。タイミングがすごくいい』と言ってもらえて。

ゴールを重ねることで、対戦相手は、まず日野選手を抑えにかかる状況にも関わらず。

動きだせば、相手は付いてくることができませんでした。試合中に何度も裏を取っていましたよ。

宮崎戦では去年の大活躍をよく知るミネベアミツミの元チームメート、それに会社の仲間がたくさん応援に駆けつけてくれたのでは。

チームは仕事の後に練習があるので、スタジアムに来るのが遅くなって、みんなが到着して5分くらいで僕は交代になったようです(笑)。でも会社の同じ課の人たちや、行きつけだったごはん屋さんの人は最初から来ていて、ゴールを見てもらうこともできたし、みんな喜んでくれました。

元のチームメートにはほとんどプレーを見てもらえませんでしたが、試合後にはみんなと話をできて、とても刺激を受けました。僕も、みんなに刺激を与えられたんじゃないかな。

■言われるうちが花だから

新居浜で育った日野選手は、新居浜市立北中学から長崎総合科学大学附属高に進み、長崎総合科学大学、ミネベアミツミを経て、11年ぶりに愛媛に戻ってプレーすることになりました。

高校に進学するとき、中学の井上先生に『四国から出ろ』と言われたんですよ。それで、どうしよう? となって。

自分たちは中3の夏に全中(全国中学校サッカー大会)に出て、会場が茨城県だったんです(2012年の第43回大会)。1回戦に勝ったあと、鹿島学園高から練習参加に誘っていただいたのですが、新居浜から鹿嶋市に行く途中の東京駅の人混みがどうにもきつくて。練習参加でのプレーはまずまずでしたが、断念しました。

そのときふと思い出したのが、子どものころ国見高校が強くて、「大きくなったら国見に行く」と言っていたことでした。調べてみると、当時、国見の監督だった小嶺先生が長崎総附の監督をされていることが分かりました。チームも県大会で優勝するなど実績があるし、練習参加をお願いすることにしました。

練習参加してみると、とにかく調子が良く、めちゃめちゃ点を取って、合格することができました。カーフェリーで九州の小倉に渡って、そのまま親が運転する車で長崎に行ったので、途中、人混みに巻き込まれなかったのが良かったのかもしれません(笑)。

高校時代は、とにかく鍛えられました。メンタルが強くなったし、何より人として大事なことを学べる3年間でしたね。小嶺先生は、高校生という基準よりも、さらに一つ上のサッカーを目指して僕たちを引き上げてくれようとしていたのだと、後になって気づきました。ただ、僕たちに能力が足りなかったですね……。

高校を卒業するタイミングで、プロに進む選択は?

まったくなかったです。逆にほとんど心が折れかけて、サッカーをやめようかな、というくらいでした。

春休みや夏休みにチームはずっと全国を遠征しながら、毎日試合をしていたんです。いわゆるトップチームのA1チーム、セカンドチームのA2チームと分かれて、僕は最初、A1で試合に出るんですが、いつも途中で代えられてA2に行っていました。

それで小嶺先生は、普通はA2の試合は見ないのに、なぜか僕が出ているときはベンチにいるんです。ハーフタイムは、ひたすら僕への指導でした。「日野、何であのパスを出した?」「日野、何であそこでボールを失った?」という具合に。試合中も、ずっと小嶺先生に「日野!」「日野!」と名前を呼ばれ続けていました。

ものすごい期待のされ方ではないですか⁉

どうなんですかね。ほぼ心が折れかけて、だけど『言われるうちが花だ』という、それだけでギリギリ続けられたのだと思います。

A1の試合中、A2のメンバーはベンチにいるんです。ところが、『日野、よく座っていられるな?』という無言の圧を感じて。ずっとベンチ裏でボールを蹴ったり、ダッシュを繰り返していました。

■いま行かなければ、絶対に後悔する

とにかくサッカーに明け暮れる日々だったのですね。

そうですね。全国各地、どこに行っても、うまい選手だらけなんです。『これはプロになるのは到底、無理だな』と思い知らされました。高3の夏の遠征が終わって、小嶺先生とコーチに進路をどうするか聞かれたときは、「このまま(長崎総合科学)大学に上がります」と迷わず答えました。

小嶺先生からは、「関東か関西の大学を紹介するから、練習参加に行ってこい」と言われました。ですが、「いや、このまま上がらせてください」と、我ながらかたくなでしたね(苦笑)。

大学に行ってみると、サッカー部というより、同好会という感じでした。練習に集まるのは10人くらいで、4対2のグリッドが2つだけ、紅白戦ができないこともしばしばで。

プロが遠のいた感じはありましたが、サッカーは楽しく続けられました。それで4年生になって、サッカーを続けられる進路を考えたとき、高校の一つ上の先輩が当時のホンダロック(現ミネベアミツミ)でプレーしているのを思い出したんです。それが今、松本山雅でプレーしている安藤翼選手で。「働きながらサッカーができるぞ」という話を聞いていたし、練習参加したところ、うまい具合に合格することができました。

それから4年間、仕事をしながらサッカーをプレーすることになります。

会社では社内全体のパソコンをメンテナンスする部署の配属になりました。パソコンの知識なんて、ほとんどありませんでしたから、一生懸命、勉強しましたよ。それで朝から夕方まで働いて、夜、1時間半くらい練習する。そんな毎日でした。

サッカーの方は1年目はまるでスタメンで出られず、2年目が半分くらいスタメンで、3年目は8点取りましたが、4点取った試合がありました。だから本当に去年、急に点が取れたというのが正直なところです。

Jクラブからいくつかオファーをいただき、とても悩みましたね。JFLでしっかり点を取れたし、仕事も自分なりにがんばっていたし、慰留もされたので。

悩んでいるところに、FC今治からお話をいただきました。そのとき、『ここで今治に行かなければ、絶対に後悔する』と思ったんです。移籍を決めた一番の理由ですね。

FC今治は、絶対に行きたいチームでした。今はまだJ3ですが、しっかりしたビジョンを持って上を目指しているのがよく分かる。自分が会社員だったから感じるところかもしれません。

それから、中学のトレセンで一緒だった虎(近藤高虎選手)からも、地域を盛り上げようとがんばっている話をいろいろ聞いていて。そこも、FC今治がすごくいいと感じたところです。

プロサッカー選手としてのキャリアが、いよいよ始まりました。今治で、どのような夢を実現させたいですか?

チームの目標であるJ3優勝、そしてJ2昇格です。チームと一緒にステップアップしていきたいし、そのために少しでも貢献したいです。加入してまだ1年目ですが、愛着あるFC今治のために頑張りたい。それは自分自身、ハングリーに個人の結果にこだわることでもあると思っています。

去年、あれだけ点を取っていなければ、おそらく今もまだ会社員のままですよ。ただ、チームメイトが現役引退を口にするようになって、『このままチームに残っても、自分もあまり長くプレーしないのかな……』という思いもありました。せっかく何十年もサッカーをやってきて、体力的にもまだできるのに、ここでやめてしまうのはもったいないな、と。移籍に気持ちが傾く一つの理由になったかもしれません。

まだまだサッカーを続けて、プロとしてプレーしているところを子どもに見せたいですからね。それからミネベアミツミの同期が僕を送り出す会をしてくれたんですけど、いつかみんなにアシックス里山スタジアムに来てほしい。今度こそ、彼らに自分がゴールするところを見せます。

取材・構成/大中祐二