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「置賜の地域づくり」を記すにあたって


 置賜(おきたま)というのは、山形県最南部にある、米沢市、南陽市、長井市、高畠町、川西町、飯豊町、小国町、白鷹町の3市5町の全体の地域をいいます。

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 江戸時代、30万石だった上杉米沢藩が、さらに15万石になった際には、置賜地域が、その領土でした。
 その当時から近代に至るまで、この地域がどのように街づくりされ、どのような問題を抱えてきたのか、について整理してみました。
 この地域の皆さんなら、承知のことのばかりですが、それらは、日本全国の各地域が取り組み、また、抱えた問題でもあります。
 内容は8項目、1テーマ800字程度として、コンパクトにまとめてみました。
 戦国の時代が終わり、徳川家康の時代になると、上杉藩は、会津から米沢に移封されます。米沢の人口は何と3万人以上に急膨張したのです。新たな米沢の城下町建設の総指揮官は、家老の直江兼続でした。翌年の慶長7年(1602年)から、本丸、二の丸、三の丸と整備が進められました。約10年の歳月が費やされて完成した米沢城下町は、城が三重の堀で囲われた水の都でした。
 第9代米沢藩主、上杉鷹山は、産業を安定させ、それまで積もり積もった大借金を全額返済しました。
 藩校興譲館を創設し、その中に医学を学ぶ好生堂も設立しました。そこで、米沢藩の有為な人材育成が図られるようになりまたす。米沢には、東北の長崎と言われる程、医学の歴史も遺されています。
 中世から近代において、重要だった産業は鉱山でした。鉱山は、いつの時代にも開発が行われ、そして、すたれてゆきました。深刻な公害問題も残しました。
 商品や人の移動は、大八車や人馬から荷馬車へと代わり、鉄道や車社会が到来します。かつての宿場町は消滅しました。
 車が普及すると、より安全でスピーディに走行できる道路が求められるようになります。福島市と米沢市を結ぶ栗子道は、時代の変化と共に3度建設されました。そして、4度目にして、高速道路となりました。今では、福島、米沢間がわずか25分で結ばれています。

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 このように時代が変化する中で、置賜の地域には、どのような歴史が刻まれてきたのでしょうか。
 
 内容は、次の8つの節で構成しています。

     第1節 米沢城の構成と堀周辺地域
     第2節 米沢城下の主な町
     第3節 米沢藩の水
     第4節 米沢に通じた江戸時代の道
     第5節 街道史話
     第6節 米沢藩の医学史
     第7節 栗子道
     第8節 置賜地域の鉱山

 ここに記したことは、主に米沢を中心にした置賜地域を対象にしていますが、これから、地域づくりに取り組もうとしている方々や、地域史に関心のある方々の参考になれれば、幸いです。

                           2021年 著者


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