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県民性とタモリさん。

きのう、テレビでタモリさんを見た。

いや、毎週たくさんの番組に出演されている方なので、わざわざ「見た」と言うほどのことでもないのだろうけど、「司会」や「進行役」ではないタモリさんを、ひさしぶりに見た。

タモリさんは福岡県のご出身だ。東京の下町に生まれ育ったビートたけしさん。関西から出てきた明石家さんまさん。おふたりに比べ、タモリさんがどこか無色透明で、飄々としてフラットで、ローカル臭や生活臭めいたものをあまり感じさせないのは、おそらく福岡出身であることと無関係ではないように思われる。

福岡に住んでいたころ、ぼくはメディアで語られる「福岡人の県民性」みたいな話が大きらいだった。県民性が議論されるとき、きまって福岡のひとは「お調子者で、お祭り好きで、ユーモアがあって、涙もろくて情に厚い」みたいなことが言われる。

いやいやいや、である。

福岡にだってノリの悪いやつは山ほどいるし、おもしろくないやつだらけと言ってもいいくらいだし、情に厚いなんてむしろ「地方のひと」へのステレオタイプな偏見だろ。そんなふうに怒っていた。なんというか、ゴールデンレトリバーと柴犬とピットブルの違いを語るように県民性を語るなよ、と思っていたのだ。


でも、もはや福岡で過ごした時間よりも東京暮らしのほうが長くなってしまった現在。ああ、県民性ってのはたしかにあるなあ、と思っている。

県民性とは(気質ではなく)文化の話であって、文化とはすなわち「なにがよしとされているか」の話なのだ。


福岡では、どういうひとが「かっこいい」とされているか。
福岡では、どういう行為が許されているか。
福岡では、どういう言動がよろこばれているか。
福岡では、どういう姿が「みっともない」とされているか。


そういうルールとも規則ともいえないコモンセンスは、日本全国それぞれの地域にあるだろうし、学校や企業にも当然あるだろう。学校であれば校風であり、企業であれば社風である。福岡にもたしかに、東京とは違った「風」が吹いている。

県民性とはたぶん、そこにいる人びとが「どうあるのか」の結果ではなく、「どうありたいのか」の途中経過を指しているのだ。