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部屋の描写がもったいない。

映画やテレビドラマを見ていると、部屋の描写が気になってしまう。

たとえば「ひとり暮らしの若者の部屋」。ずぼらさや不潔さを強調したキャラクターでないかぎり、作中の若者はそこそこ片づいた部屋に住んでいる。それなりの生活感は演出しつつも、アイドル的な俳優さんを小汚い部屋に住ませることはあまりない。

そして実際、現実世界においてもピカピカの部屋に住む若者はいる。というか、たとえばヤマダくんの家で鍋パーティーをしよう、みたいな話になったとしよう。するとヤマダくんは(ほとんどかならず)部屋中を掃除したうえで、友だちを迎える。もちろんまったく掃除をしない人や、掃除を必要としない関係もあるだろうが、ゴミを片づけるくらいはするだろう。

逆に言うと、ヤマダくんやスズキさんが普段どんな部屋でひとり暮らしをしているのか、その「ほんとうのところ」を知ることは、当人以外の誰にもできない。たとえ同棲したとか結婚したとかがあったとしても、共同生活を機に生活態度を改め、掃除の頻度を変えるのかもしれない。「ひとり暮らしの部屋」とは、それほど不可視の領域にある空間なのだ。

書いていたら話がずれていった。

問題は、映画やドラマにおける「実家」の描写である。

実家とは、「わたしの家」のようでありながら、「家族の家」である。もっと言えば「親の家」である。どんな家具を買い、どんな食器を買うか。どこにカレンダーを置き、どこにティッシュペーパーを置くか。貰いもののカレンダーなのか、購入したカレンダーなのか。クリネックスか、スコッティか。これらすべては、わたしじゃない誰かが決めている。その意味でいうと、かなり「他人の家」だ。

しかも実家には長い年月が流れている。住みはじめたばかりの家であることは少ないだろうし、買ったばかりのモノであふれているわけでもない。何年何十年という歳月のなかでさまざまなモノが取捨選択され、生活にベストなポジションに配置されている。

そういう「他人の家」でありながら実家は、気取りがない。来客時のように片づけがなされるわけでもなく、「他人の生活ぶり」が生々しく残されたほとんど唯一の空間が実家と言える。

なので、映画やテレビドラマのなかで「実家らしさ」の薄い、生きた時間の感じられない実家が出てくると、若干醒めてしまうのだ。

いやね、最近そういう「東京でひとり暮らしをする娘と、田舎の両親」が出てくるドラマ仕立てのコマーシャルを見て、実家の描き方がもったいないなあ、と思ったんです。


ぜんぜん関係ないけど、「実家」の写真コンテストとかあったらおもしろそうだなー。