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ポケットベル

 携帯電話が普及する前、ポケットベルすなわちポケベルの時代があった。
 僕が持っていたポケベルは、電話番号のみが表示されるものであった。後にカタカナや漢字なども表示されるものが販売されるようになったが、その頃には携帯電話を使い始めたため、後にも先にもポケベルはその一台のみの使用となった。
 ある日、見慣れない番号がディスプレイに表示された。
 もちろん、電話番号と一緒に名前を登録する機能などもない。だからよく間違い電話というか、何と表現したらよいかわからないが、とにかくそういったものがあった。悪質なキャッチセールスなんかも後から出てきた気がする。
 そういったときには、念のためアドレス帳を調べる。ポケベルとアドレス帳の両方を持ち歩く。なんて不便な時代だったのであろう。
 それは、友達の別れた彼女からであった。車で帰宅途中であった僕は、電話ボックスを探し電話をかけた。
「もしもし? フロちゃん? あ、本当にかけてきてくれたんだあ」彼女は少し驚いたようだった。
 以前、僕は彼女に自分のポケベルの番号を教えていた。そして「いつでも電話して」というようなことを言ったらしい。
「いやさ。本当にかけて来てくれるのかなあって、思ってさ」そう言って彼女は、明るく笑った。
 それから小一時間ほど、僕たちは話をした。共通の友達のことや仕事のこと。彼女が今まで住んでいた部屋を引き払うことなど、とりとめのない会話を二人は楽しんだ。
「じゃあ、またポケベルに電話するから。そしたら、また、かけてきてね」最後にそう言うと、彼女は電話を切った。 
 あれからポケベルは姿を消し、携帯電話はスマホへと進化を遂げている。時折、あの不便な時代を懐かしく思うこともあれば、二度と戻りたくないとも思う。
 つい先日、引越しのために荷物の整理をしていると、あのポケベルを見つけた。どうやら捨てていなかったらしい。もちろん、もう使えやしないけれど。
 不思議なことに、それはすぐ目に付く場所に置かれてあった。僕は懐かしさのあまり少しの間ポケベルを眺めていたが、ふと思い立ちスマホから電話をかけた。
「もしもし? あ、本当にかけてきたんだあ」あの時と同じように、少し驚いたような声が聞こえてきた。
 時代はどんどん変化していくけれど、電話の声が妙に嬉しく思う気持ちは、いつまでたっても変わらないのかもしれない。
「いやさ。本当にかけてくるかなあって、思ってさ」
 そう言って妻は、あの時と同じように、明るく笑った。

【了】

イラスト/ちぃ(note.mu/selkie)

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