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2024.02.09「ひとりでもふたりでも楽しいよ」

以前からnoteでも何度か書いているけど
我が家は旦那さんとの二人暮らし。
子どもは望んでいない。
多分この先も、気が変わらなければ
ずっと二人暮らしだと思う。

先日島根に帰った時、20代後半の女が
実家に帰っている、ということが
社会的にはどういう意味なのかを
身をもって知った。


「あ、これ?」
(お腹を指して里帰り出産か?と聞いてくる)

「子どもが居なくて何が楽しいの?」

「面白いから子ども作ってみたら?」


など、意外とまだ普通に聞いてくる人がいて
普段の生活で個人の選択を尊重してもらえている
私はほんのちょっとだけ、驚いた。
そのあと、静かに納得した。
「あ、これが普通なんだよなぁ」って。


普通でたまるか!
子どもを持つ持たないは、それぞれの自由で
なんの責任も持たない他人が口出しすべき
ことじゃないだろ!!!

と、思う私もいるんだけど
如何せん23歳くらいまでは島根で
生きてきたから、独特の価値感も
理解できるし、自分の中にそういう面が
欠片も無いかと言われると、分からない。

そして、そうやって声をかけてきた人達は
私のことが嫌いなんじゃなくて、
単純に疑問なんだろうなあと肌で感じた。
嫌な感じじゃないんだもの。
お互いに、違う文化と出会った感じ。

年代の違いもあるだろうし、
「まあ有るよね〜、こういうギャップ」
と自然に腑に落ちた。


だけど、そう聞く人たちは
「自分が楽しむため」「夫婦の娯楽のため」
に子どもをこの世に生み出したのかな、
とふと、その無邪気さが怖くなる。

そういう時代だったのかもしれないけど
子どもがいないと楽しくない人生って
子どもに求められるものが多すぎないか?

子どもがいてもいなくても、
パートナーがいてもいなくても、
私は多分楽しいよ。
そうじゃないと、求めた誰かに負わせる重荷が
大き過ぎるんじゃないか?
知らないうちに潰してしまうんじゃないか?
探せば多分、楽しいことはいっぱいあって
それらが経済を回していたりするんだと思う。
(その善し悪しは別問題として。)

私は望まずに子どもを持たないけれど
もし、子どもを望んでいて でも出来ない人
だったら、その言葉がけは
誰かの命を刈り取ることもあるかもしれないけど
そこんとこも無邪気で、羨ましくなる。

羨ましいからと言って、自分もなりたいとは
思えないけど、本人は生きやすいんだろうな〜
と漠然とその人生を夢想したりする。


産みたい人が産みやすく、
望まない人はその選択を認められ、
今生きてる人を死なせてしまわないような社会。

これってそんなに難しいものなのかな?

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