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渋谷とインターネットとSNS。

ぼくという人間は、どこまで人間を信じることができるのか。

しつこいと思わず聞いてほしい。一昨日、豪雪のなかでキーケースを落としてしまったぼくは、落としたであろう渋谷駅から隣駅までのあいだを2・5往復も歩き回った。下を向いて、ひたすら足元を眺めて、歩き回った。道中のどこかで落としていることは間違いない。消失することなどありえないのだから、こうして雪にまみれて歩いているあいだも、地球上のどこかに鍵は存在する。問題はそれが道路の上に落ちているのか、すでに(ぼくではない)誰かさんのポケットに収まっているのか、そこだけだ。

もともとぼくは人間というものを信じている。その善意を信じ、良識を信じ、知性を信じている。そうでなければものを書く仕事なんてできないと思っているし、ましてや何か月も、ときには何年もかけて一冊の本を書き上げることなどできやしない。書くことの根幹には、読者への深い敬意と信頼がある。これがぼくの仕事観であり、人生観だ。

鍵を探しながらぼくは、当然そのことを思い出した。おれだったら落としものを拾ったときに、こうするだろう。まさかあんなことはしないだろう。それが人間というものだろう。他者を信じ、社会を信じる心がなければ、こんなに歩き回ることはできない。傘もささずに歩いていたぼくは、3回目にスクランブル交差点を渡りきったたばこ屋の前でふと思った。


「でも、ここは渋谷なんだよなあ」


人間を信じる心を持っていたはずのぼくも、「渋谷」を信じる心までは持ち合わせていなかった。ああ、ここには交番に届けない人も、キーケースのなかにあるクレジットカードを悪用しようとする人も、たくさんいるだろうなあ。

ぼくがクレジットカード会社に電話してカードを止めたのも、もうひと往復することをあきらめ帰路についたのも、(それが正しい判断だったとはいえ)ひとえに「渋谷を信じることができなかった」からなのだ。


そして翌日、つまりは昨日。ツイッター経由で、知らない方からこんな連絡が入った。プライバシーの問題もあるので正確に書き起こさず、おおまかなところを意訳すると、「きょうの昼、あなたのキーケースを拾いました。クレジットカード会社には拾得した旨を連絡済みで、追ってご本人に連絡すると言っていました。キーケース自体は本日中に交番まで届けます」というものだった。


ま・じ・で・!?


恥ずかしながらぼくは、まだその言を信じられなかった。感謝のことばと、ダイレクトメッセージでやりとりしましょう、という旨をお伝えして、どこで拾得されたのか、念のため確認した。するとその方は、まさに吹雪のなかぼくが歩いた場所を書き添えたうえで、急を要する落としものだと思ったので失礼ながらカードに記載された名前で検索し、このツイッターアカウントに行きついたのだと教えてくださった。けっきょくその方はご丁寧に交番までキーケースを届け、ぼくはその交番でキーケースを受けとった。法律でも定められた拾得者への報労金は、DM上の話し合いの上、Amazonギフト券で(ツイッターアカウント宛てに)お送りした。いちおうお断りしておくと、その方から報労金を求められたわけではなく、こちらからの申し出で、心ばかりのお礼として、なおかつ法的な定めに則って、お送りしたものである。

たぶんぼくは、この先ずっと今年の豪雪と、キーケースの紛失と、その方への感謝を忘れないだろう(もしこれを読んでくださる機会があったら、あらためてお礼を申し上げます。ほんとうにありがとうございました)。


そしてもうひとつ、忘れないでいようと思ったことがある。


ぼくは最初、その方からの「拾いました」というメッセージを信じきれなかったのだ。インターネット空間と呼ぶのか、SNS空間と呼ぶのかわからないけれど、ぼくはそこを「渋谷と同じくらいに信用ならない場所」だと思っていたのだ。なんて失礼で、なんて自分勝手で、なんてもったいないことだろう。

信じすぎることもよくないけれど、疑いが先にある場所なんて、気持ちいいはずがない。これまでSNS上での(見知らぬ方との)コミュニケーションに消極的だった自分だけれど、ちょっと改めないといけないな、と思ったのだ。


この(インターネット)世界は、ぼくが思っていた以上に素敵な場所なのだ。