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正論を口にするときの危うさ。

こういうとき、おれは調子が悪いんじゃないか。

きょうの note はなにを書こうかな、とキーボードに置いた指を眺めていたとき、ふとそう思った。書くことが浮かばないなあ、と中空を見上げてぼくは、「最近の○○な風潮、どうも間違ってると思うんだよね」的な話を書こうかな、と思いついた。○○についてだったらいくらでも書けるし、ちゃんと書けば、まじめな提言にもなりそうだ。よーし、○○について書こう。

そうして指を動かしはじめたときにふと、これっておれの不調をあらわしてるんじゃないか、と気づいたのだ。

どういうことか。

自分になんの関係もないはずの他人に、自分にこれといった実害をもたらしているわけでもない他人のやってることに、「それはいかがなものか」とケチをつける。そのケチの論拠として、もっともらしい倫理を持ち出したり、道徳を振りかざしたり、「それによって困っている人」や「傷ついてる人」を捜してきたりして、正規軍の旗を立てる。いかにもそれが正論であるかのように。

けれども、ほんとの根っこにあるのは個人的な「なんかムカつく」であり、なんかムカつく最大の理由はきっと「いまのおれの調子の悪さ」なのだ。ほんとのほんとに自分が絶好調であったなら、きっとムカつく対象(大抵それはちっぽけな存在である)も視界に入らないだろうし、仮に入ってしまったとしても、ししゃもの骨のようにそのまま咀嚼してしまうだろう。


正論の9割は「理屈で固められたケチ」なのだ。

少なくとも自分が正論めいたことばでなにかを否定したくなったときには、それくらい用心深くなったほうがいいのだろう。


ま、ししゃもと同じく酒の肴としての「ケチ」はおいしいものでもあるし、要はブログやSNSが「酒の席」と同じ空間なのかどうかが問題なんでしょうけどね。