見出し画像

震えながらの私の自分史。

一番最初の記憶は「なんで??」から始まります。
オムツをしている私のお尻を母が「なんで?なんで?」と怒りながら叩いています。

母が畳んだ洗濯物の山を私がハイハイしながら崩してしまったようなんですよね。痛かったとか怖かったという記憶はなく、ただただ叩かれながら 私も「なんで?なんで?」と思っていました。

次も同じように母に怒られている記憶です。どうやら私がおもちゃにして遊んでいたモノが家や車の鍵をつけたキーホルダーだったようなんです。大事なモノなんだからオモチャにするなとこっぴどく叱られました。

この時も自分が触ったものが触って良い悪いどころか、何を触っているのかすら全くわかっていなかったので怒られて叩かれながら「なんで?なんで?」と思っていた気持ちが残っています。

多分どちらも自分で歩けていないので1才前後の出来事。

大人になった後、これらの記憶を母に尋ねると、母は全く覚えていないと驚いていました。しかし、記憶に出てくる床の色やキーホルダーの形が当時と同じだったため、「後から親に言われて自分の記憶にすり替わった出来事」ではないのだろうと思います。

黒い小さな袋にリングがついていたそのキーホルダーの形。
今でもしっかり思い出せます。

聞く所によると、私はハイハイするより先にペラペラと喋りだしていたよううです。しかも幼児語?喃語?もなく、とにかく突然ペラペラ喋りだしたと。そんな事あります?あるんですかね?

それが本当かどうかはわかりませんが、とにかくこの頃の私については母からくり返し

「あんたは片言の期間もなく突然ペラペラいっちょ前に喋りだして全然赤ちゃんらしい可愛さがなかった」

「泣いて放っておくと、妹ちゃんはそのまま泣き疲れてすぐ寝たのにあんたは何時間でも泣いて泣いてこっちが根負けするまで泣く意地っ張りの子供だった」

「あんたが何時間も泣いてうるさかったから押入れに入れっぱなしにした事がある」

と言われ続けているので、多分、私が「自分は可愛げのない人間だ」と思い続けているのはここに原因あるんじゃないかなと今思ってます。

と。
ここまでだけだとヤバい幼少期みたいになってしまいそうですが、この時の父と母は「お見合い結婚 → 即転勤 → 即妊娠 → はじめての出産と育児」という流れだったんですよね。

なので私の父(当時28才仕事でほぼ家にいない国鉄職員)・母(当時24才専業主婦)・私(乳児)の三人暮らしは父や母にとっても目の前の変化に必死だったんだろうなと察します。

■ 2才 叩かれなくなりました

私が2才になる頃に父はまた転勤となり、祖父母と同居の形で父の実家(愛知)に戻りました。そこからは、父側家系では初の内孫、母側家系では初孫という事もあり、私は両祖父母にはめちゃくちゃ可愛がって甘やかされていました。

当時、自宅での私はずっと祖父母の部屋。
祖母と折り紙や塗り絵、あやとりをしたり、本を読んだり、一緒におやつを買いに行ったりして穏やかに過ごしていました。

なので一緒に住んでいたはずなのですが、3才~5才くらいまでの間って私、母や父との記憶が全くないんですよね。

母は「お婆ちゃんにあんたをとられた」とたまに今でも言いますが、
いわゆる嫁姑問題ってやつなんですかね?当時の私にそれらの事情なんてわかる事ではないんです。

■ たいくつ&驚きもあった幼稚園

幼稚園への入園前までの私は祖父母とばかり過ごしており、同年代の友達と遊んだ事がほとんどありませんでした。私の世界は「周りは全員大人&自分だけが子供」という世界だったんです。

ですが年少さんで幼稚園に入ると一気に周りは子供だらけの世界になり戸惑いました。 子供うるさいし、動き回るし、話し通じないし。

幼稚園での最初のお弁当の日。
お弁当を開けた瞬間周りから「わーにんじん嫌いー」「わーしいたけ嫌いなのに入ってるー」という声が聞こえました。ビックリですよ。

だって今までの私は大人としか食事をした事が無かったので、目の前に出された食べ物は、そのまま全て当たり前に食べるものだと思っていたんです。食べ物に関して「おいしい・おいしくない」はあれど「好き・嫌い」というその概念を私は持っていなかったんです。

え?「にんじん嫌いって何?嫌いなんて言っていいの??」とめっちゃくちゃ驚いたんです。

その日、家に帰った年少さんの私は人参なんていつも全然食べているのに「にんじん嫌いー」と言ってみました。めっちゃ張り切って得意気に言ってみました。 自分の世界に新しい感覚が取り込まれた感じがしてモゾモゾしました。

周りは驚いていましたが、「幼稚園でみんなが言っていたから言ってみた」という事を伝えたら笑っていました。

親以外から「外の世界に影響を受けた経験」の記憶はもしかしたらこれが初の経験なのかもしれません。
ちなみにですが大人になった今も食べモノの好き嫌いは全くありません。

そうそう。
これは今でも同じなのですが、幼稚園で私、なかなか周りの子の顔と名前が覚えられなかったんです。

だから入園当時だけではなく、その後もずっと朝登園してみんなが自由に動き回っている時間の間は誰が誰だかさっぱりわからない。

チャイムが鳴って席に座ってご挨拶の時間になればやっと「あ、隣の席のマキちゃんだ」とわかる感じ。そしてそこで服の色と髪型を覚えるからその日1日は「まきちゃん」がわかるけど翌朝になるとまた「?」となる。

でもその他のお勉強とか工作とかお遊戯とかは一通りテキパキできました。多分一番覚えるのも早かったし手先も器用なので工作も他の子よりめちゃくちゃ早く終わってしまう。 

工作の時間などは先生の説明通りに作ると退屈だったので、出来上がりさえ合ってればいいよねと思い、全然違う工程で作って同じように完成させたりもしていました。(見つかると怒られるけど)

幼稚園ってたいくつだな・・ってずっと思ってました。

■ この頃一番苦手だった事

思い出しました。
幼稚園の庭で先生とクラスの子達が長いロープを使って「電車ごっこ」をしていました。でも私は、その遊びが恥ずかしくて一歩踏み出せませんでした。「電車ごっこって、子供じゃあるまいし」と心の中で思っていた気がします。(子供なのに!)。

そんな私を見かねた先生が、「ほら、みんなでシュッポシュッポしてゆきちゃん駅まで行こう!」と言い出しました。やめてえ!!!!!クラス中の「電車」が私に向かってくる光景は、まさに恐怖そのもの。その瞬間が本当に嫌だった記憶があります。

運動会の徒競走も苦手でした。ゴールがロープではなく先生に抱きつくスタイルだったため、走るのは得意だったけれども、一番になってしまうと先生に抱きかなければなりません。それが恥ずかしくて、いつも最後の方でわざと抜かれるようにしていました。

そして、5歳年上の従兄弟が遊びに来ると、とても嬉しいはずなのに、玄関の音が聞こえると私は押入れに隠れてしまっていました。見つかると、見つかってしまった恥ずかしさから「従兄弟が来たから」とは言わず、「最初から押入れにいた所にたまたま従兄弟が来た」と言い張っていました。

私の母は、こうした私の行動を「意地っ張りで可愛げのない子供」と捉えていたようです。しかし、私自身は意地を張っているつもりは全くなく、

「どんな顔をしたらいいのかわからないんだもん」

と感じていました。電車ごっこやかけっこ、従兄弟から隠れること、先生に抱きつけないことも、自分では嬉しいはずなのに、どんな顔をすればいいのか、どんな表情をすればいいのかがわからず、ただただ恥ずかしくて困っていたのです。

今でも、お見送りされること、サプライズでプレゼントをもらうこと、デートで夜景を見ることなど、どんな表情をすればいいのかわからず、自分で疲れてしまいます。これは嫌悪感というより、相手の前でどんな顔をすればいいのかがわからないために感じる疲労感です。

そうか、子供の頃から、喜びや悲しみを表現するのが苦手だったんだなと振り返ってみると、この「表情を出すのが苦手で隠れてしまう」という点は、幼少期からの共通点だったんですね。

だけどそれをどうしたらいいのか??まだわかりません。

■ 自我の目覚め・・・?

そんなある日。
多分年中さんの頃だと思うのですが、家のニ階で一人で遊んでいる時に突然「ストン!!」と自分の中に別の意識が入ってきたんです。
その「ストン」という感覚の直後に心の中で「私だ!」と感じた体感があるんです。

そこからはずっと私の中に「私」がいるんです。
今までが「無意識」だったとするなら、そこから「顕在意識」が生まれたような。そんな感覚です。

でもこれは誰に言っても今まで通じた事がないので「まあそういう事があったよね」程度なんだけど、これもずっと残っている記憶というか体感です。

■ 妹が生まれる。

私の人生にとって、一つ大きな転機が訪れます。それは私が年長の9月、妹が生まれた時です。

母はさておき、私はそれまで祖父母に初孫だ内孫だと全力で甘やかされていました。しかし、「妹」という新しい家族の誕生によって、私はもはや家族の中で「一番小さい存在」ではなくなってしまいました。

これまでの誕生日、ホールケーキの上の苺はすべて私が食べる特権がありました。けれども妹が生まれたその瞬間から、私は「もうお姉ちゃんなんだから、そういうことはしないの」と注意されるようになりました。この時、妹はまだ苺もケーキも食べられないのにです。

「あなたはもうお姉ちゃんなんだから」
なりたくてお姉ちゃんになった訳でもないのに。

■ 東京への引っ越し

妹が生まれ、私が年長さんだったその年度末、父親がニ回目の転勤となりました。
また祖父母達と離れ「父(仕事でほとんどいない)・母(専業主婦)・私(5才)・妹(乳児)」家族4人で東京品川区での生活が始まりました。
春から新しい土地で誰も友達のいない小学校へ入学となります。

■ 東京での小学校生活と初の差別問題

私が入学した小学校はちょっと変わった公立学校でした。50メートル走をするにも、グラウンドが狭すぎて全力で駆け抜けることができませんでした。

それでも、その小さな校舎は約1000人の生徒でごった返していて、そのほとんどが近くの大きな社宅群に住む子どもたちでした。その子たちの父親はほぼ全員が同じ会社で働いているため、私は「お父さんは皆、同じ会社に勤めるものだ」と思っていました。

この社宅は転勤が多く、新学期が始まるたびに、学校は入れ替わり立ち代りの子供で賑わいます。アメリカや韓国から来た子もいて、私たちの間では「青森の子」「博多の子」「アメリカの子」といった呼び名が自然と使われていました。

ある日、私の親友「ちゅなちゃん」が遊びに来たときのことです。彼女が私の母に向かって、「おばちゃん、聞いて!ゆきちゃんが私のことを『ちょうせんの子』って言ったの」と訴えました。母はすぐにちゅなちゃんに謝り、「なんでそんなことを言ったの!」と私を叱りました。

私にはその叱られる理由がさっぱりわかりませんでした。なぜ「青森の子」と言ってもいいのに、「ちょうせんの子」と言うといけないのか。ちゅなちゃんも私のことを「愛知の子」と呼んでいるのに。何度も「なんで?なんで?」と問いただしましたが、母は「相手が嫌だと感じたことを言ったから謝りなさい」としか言いませんでした。

その時はただ謝るしかなく、本当に納得いかなかったです。なぜ嫌なのかもわからずに謝るのは、とても不満でした。その頃はインターネットで調べることもできず、ただ母の言う通りにするしかありませんでした。

今ではその言葉がなぜ不適切だったのか理解しています。ですが当時の私はただひたすら不満だったことを覚えています。

一方、社宅での生活も、母にとっては大変だったようです。父の学歴や職位によって社宅内の階級があり、東大や有名大学出の夫を持つ家庭が多い中で、時にはカースト上位の奥さんから母は「この社宅でお間違いでは?」という嫌味を言われた事もあったとかなかったとか・・

だからだったのもあるんでしょうね。

■ 母は母で戦いだします。

そうです。私を使って。娘の私を使って戦いだします。
同じ社宅の子がほとんどのこの小学校、同じ学年、同じクラス・・で
「あんたが一番になりなさい」です。

学級委員になりなさい。テストは一番が当たり前、ピアノの発表会は誰よりも一番遅い順番で出れるように頑張りなさい(レベル下の子からの演奏順になる為)です。

3学期ありますからね。小学校だしクラスのルールで1学期に学級委員やったら2学期は他の子にってなるじゃないですか。

でも駄目なんですよ。
1学期に学級員だったから2学期は立候補させてもらえなかたっと言っても通用しないんです。「何で◯◯ちゃんは学級委員なのにあんたは違うんだ」と延々とその学期中言われ続けるんです。

■ ピアノは格闘技

ピアノはたまたま先生が私を気に入ってくれて可愛がってくれたのでスクスク伸びました。学年の発表会やクラスの発表で「ピアノ弾く係」は私しか「ありえない」という母の希望通り私が一番その学年では上達できていたとは思います。4年生頃までは。

ただ、4年生の終わりにピアノの先生のお宅が転勤になってしまったんですね。そこからは他の先生にお願いする事になるのですが‥

その新しいピアノの先生には、私より一つ年上の娘さんがいました。ところが、発表会での演奏順は練習している楽譜のレベルに基づくため、そのままでは年下の私の方が娘さんよりも後の順番で演奏することになってしまいました。

すると、その先生が発表会で娘さんより私が先になるような曲を私に選ぶんですよ。 そこで母が怒るんです。母は何回も「他の曲を」と言う。発表会の曲を選び直して欲しいと私から先生に言うようにも指示したりもするんですよ。言いたくないんです。先生だんだん口きいてくれなくなっていくんです‥

そして練習にやる気が見えないと母はまた殴ってくるし、椅子から私を抱えあげて投げ飛ばすし(おい!)更には練習中の私の指の上にピアノの蓋をバタンと締めてもきます。 サッと手を引っ込めて逃げないと指折れますよね。あれすごいですよね。普段そんなに機敏じゃないけどあの瞬間は瞬殺で手をパッと避けるコトができるんです。

避けたら避けたで母も「避けられる」とわかるからか何回もやってくる。思いっきりバーンって。

ピアノ弾くのは好きだったんですけどね。
なんかもう色々私も限界でした。ピアノ辞めたいと泣いて頼みました。
ピアノを辞めたかったのではなく、ピアノのせいで母に怒られるのが辛かった。

ピアノ辞めたら親に見捨てられるような気がして怖かったのですが、ピアノの先生も味方じゃなくなっちゃったし、毎日殴られたり怒鳴られたりもしんどくてしどくて‥でも辞めさせてもらえません。

■ はじめての敗北感と優越感

そんな頃、週末に行われる学年の発表会でピアノを弾く子が2名選ばれる事になりました。私とTちゃんが選ばれました。

生徒の前で弾く「土曜日」の演奏が私。
保護者の前で弾く「日曜日」の演奏がTちゃん。

当然母発狂。
なんで日曜日がアンタじゃないんだと。負けて悔しくないのかと。生徒の前なんかで弾いても他のお母さん達に見せられないじゃないかと。

でもね。
私わかってたんです。Tちゃんピアノめちゃくちゃ上手なんですよ。上手というか、同じピアノを弾いてもTちゃんと私では同じ音が出ないなって思ってたんです。子供でもわかるんですよ。実力として「私負けてる」ってわかってしまったんですその時。

ですが一方その時全く同時進行で私、優越感も味わうんです。
その発表会ではピアノの「メロディー」の楽譜はあるけど左手の伴奏は自分で考えて演奏しなきゃという形だったんですね。

Tちゃんはピアノの先生に伴奏の楽譜を作ってもらってました。
でも私はそれを母にもピアノの先生にもお願いできず、自分で作りました。

ある日、練習の途中で何故かTちゃんが突然私の考えた伴奏を弾きはじめます。私の作った伴奏がパクられました。どうやら先生が「ゆきちゃんと同じように」と揃えたようです。私からすれば「一言もなく勝手にパクられた!」とも一瞬思ったんだけど・・

生意気ですが確かに私の考えた伴奏のほうが格好良かったんですよ(笑)

Tちゃんはピアノの先生に作ってもらった伴奏。私は先生に頼めず、親は親でどっかのマラソン大会見に行っていて留守の中、泣きながら一人で作った私の伴奏の楽譜。

私の中では私の伴奏の楽譜が一言の了承もなくパクられたという事は一瞬ショックだったけど、それでも私の伴奏のほうが良いと認められたって事だよね?と、なんともいえない優越感があり嬉しかったんです。

だけど演奏は負けた。

なのでピアノ辞めました。
母もTちゃんに負けたならもう辞めていい!と不貞腐れてたのでその時はもう引き止められませんでした。

父は今でもたまにその頃の事を思い出しながら
「あの時ピアノを辞めさせたから ゆき に辞め癖がついた」と言います。
いやいや‥あそこでピアノ辞めてなければ人生辞めてたかもやで??

ピアノを弾くのは好きでしたが、殴られてまで続けたいわけではありませんでした。それに、殴られることもなく、毎日練習しているわけでもないTちゃんが私より上手く聞こえるのが、何よりも悔しかったです。
「努力では埋められない差があるんだ」と感じました。

他には新体操は自分が好きで続けていましたが、ピアノを辞めた後はプールや英語、習字など、他の習い事も増えました。公文は進む速度が目に見えて分かるため、母に比較されて文句を言われそうだと思い、「体験に行ってみる?」と提案された瞬間、即座に断りました。

(ちなみに、今書きながら思い出したのですが、「新体操」でもコーチから「ゆきちゃんは技術も表現力もあるのに、顔の表情が全然出ないからポジション前に出られない」と何度か言われていました。ここでもやはり「表情」の問題が出ていたんですね。)

そうしてピアノもやめ、少しずつ日常が落ち着いてきた6年生の後半、ある日、学校へ行くと、友達2人にフルシカトされ始めました。。

■ 破られた交換日記

学校ではいつもFちゃんとKちゃんでの3人組で一緒に遊んでいたのですが
その2人からフルシカトされ、3人でやっていた交換日記に「ゆきちゃん大嫌い」とか「もう遊ばない」とかあれこれ殴り書きされて破かれた状態で机の中に入れられていました。

ビックリして声がでませんでした。
だけど今思えば確かにそうされても仕方がなかったと今では思うんです。

私、そのクラスの中では勉強できるし、口は達つし、運動も苦手ではないしとにかく周りに対して「自分よりはできない子達ばかり」だと思ってたみたいで。(おいおい・・)

なので、威張り散らすというか、とにかく我儘だったんですよね。
お昼休みに私が「これする!」と自分で作った謎のゲームルールで遊び、みんなはそれに従うみたいな。

係やグループとかも全部私がリーダーで「当たり前」「選ばれて当然」だと思っていました。(じゃないと母に怒られるし)

なのにはじめて友達に謀反を起こさた・・
(そう思ってる時点で駄目なんだけど)

理由は破られた交換日記に色々書かれていたからわかるし、「ゆきちゃんのわがままにもうついていけない」とかさ。確かにそうだなとも思ったりもしたんだけど‥

でも謝る事もできませんでしたし、当然母にも言えませんでした。
ただただ「無視」の状態をやり過ごしていました。

救いだったのは「周りみんなで無視しようぜ」とかのイジメに発展‥はなかった事ですね。仲の良かったその二人から無視されていただけで、他の子達は変わりなく接してはくれました。

あの時、たった5分の休み時間でも、ちょとトイレにいくだけでも「自分がだれかに無視されている」という状態は本当に時間が長く感じ苦痛でした。
だから私、その当時から今に至るまでどんなにムカついてもトラブルあっても「喋りかけられているのに無視する」という事ができないんですよね。

(理不尽なクレームとかをスルーできずついつい反応してしまうのはコレもあるのかな・・?)

その無視され続けた状態のまま6年生が終わり、学年の半数以上がチリチリに地方に転勤で飛び散り、友達とも仲直りできないままの私は私でまた品川の小学校から親の地元愛知に戻る事になりました。

「威張るとヤられる」「目立つとヤられる」「自分の意見押し付けるとヤられる」それを刻み込んだままの状態での転校となりました。
(その後その時のFちゃんからは"あの時ごめんね”って手紙もらいましたがKちゃんとはそれっきりです")

さて、所変われば品(シナ)変わるとは言いますが‥
ここからの話は「所変われば品(ひん)変わる」です。

■ 所かわれば品(ヒン)変わる

小学校の6年間を過ごした品川からまた転校し、その愛知での環境の変化は驚きの連続でした。

まず、今までの小学校の環境はとにかく「自由」だったんですね。
地域柄めちゃくちゃ治安も良かったし、「お父さんは会社勤めでお母さんが専業主婦」という家庭がほとんどだったんです。

学力的にも私のいた小学校は宿題とかほとんど出ず自由でしたがクラスの大半は塾に通っていたし、落ちこぼれ?みたいな子もいませんでした。

だけど転校先の学校では中学生なのに「九九がわからない子」や「漢字で自宅の住所が書けない子」もチラホラいたりしました。

学区内には県営住宅もいくつかあり、世の中には片親の子がたくさんいという事もこの時はじめて知りました。
(今までは世の中って社宅か戸建てしかないと思っていたんです)

それまでどんだけぬるい世界にいたのかと自分の無知さに驚きました。

生徒同士は全員呼び捨てで女子が男子を「おい田中!」とか呼んでいて。
小学校の時は全然話題に上がらなかった「下ネタ」も飛び交っています。

あと、とにかく昭和真っ只中で校則が厳しすぎました。
制服のスカートは膝下5センチ!前髪は手で抑えて眉毛の上!長髪は2つ縛る!下着は白!文房具も無地!色々な決まりがありました。

地元の子は入学前に文房具などの説明会あったそうですが、私それ知らなかったんですよね。

なので入学直後、私は小学校の時のお別れ会でもらった「クマ」の柄の鉛筆を使っていたんです。

すると、担任の教師がそれを見つけ「なんだその鉛筆は!無地じゃないぞ」と怒ってきました。「あ、知らなかったのですみません、この鉛筆終わったら次から無地にします」と答えたらその場で捨てろと言われてみんなの前で捨てさせられました。

「なんで?まだ使える物を捨てるのおかしくないですか??」
「何で」と聞いても「それが決まりだ」としか言われないのでめちゃくちゃ不貞腐れていた顔していたと想います。

あと、私、元々目と髪の色素が少し薄いのですが、小学校の時にスイミング通っていた事もあり、髪の毛の一部の色が結構明るくなっていたんです。
それも影では「染めている」と言われたりもあったようです。

ですがその時私なんて「不良」とかも知らないんですよ。
ずっと優等生を貫いて学級員長だったような私ですよ? TVもろくに見せてもらえてないから不良が何なのかすら知らない。なのにそんな自分がまさかそういう扱いされるなんて夢にも思ってなくて。

なのに、入学早々の最初の個人面談で複数の子のお母さんに担任が「あの子は東京からの転校生で危ないからあまり一緒にいさせないほうがいい」と言われたとからしく・・

申し訳なさそうに「ゆきちゃんと帰ったらだめってお母さんが・・」と言われました。私【まだ】何もしてないのに。

自分から目立った訳でもないのにやっぱり目立つとヤられるんだなと上書きされました。

でも、なんだかんだ部活もガンバって友達も増え楽しく過ごしていたんだけど、とにかく部活も担任も先生が厳しすぎるんですよ。

■ 体罰が当たり前すぎる世界

女の子でも男性教師から思いっきりビンタされてふっとんだり、鼓膜敗れてた子もいるし、「叩く」のレベルではなくボッコボコに殴る・蹴るを教師が日常的にするんです。

(ちなみにですが母校では私が入学する数年前に体罰で生徒が一人亡くなっています)

授業も怖いんですよ。宿題もめちゃくちゃ多いんですよ。文房具や髪型はもちろん、休日でも「校区外」に出るには許可を貰って制服でいかないと駄目という謎ルールあるし、片っ端から全ての自由がないんですよ。体育なんて先生の機嫌そこねたら全員で1時間正座なんです。

(余談ですが、うちの学校の体罰があまりにも酷すぎ、その話を耳にされた事で「僕らの7日間戦争」が生まれたとか‥そんな噂までありました。実際、宗田理先生は近くに住まれていた時期があります)

一方母親は母親でまた祖母と同居になったからか、私を怒れなくなり「無関心」になっていきました。だけど顔を合わせれば「成績をあげろ」だけ言ってきます。

しんどい。しんどい。つまらない。つまらない。学校行きたくない。友達はいたけど「納得いかない規則」に縛られながら殴られる事に怯える日々がほんっと嫌だったんです。

嫌だ。嫌だ。じゃあどうしよう。

■ ( ゚д゚)!そうだグレよう。

中学2年生の14才のクリスマス、はじめて「そっち側」の友達に誘われて「そっち側」の集まりにいって「そっち側」の世界を知りました。

今まで関わった事のないようなタバコ吸う子や、髪を金色にしたりな先輩がたくさんいました。そしてその子達が当たり前に「は?親とかいねーし」「親なんてどーでもいいわ」「大人ウゼー」と言ってるその言葉に衝撃を受けました。

そうか‥親って逆らっていいんだ。大人に逆らってもいいんだ。

パッカーン!

もうそこからは私のパラダイムシフトです(ここで使うな!)

家になんて帰らない。学校は行くけど授業なんて出ない。
(だけど部活は出る)

ビクビク怯えていると教師は支配してくる。だけどそこを振り切ってしまえば逆に教師のほうが怖がって何も言ってこなくなったんですよね。

だけど。
見た目はグレてはいたし、制服もチャラチャラさせてたし、髪も茶色くしたりしてたけど。 だけどだけどだけど私、「喧嘩」とか「弱いものいじめ」とか「カツアゲ」みたいな事は一切しなかったんです。

だって私、そこには全然興味なくて、ただただ「家と学校は嫌だけど友達とバカみたいにお喋りしてるのは楽しい」それだけだったんです。

だけど当然親は大騒ぎです。娘がグレた、人生終わったと大騒ぎ。
話し合いもせず、もう殺すしかないと言って部屋に灯油撒いたり、マッチで火をつけてきたり、ハサミもって襲いかかったりもされました。

でも親が取り乱せば取り乱すほど、それを映画でも見るようにサーーッと引いて見ている自分がいるんですよね。

そういえば、一度、親が車で友達の家まで迎えにきたんだけど、どうしても連れ戻されるのが嫌で「今日は帰らないけど明日は帰る」と約束した時があります。

後日母に言われました。
「あの時あんたが一緒に車に乗ったらそのまま海に飛び込もうと思ってた」と。

もうね。
ずっとそれも「何で??」だったんですよ。

だって確かに私、髪は茶色いし、タバコは吸うけど、エロい事とかで遊ばないし、弱い子囲って殴ったりもしないし、犯罪とかもしていないんですよ。

ただただ家に帰らず先輩と寝ないでゲラゲラ笑いながら「トランプ」してたり、バイクの後ろ乗せてもらったりしてただけなんですよ。何でそんなに怒るんだろう?なにがそんなに駄目なんだろう??

そう伝えても
「そんなんじゃいい高校に入れない」「いい高校に入れないといい大学にもいけない」「いい大学に入らないといい会社に入れない」「いい会社に入らないといい人と結婚できない」いい人と結婚できない娘は不幸になる!それなら今殺そう!

もう何を言っても親とは話にならなかったんです。
だから「悪い事」をしたいのではなく家に帰らない&帰れなくなっただけなんですよね。

そんなこんなで私は14才~15才の自分にできる手っとり早い逃げ道として分類としてグレたはグレたけど。(電車ごっこはあんなに恥ずかしがってできなかったのに今思えばもっと恥ずかしい派手な改造チャリンコには乗ってたよ♪)

だけど自分の中で「悪い事をしている」という気持ちは一切無かったんです。

あとやっぱり環境ですよね。弱いまま引きこもっても昭和のど田舎なんて殴って部屋から出されるだけですし、殴られずに逃げるにはグレるくらいしか逃げ道なかったんですよ。

そんな地域性もあり、その地域は進学率も低く、グレ仲間の友達のほとんどは中卒で社会に出ました(今思えば1学年280人中15~20人くらいが高校進学しないってなかなかの地域ですよね??)

でも私、地元の子達と違い、転校生だったから「地元以外の世界」を知っていたんですよね。学校が嫌というより「この理不尽な地域」が嫌だなってずっと思っていたんです。

周りの子達は学校に縛られるのが嫌!さっさと社会に出て自由になりたい!と言っていたんだけど‥私、自由とか人生ってこの地域や世界の中だけがすべてだとは全然思っていなかったんです。

なので当然先生達にも「お前なんかどこの高校にも入れん!!」とは言われたんだけど・・それでも超絶ギリギリで自分なりに「このままじゃヤバい!」と考えたんです。

生まれて死ぬまでここにしか住んだ事がない人がたくさんいるこんな窮屈な田舎だからこんなに閉鎖的で自由がないんだろうな。
ここにいたら一生こんな風に窮屈なのかもなって。

私はここに住み続けて先輩達みたいに10代で子供産んでとか・・それが幸せだと思って生きていくしかないのかな?

■ それは嫌だ。とても嫌だな。

となれば・・中卒だとここで一生を暮らすしかなくなっちゃうかもだけど。
この先都会に出るなら最低でも高校は出たほうがいいんだろうな‥??

そう思い、自分で探して調べて受験勉強は一切無しでしたが、自宅からかなり離れた「山奥の定員割れの公立高校」を受験して無事合格しました。
まあそんな田舎のど底辺偏差値高校なので当然そこも大概なんですけどね。

■ 楽しかった高校生活(高校生活~)

ど田舎の偏差値ど底辺高校なんて
「絵に描いたようなヤンキー」か
「真面目に勉強やってもここにしか入れなかった真面目な子」
のニ極だと思っていたんです。
実際入って見るとニ極ではなくなくもう一つ分類がありました。

それは「そこそこ頭はいい」けど親から「女なのに遠くの学校や大学にいってもしょうがない!近くの公立にしておけ」「女の子だし私立なんてもったいない」と言われてここしか駄目だったという子達です。

しかも一人二人ではなく「チラホラ」なんです。

もうビックリっすよビックリ。だって私なんて親から「大学にいかないような人間は虫ケラ以下だ!」と散々言われて育ってこうなった訳で・・

「女の子は大学になんて行かせても無駄」
「勉強するより家の手伝いをしろ」
まさかそんな親がいるなんて‥と中学生の時の「親なんていねーよ編」とは別の衝撃を受けました。

ほんとうに世の中って色々な価値観の人間がいるんだなと。
何が正解かどうかわからないけど、それぞれにそれぞれの地獄がある。

でもそこで出会った友達は運良く「ふっきれたバカ」ばかりで
それぞれが「自立したバカ」が多かったんですよね。(どういう日本語?)なので高校三年間私はドヤンキーとド真面目に囲まれながらも友人関係のトラブルは一切なく、超平和に喧嘩もなく過ごしていました。 

ただ必要最低限の3分の2出席すればなんとかなると聞いて、ほんっとギリギリで通っていたら‥予定外で途中で謹慎2回、停学1回と無期停学一回が入ってしまい。

三年生の最期の最期で「あと体育の単位2時間」単位が足りず・・卒業式、私一人だけ出させてもらえませんでした。
(危なかった残りの子はみんな中退してしまった説)

■ 出られなかった卒業式 (卒業式~)


みんなが涙の卒業式をしている中、私はヨボヨボのおじいちゃん先生と二人っきり体育教官室で「体育」の補習をしていました。

そのおじいちゃん先生もそんな段階できちんと授業しようなんて思っていなかったんでしょうね。「この学校の卒業生で有名になったのはAV女優になった◯◯ちゃんくらいだなーカッカッツカッツ」とか話すだけで・・
ほんっと底辺偏差値高校の底辺たるクオリティーすごいですよね。痺れます。

補習が終わると職員室で一人だけの卒業式が行われました。
「最期に校歌斉唱‥する?」と先生に言われて「やらんわ!!」と突っ込んだのがその高校で最期に口にした言葉です。

■ 運命の仕事に出逢う前

高校時代からお小遣いが欲しくてバイトは色々していました。
喫茶店やガソリンスタンドやあれこれと。

だけどどのバイトも全部ダルくていかにサボるか・・そればかり考えていました。 だって頑張っても頑張らなくても時給同じなら頑張るだけ損じゃない??とそう信じてました。だから高校を卒業した後も私は地元でフラフラ遊んだりバイトしたりして適当に過ごしていたのですが‥

ある日、求人広告を見て「英会話教室の子供の遊び相手 初任給24万円以上 週休2日で定時18時」とかが目に入ったんですね。 うそ???めっちゃいいじゃん!!と飛びつきました。 

当時は高卒の基本給だと15~6万くらい??とかが多かったと思います。
なので特別子供が好きな訳ではないけど。どんな仕事するのかもよくわかっていなかったけど。とにかく「基本給と休みの多さ」に惹かれたんです。

入社すると実際に仕事は全然「子供の遊び相手」ではありませんでした。

朝出勤すると切り取った「地図」を渡されるんですね。
そしてその地図の地域をドア・ツー・ドアで訪問し、子供のいるママさんを見つけ、子供向けの英会話教室の「無料体験レッスンの予約」を500円で頂いてくるという仕事でした。

これまた今話すとピンとこないかもだけど‥田舎なのでね。ピンポン押せば在宅の主婦さんはすぐでてきてくれた時代なんですよ。

で、実際働きだしてみると・・これもう私、天職だなと思いまして。
だってノルマは1日2件だったんだけど、2件申し込み頂けたらその日は家に帰っていいんですよ。
朝9時出社して運が良ければ午前中には帰れる。しかも歩合もつく。

逆にサボったりでその日のノルマがクリアできないと23時くらいまで残されたり灰皿飛んできたりするんです。

私にとってはこの環境は最高すぎました。
だって「やってもやらなくても一緒」ならやる意味ないなとしか思えなかったからサボるほうが絶対得だと思ってた。

だけど、頑張って結果を出せば褒められるし早く帰れて、しかも早く帰れているのに遅くまで残っている子よりお給料貰えるなんてオトクすぎる!!

今まで学校でも習い事でもどこに行っても「頑張っても怒られる」
という地獄ループだったのにここでは「頑張らなくても結果さえでていれば褒められる」なんて天国なのかなと。

契約とれない子は遅くまで残され灰皿飛んでくるしですぐ辞めちゃうのですが、私毎日簡単に契約とれちゃうんですよ。
なのでめっちゃ歩合もつきまして・・・
そのお陰でお金も貯まったし、謎の自信もついたし、不良仲間と遊んでいるより仕事のほうが楽しいと思えるようになってきたので・・自然とそれまでの仲間とはあまり会わなくなっていきました。

■ そうだ!大阪に行こう

お金も貯まったし、とにかく地元を離れたいだけだったんです。

「東京」か「大阪」のどちらかに住みたかったんですね。迷っていたとき、ある雑誌のインタビューが目に留まりました。それはスキンヘッドの女性タレントが、「東京では誰も気に留めず通り過ぎるけど、大阪では気兼ねなく話しかけてくるオッチャンがいる」と話している内容でした。

その話を聞いて決心がつきました。知らない土地で孤立したくない。大阪ならスキンヘッドでもイケるようだしこんな私でもすぐに溶け込めるかもしれない!と思い、大阪への引っ越しを決めたんです。

さてここからです。
大阪と言っても私はそれまで大阪に行ったことがなかったんですね。知り合いもいません。だから大阪のどこに行けばいいのかもわからなかったんです。そこでまず新幹線に乗って新大阪駅まで行ってみました。(しつこいようですがまだネットもスマホも無い時代です)

新大阪駅について駅の路線図を見ると、真ん中に「本町駅」という表示。

どうみても本町が中心!!

【本町】というぐらいだから、きっとあそこが大阪の中心なんだろうなと思いました。そこでそのまま新大阪駅から地下鉄に乗り、本町駅へ。

本町駅に到着した私は「本町駅のキヨスク」で賃貸情報雑誌と求人雑誌を何冊か買い、また新大阪駅に戻りました。

今思えばキオスクで買える求人誌と賃貸情報誌なので新大阪駅で買っても一緒だったってことはわかるんだけれど。当時の私は本当に何も分からなかったので、とにかく「本町駅で買えば間違いないだろう」だったんです。
(本町に対する圧倒的謎の信頼!)

そして愛知の自分の部屋に戻り、賃貸情報誌と求人誌を見て私は考えました。家と仕事どちらを先に決めなきゃいけないんだろう?と。

もちろん親にはまだ相談できません。そこで考えてみました。
会社の面接に行ったとして‥履歴書にどの住所を書けばいいんだろう?どこから来るんですかと言われても住所不定では絶対受からないし、地元からでは複数面接行く度の交通費が困るなと。

逆に、不動産屋さんに行って先に部屋を決めてしまう事ができれば‥
私は19歳の未成年だから親の保証人はきっと絶対必要で避けられない。だけどそれさえ取れれば無職でもなんとかなるんじゃないだろうか?ということで、まず家を決める事に。

賃貸情報誌で見つけたいくつかの部屋に電話で予約を入れ、不動産屋へと足を運びました。セクハラまがいの行為やおとり物件など、トラブルもありつつ、最終的には東大阪のワンルームマンションを決定。契約書を作成し、残るは親の保証人の承認を得るだけとなりました。

親に「大阪に行きたいから保証人になって」と頼んだところ、意外にもスムーズに承諾を得られ、賃貸契約できました。母も私との生活に疲れていたんだと思います。

■ いざ大阪生活スタートは夜職??

大阪に引っ越しを済ませ、次は職探しです。
学歴もない田舎モノだし、はじめての一人暮らしで家賃や生活費も心配だし‥もういっその事水商売でもいいかなって思っていたんです。
地元のスナックとかではバイトしたも事あったし。

だけど地元のスナックでは当時の時給って1200円が相場。
(普通に高校生のバイトが600円の時代です)
なのに、大阪で水商売(スナックくらいがいいと思ってた)の求人を探しても探してもスナックと名乗りながらどこも時給4000円~とか書かれてるんです。

4000円なんて絶対触られるやん!!

今思えばこれは田舎のスナックと大阪のお店での物価の違いなだけだったと思うんだけど。当時誰も知人のいなかった私にはそれを確認するすべもなく・・さすがに4000円の時給は怪しすぎると思い渋々「昼職」を探す事にしました。

■ 諦めて昼職を探す

求人誌を見て
■ 今のマンションから乗り継ぎなしでいける駅
 (田舎育ちだったから乗り換えが怖かった)
■ 初任給が高いところ
(はじめての一人暮らしはお金の心配怖すぎたよ!)
■ 資格など特になしでもOKなところ

に絞って探していくと最終的に
■ 営業の会社
■ 占い師(初心者歓迎!って書かれてた)
このどちらかが私の候補に残りました。
占い師???都会ってすごい!イロイロな仕事ある!なんか楽しそうと・・・・

でも今回は「楽しそう」で選んだらご飯食べられなくなっちゃうなと思ったのと、前回英会話の会社で営業の仕事に全然苦手意識なかった事もあり、そのまま営業の求人に応募してみました。

面接にいくと私ともう一人男の子での2人での同時の面接でした。
一通り仕事の説明が終わった後「何か質問はありますか?」と聞かれ、何がわからないのかすらわからなかった私はやってみればわかるだろってくらいの感じで「ありません」と答えました。

すると、その面接というか説明してくださっていた方が
「あ!キミ採用!」とその場で私の採用が決まりました。

そしてその面接官が話しを続けました。↓

先ほどは初任給や福利厚生の話をしましたが、この会社にはもう一つ別の給料形態がありまして、それはフルコミッションという形です。 この場合、完全歩合となるので一本も売れなければその月のお給料は0となりますが、一ヶ月で2本売れれば40万くらい。3本で60万くらいになります。

面接官(だけど社長だった方)の話

そんな説明でした。
もちろん私は「いやいやいや‥はじめての一人暮らしでゼロは死ぬから最初は絶対基本給で・・」と言ったのですがその方が

「実は僕は社長です。多分キミ、絶対いけるからフルコミのほうが稼げんで!最初の月は先輩にフォローさせたるわ」

みたいになってあれよあれよと「フルコミッション採用」となりました。
しかもその会社は私以外全員男性だったので「初」の女性社員。

見知らぬ土地。はじめての仕事。フルコミッション。周りはオッサン。

どうなる事かと思いましたが‥
結果的にスルスル売上は上がり、お給料も初年度で年収手取り700万ほどいただけました。

ここでの営業は、自分で電話してアポイントをとった相手にその日のうちに会いにいってそのまま商品説明してご契約を頂くというそういう流れでした。

一緒に入った同期の男の子はいつのまにかいなくなっちゃいまし、次々人が入っては売れずに辞めていきましたが‥私はお陰様で半年で6畳ワンルームから会社近くの1DLに引っ越しもする事ができました。

知らない土地で友達もいないまま、男性社員の中に混ざっていきなり始めたフルコミッション営業だった為、「家に帰ったところで友達もいないし」ってな感じで休日出勤や、遅い時間までの仕事も全然気になりませんでした。

会社にいれば誰かがいるし、自分の売上さえ安定できていれば漫画読んでても、おじさん達に教えてもらいながら麻雀してても怒られないし、会社でお菓子食べても椎茸育てていてもなにも注意されないし。

売れなければお給料がゼロで自分が困るだけだからやるしかない。

休日にどこに遊びにいくでもなく、職場は既婚男性ばかりで同年代の友達もおらず、夜遅くまで仕事して倒れるように寝るだけだったのですが‥


私自由だ!!


そう思ってました。
そこから4年くらいすると「飽き」もあってなんとなくでオーストラリアにワーキングホリデーで3ヶ月くらいいってみたり、「次は東京だ!!」と東京の会社に転職してみたり・・・

■ キャバクラで元祖ステップメール

東京ではまた営業の仕事してましたが、失恋して拗らせていた期間に仕事に行く気力も出ずでキャバクラで働いてみました。

当時私がいたキャバクラは都内でも一番大きな元祖キャバクラ的なグループ会社だったのです。なので女の子というより指名に特にこだわりのない「お店」についている穏やかなお客さんも多かったんです。

私、特別若い訳でも可愛い訳でもなかったし、なんなら愛想が良い訳でもないから普通に考えてキャバクラで稼ぐのって致命的なんですよね。

だけど、キャバクラも結局は「売上」があればお店から自由にさせてもらえる。「売上」がないとグチグチ言われて居心地が悪くなる。

居心地悪くなるのは嫌だな・・どうしよう・・と考えて携帯電話のメールで全員に通じる同じメール文を考えて「名前」の部分だけ手動で書き換えてサクサク毎日全員に送信していく・・という、自分で超アナログステップメールの形を作り出して日々続けた結果、特別可愛い訳でもないのに池袋と歌舞伎町の区役所通りのお店でそれぞれ一番の売上も出せるようになりました。

当時は iモード の時代だったので当然「ステップメール」という仕組みもありませんでしたが私の中ではこの時の事があるので「ステップメールの元祖私やで」と思ってます。

昼職の時も趣味もなく、仕事して終わればたまに会社のおっさんたちと呑んで帰るくらいだったんです。夜も夜でやってみたら派手に遊ぶとかも全然なく、仕事(売上作る事)が楽しすぎてそこで満足して呑んだくれて帰って寝るだけ。

楽しかったんだけど‥

一人暮らしだしお金がないと不安!と働き続け、まるで仕事が趣味のように思っていました。だから楽しかったけど稼いだお金での「遊び方」はずっと知らないままだったんです。

というか、私の中では「趣味ってお金と時間を使ってしまうけど、仕事って楽しい事してるのにお金までもらえて最高やないか」ーーみたいな。

そんな日々の中である日、なんか疲れたな‥と思い携帯電話(iモードです)で求人とか見ていたら「石垣島でのリゾートバイト」の求人が目に入ったんです。

■ そうだ!石垣島に住もう

そのリゾートバイトの求人広告には、石垣島で一ヶ月働けば、往復の飛行機代、寮の提供、そして日給1万円がもらえるとのこと。これなら東京で借りているマンションの家賃も賄える!

え?危ない?誰かに売られるかも?そんな不安もよぎりましたが、「行ってみよう」と思い、勢いで石垣島へ飛び立ちました。

これまで愛知から大阪、ワーキングホリデーを経て東京へ。そして、気付けば石垣島。

一人で大阪に出た日から、生き延びるために食べるためにと私なりに必死でした。

しかし、石垣島に来て心が動きました。ここで過ごす数日間で、「何もしないこと」に罪悪感を感じなくなるという新しい感覚に驚かされました。以前は、仕事をしていても、休日に何もせずダラダラしている自分に罪悪感を感じていました。

しかし石垣島で「何もしないこと」が罪ではないと気づきました。予定のない日々を過ごしても焦りや不安を感じなくなりました。そして、平久保岬の展望台からの景色を見て、

石垣島の平久保展望台
石垣島の平久保展望台

「私もう帰らない!ここに住む」
そう決めました。

決めたといっても東京にマンションまだ借りたままですしね。
それは解約したり、引っ越ししたりもしなきゃだし、仕事も辞めるっていわなきゃで・・と、雑用の為に東京⇔石垣を複数回往復しつつ石垣島に勢いで移住をしてしまいました。
(そのお陰でその時の貯金は無くなりました)

■ あれれ‥?時間もないしお金もない

さて。
今までの私は「お金はあるけど時間がない」という状態でしたが。

石垣島に移住をしてからは、せっかくだしのんびりして
「時間はあるけどお金がない」となるか‥と思いきや、
「時間もお金もない」。
しかも引っ越しやなんやで貯金もない!

バイトしないとお金がないのに時給が安い。
石垣島って決して物価安くないんですよ。

東京に比べれば家賃はまだ安いけどでも、電気代も高いし、野菜も高い。

それらを払う事を思うとバイト休んでられないんだけどそもそも「仕事」がそんなに無い。あれ?なんかおかしい!!私のんびりしに来たのに前より仕事をしないと暮らせない!

そこで何かないかな・・と思っていた時に
「アフィリエイト」という仕事を知りました。(当時2006年)

この時まだPCが今みたいに当たり前の時代ではないし、スマホもまだ無いし、私も自分のPCまだ持っていなかったんですよ。そもそもアフィリエイトで使うというブログやメルマガとかも読んだ事もない。

だけど、「インターネットならどこに住んでいても変わらない」
というそこだけ。とにかくそこに惹かれて「これしかない!」と思って中古のPC貰ってゼロから勉強をはじめました。

そして生まれて初めて作り出したヨチヨチの無料ブログから売上が上がりだし、半年後には月の報酬が30万を越えたのでバイトやめて専業アフィリエイターになりました。

■ え?法人化しなきゃなの??

そこから更にあれよあれよと売上があがりました。
すると今まで税金の事なんて全然わかっていなかったのですが‥自宅で一人でやってるだけだと経費もほとんどかからないので税金えらい事になるんですよ。

そこで「社長になりたかった」とかは全然ないんだけど「税金的に」という理由で法人化となりました。 法人化最初の年は法人税やなんやあわせるとそこそこのエライオッサンの年収くらい税金支払わされてビックリ。

法人化自体がそんな始まりだった事もあり・・
私「経営」とか「社会貢献」とか一切頭にないまま、そのままずっと一人法人でマイペースに自分がやりたい事だけやって暮らしていたら気付けば今でこの仕事18年目となりました。

いかに重い責任を背負わず、「嫌」や「不快」を省いて呑気に生きていけるか・・そこだけだったんですよね。

■ 当たり前の事をしただけでお金が‥

お陰様で時代もあり‥私のそうした考え方や、自宅で稼ぐというスタイルが「主婦はこうするべき」「仕事とは額に汗かいて稼ぐもの」みたいな雁字搦めでしんどくなってしまっている方達に受け入れて頂けました。

「もっと自由に生きられるよ」
「自分で稼げる力があると心強いよ!」

と会社勤め以外で生きていける道を伝えてサポートして‥でも、私にとっては何か努力したとか、苦労してでもなく自分的に当たり前にできる事を当たり前に伝え続けてきたら今に至ったという感じなんです。

頂く相談メールなどの返信も私にとっては「当たり前」な温度と気持ちを込めてお返事させて頂いているだけなのですがその温度以上に「人生変わりました!」と泣いて喜んで頂けたり・・・

そして・・お陰様でたくさんの方からお礼のメール頂けたりしますし、今も千名以上のクローズドのSNSを運営し、メンバー様達とキャッキャとネット上でやりとりはするのですがそもそも私これ、お金もらわなくてもやりたいって思えるくらいに楽しい事だったりもするんですよ。

すると元々はコンサル的に相談でお金頂くべき場所でも
「まあこのくらいいいよー」と言ってしまう事も増え・・・

「私にとって当たり前の事しているだけだしな・・」と「感謝の気持ち」が全然受け取れなくなっていってしまっている自分に気付きました。

確かに私の生き方は、私が嫌な事をせず、通勤時間もイヤな人間関係もなく、時間もお金もある程度自由に使え、尚且つ、メンバーさん達には喜んでもらえているし、ここだけを切り取れば、まさに昔の私が理想としていた現実が今ここにあるんだとも思えるんです。

だけどなんか最近ずっとつまらない。
かといってこれ以上また頑張ってお金を追うのも違う気がする。

■ 年収3000万の壁

私の周りにも同じような悩みを持つ人が多いことを知りました。年収が3,000万を超えるとそれ以上はどんなに収入が増えても「普通の価値観」のままでは生活が大きく変わる事はないんです。特に女性起業家さんの中には、そこで燃え尽きてしまう方が多いようでした。

ずっと「お金があれば幸せになれる」と思っていました。でも実際は、一般人の私は豪華なパーティに出席するわけでもなく、小学生の娘がいれば海外旅行を自由に楽しむわけにもいきません。(そう思い込んでた)

高価なバッグなんて買っても使う機会もないし、地元の友人との飲み会で高いシャンパンを開けることもありません。家では、着古したユニクロの服が一番心地よく、外食やUberを気兼ねなく使うことくらいで充分なんです。

そんな日々を送る中で、「一体何のために働いているのだろう?」と自問し続けていました。福利厚生がなく、私一人で仕事が成り立っている不安定さ、目立ちすぎるとトラブルに巻き込まれるかもしれない恐れ、さらには責任を増やせば忙しくなることへの恐怖。

娘の誕生以降は時間の不足も重なり、心は迷走していました。死にたいわけではありませんが、もし突然人生が終わっても後悔はないと感じるほどでした。

その時、自分が何か間違っていると気づきました。今私が死んだら、困るのは娘だけだと。私は私が世の中に期待せず、世の中を必要としなかったように、世の中からも私は期待されず、必要な存在ではなくなっていってたんだなと。

そう気付いた時やっと。やっと自分の幸せだけでなく、「世の中」での自分の役割と幸せについて考え始めました。

でも考えるといっても。
どう考えればいいのかすらわからなかったんです。だって「お金さえ稼げれば幸せになれる」とそれしか幸せのゴールを知らなかったから。

自分に何が足りないのか、何を学べばいいのか、どう変わっていけばいいのかがわからなくて、無気力になりかけていました。

そんな時、

【酸いも甘いも辛いもありとあらゆる感情を味わう事が生きてる醍醐味だし起業家ってそれができるから楽しいんじゃない?】

という言葉出会いました。
味わう・・? 

私は名前だけの社長で、起業家タイプではないと思っていましたが、イヤなことから逃れるだけでなく、意図的に「怖さを味わう」ことも試してみる価値があるのかもしれないと感じました。

これまでは「目立ってしまうと面倒が降りかかる」と避けていた恐怖も、お化け屋敷での恐怖のように、自ら進んで体験するならば、それを味わうという新しい境地を開いていけるのかもしれないなと。

■ メンバーさんも年を重ね同じ悩みが増えてきた

もう一つ加えたいことがあります。私がこの仕事を始めた当初、「自由に稼いで自由になろう!」というスローガンを掲げていました。

周りのみんなもまだ若かったんです。そのため、私は私と同じようにメンバーさん達も「雇われずに自分でお金を稼げれば自由で幸せになれる」と信じていました。

しかし、時が経ち、私もメンバーさん達も年齢を重ね、現在では30代後半から70代のメンバーさんがいます。最近ではコミュニティー内でも「ここからの自分について」に迷う声も増えてきました。

世代的にも「want to」ではなく「have to」に塗れ、「気合!努力!根性!」の精神で乗り越えてきたその結果、今、「自分が何を楽しいと感じるかが分からない」という方も多く、自分をもっと理解したいという声がたくさん上がっています。

これまで私は自分の経験をもとに私の価値観をメンバーさん達にシェアしてきましたが、ここから更に成熟したメンバーたちにどう役立てるか、自分自身がどう在るべきかを考えた時、きちんとしたスクールでのコーチング学びの重要性に気づきました。

そしていざ!!!とスクールに参加すると、すぐに私が感じていた「詰まり」の原因の一つが明らかになりました。

「負うべき責任」をきちんと負う覚悟。
私に圧倒的に足りなかったのはここですね。

今までこの「追うべき自分の責任を回避し続ける事」を自由だと思い続けてきた私でした。

ここからは背中に「負うべき責任」とタトゥーの一つでも堀りこんだほうがいいんじゃないかとすら思いました。(やめとけ)

そしてあとはこれかな。
仕事以外の趣味を広げていく。

そこからなんじゃないかな?
と思っている今です。

■ まとめ

ここまで読んで頂けた方であればお察しどころか、ほぼ冒頭からお気付きいただけていると思いますが‥
私、一応高卒扱いだけど正確に言えば中2のクリスマス以降から授業にでていないので脳内学歴では小卒と言っても過言ではありません。
(過言という言葉の使い方とかそういうトコ!)

学歴コンプは特に無いと思ってましたが、でも実際は「学歴がないけどお金は稼げる自分」という着地を自分のバリアにしていたんだなと今は気付いてもいます。

だから「お金が稼げない自分には価値がない」と思って仕事漬けになっていたのかも。

本当であればこのまま、「なんでもないような事が幸せなんだよねー」
とロード13章まで歌いながらメンバーさん達にチヤホヤされつつ残りの人生を生きていければ、それもそれなりに幸せなんだろうなとも思っていたんです。

だけど、周りに「自分らしく生きたいけど生きられない」というメンバーさんの声が年々増えていくのをヒシヒシと感じている中で

■ まず私自身が自分を変えていく
■ 私自身が今の自分では想像できない世界を見てみたい
■ その姿をメンバーさん達や、同じ悩みをを抱える方達に魅せたい

そう思ってスクールのメンバーさん達の学歴や経歴にめっちゃビビりながらもここに飛び込んじゃいました。

高学歴で素晴らしい経歴の方に混ざる野良犬の気分ですがでも、
だからこそ「こんな私でもできた」を一番見せられるのも私だなと今思えています。

スクールに飛び込むあの瞬間。
私の中ではそこが最初の「現状の外側」の気持ちにすらなっていました。

学歴だけではなく、過去のグレ期の事などはメンバーさんはもちろん、夫や、私が大人になってからの友達には誰一人話した事もありませんでした。

(ちなみに夫とは現在絶賛別居中)

ここまで話してしまう事で
「あなたはコーチャブルな人間ではありません」と辞めさせられてしまう‥という「仮想李先生」との脳内1on1でのやりとりが何度も何度も浮かびました。

「大学にすら行っていない人間は虫けら以下だ!」
母の言葉がまるで除夜の鐘のようにも響き渡ります。
(oh!108回)

それなら黙ったまま半年こそこそ隅っこで講義だけでも聞けるようにして過ごすほうがいいのかも??そんな迷いもあったのは事実です。でも


ここでつべこべ言っていたら一生そのままやで??

と心の声がどんどんデカくなってきたので「はい!ここまでが私の前提です」そう言える未来から来た私なら今どうするだろう?? それならやっぱり書ける事はすべて書くハズだ。

はい。
ここまでが私の前提です。そんな私だったのですがここから‥


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?