note回遊記0.2

※この記事は意図的に認知を歪ませています。
冗談としてお読みください。


記事を書く時に、右側に「noteのヒント」とかいうのが表示される。

noteのはじめかた
もっとも大事なこと
エディター画面でできること
タイトルと見出し画像をつける
本文のポイント
本文に埋め込めるもの



といった具合である。

何故、最初にこれを見なかったの。

それではもっとも大事そうな「もっとも大事なこと」を読んでみよう。

創作を楽しみ続けること
ずっと発表し続けること

いきなりわかんない。

まずは、創作したいこと・伝えたいことを世に送り出す。表現力もファンも、あとから十分ついてきます。

十分とは誰が決める事か。

創作活動は、筋トレやランニングと同じです。一時期に集中して取り組んだら、それで終わりではありません。ちょっとずつで良いので日常生活の一部にすること、クセをつけることがポイントです。

耳が痛い。

「そんなイイ子ちゃんな習慣化でモノが作れるようにはならねェぜ」
(物語の途中で登場し、見せ場も無く退場するカウボーイ風の悪役)
異論は認める。いや、そもそもこれが異論ではないだろうか。

創作を楽しみ続けること

創作はタノシイ物かと言われると、よくわからない。
この「楽しい」は数多の意味が含まれすぎていて、
私が日ごろから疑問に思う言葉だ。
Happy, Fun, Enjoy, Delight, Exciting, Pleasant, Merry...etc.
適当に出てくるだけでも、英語にはこれだけある。
しかし日本語では愉しいか楽しいしかない。全く愉快な言語だ。
せいぜいおたのしみにすればちょっとHな雰囲気になる程度である。

話を戻すが
私にとって創作とは、しないと苦しい物だ。

もちろんタノシイでやってる人が居る事は知ってるし、
しなくても生きていける人が居る事も知っている。

私にとって創作とは感情表現と言っていい物である。
感情表現を楽しいとは言わない。悲しい事は楽しいか。怒る事は楽しいか。これでは二つの感情が同時進行している。
だが、感情表現を抑える、と聞いた時には「我慢」や「苦しい」を
思い浮かべるはずだ。

もちろん創作を「楽しい」に変換させる作業という目線で
考える事も出来る。
感情を表現している最中に感情に呑まれるのは、創作に於いては
負けという考えがある。
自分でウケている芸人が芸をしてないように(誘い笑いはあるが)
失恋ソングで泣く歌手が曲を歌っていないように(盛り上がりはするが)
この考えで言うならば、感情を込めるを完全に履き違えているのである。
感情を表現するとは、常に感情を俯瞰で見て、共感できる形に
ラッピングする為に様々なレトリックやロジックがあり、
必ずしも当人がその感情でいる必要はないという話である(例外はあるが)
その作業を便宜的に楽しいと表現するなら、まぁ確かに……タノシイ?

人それぞれ。

ずっと発表し続けること


死んでも?


というボケは置いといて。
まぁ大丈夫だろう。こちとら十余年続けてる(沈黙期間含む)

しかし、noteが言いたい事はそうではないのだと思う。

長くとも週1ぐらいでコンスタントに発表しましょう。

って言いたいんだろ!オメーなんてもんはよォ~!

とにかく気軽に投稿しましょう。
まずは、創作したいこと・伝えたいことを世に送り出す
ちょっとずつで良いので日常生活の一部にする

定期コンテンツ化せよとの
圧を感じるのは私だけではあるまい!

そもそも――
私は二次創作者である。
活動が続けられるかどうかは、外部に依存している所も大きい。
ならいよいよオリジナルで何か作れば、という話になる。
しかし待って欲しい。
私の創作は感情表現ではあるが、そこに最も貢献している感情

好き。


いや、お前の事じゃない。

待って。真面目に言ったのにボケみたいにするのやめて。


自分が心から好きな物を作れるかどうか、想像して欲しい。
他人の粗は簡単に受け入れられるのに、自分の粗は死ぬほど気になる。
他人はいつでも完璧なのに、自分はいつでも出来損ないだ。
自分が心から好きな物を作るというのは
自分を心から好きと思うぐらいの無理難題である。

そういう人が創作を楽しむには特別なトレーニングが要るのだ。
それでは、その為のトレーニングを紹介しよう。

創作活動は、筋トレやランニングと同じです。一時期に集中して取り組んだら、それで終わりではありません。ちょっとずつで良いので日常生活の一部にすること、クセをつけることがポイントです。

これはとあるサイトから引用した、とても役に立つ考えです。

一時期に集中して取り組んだら、
それで終わりではありません。


え?一旦終わりにしてまた始めればいいのでは?

一時期集中して取り組んだものが消える訳でもあるまい。
そこで得た物は、今は使い道がなくとも、
そういえば1+1=田だったな。
などと思い出した時に、創作のきっかけ

にはならないかもしれないが、ちょっとウケる事もあるだろう。

日常生活の一部にする事というのはあたかも、見た物全てを創作に変える為に常に考え続ける事のように思えるが、私はそうではないと思っている。
それでは視野が狭まるばかりで、出来る物も出来なくなるだろう。
日常生活の一部にするというのは、囚われる事とは違うのだ。
重要なのは考え続ける事ではなく、忘れない事ではないか
極論を言うなら

わかんない
©ピノキオピー

後味最悪で終わります。また。



noteで書くのに慣れるまでは、みなさんが大好きなものや興味のある分野に特化するのがおすすめです。
まずは自分の大好きな分野で、情熱を注ぎ込んだテキストを、サクッと書ける分量からはじめるとよいでしょう。

流石noteさん、わかってる。
(手のひらドリル)

しいてき
恣意的

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?