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創作教育の可能性:大塚英志・山本忠宏編『まんが表現教育論 実験と実践』

 今回は自分がかかわった本を紹介する。

粘土を押す

 今日取り上げる本、大塚英志・山本忠宏編『まんが表現教育論 実験と実践』(2023年2月、太田出版)を読んで、久しぶりに、子どもの頃に粘土をこねたことを思い出した。指で押すと粘土がへこむ、その感覚がよみがえってきたのだ。それは、創作することの原点にあるイメージだ。
 わたしがこの粘土を押すとへこむという経験をたいせつにしているのは、それが現実から離れた抽象的な議論の対極にあるからだ。
 といっても、ただ粘土を指で押しているだけでは、作品は完成しない。考えつつ、手を動かし、手を動かしつつ、考えて、粘土は作品としてのかたちをとってゆく。
 この本は、そうした創作のプロセスを対象化して目に見えるようにしてみせる実験と実践の記録である。
 まんがが対象であるが、物語を含めた創作教育について関心がある人には、いろんなヒントが詰まっている本だ。
 
 わたしは、第二章に「明治後期の多色石版——一條成美を起点として」を寄稿した。2018年に行われたワークショップ&ミニシンポ「まんがの色彩学」で「明治期、版の表現の諸相——一條成美からはじめて」という報告を行った。報告は明治後期の版(print)の表現手法を総覧する内容であったが、寄稿した論稿では、多色石版の展開を主に取り上げた。実践的な論稿の中では、〝浮いて〟しまわないか懸念していたが、そうでもなかったのでよかった。
 


映画とまんがの気になる関係


 Amazonの宣伝文から、本書の内容を示すところを引用しておこう。

神戸芸術工科大学と国際日本文化研究センターの授業やプロジェクトの一環で行われた、まんが表現教育に関する実験と実践について論考やコラムなど五章で構成。約十五年の間に行われた各プロジェクトの実験と実践の根底にあるのは、まんが表現における創作と研究の架橋。

2023年2月25日、参照。

 「第一章 「まんがと映画」」では、映画とまんがの関わりについての考察が展開される。

 大塚英志氏の「「竜神沼」はいかにして「映画」になろうとしたか」は、よく知られている、石森章太郎の『少年のためのマンガ家入門』(1965年、秋田書店)における、石森自作の『龍神沼』の分析が詳細に検討されている。
 わたしは、石森の本を大人になってから読んだが、映画的手法が『龍神沼』というまんが作品に使われているということを表層的には理解した。
 大塚氏の論では、徹底した分析によって、映画的手法のまんがへの取り込みの際に起きる微細な事象を取り上げている。
 映画的手法をまんがに導入したといっても、映像と、静止画をつなげるまんがでは、差異が生まれざるをえないのだ。
 たとえば、主人公が中心にいて、木の葉が水平方向に流れている横長のコマについて、映像表現におけるカメラのパンが翻訳されているという分析がある。一つのコマにカメラが回転する時間の経過が表現されていることになる。

 山本忠宏氏の「『アンラッキーヤングメン』に埋め込まれた「映画」」は、大塚論文とは逆に、藤原カムイ『アンラッキーヤングメン』(2004〜2006年、『小説野性時代』)を「逐語訳的」に映画化する試みについて取り上げている。
 実際「逐語訳」的にまんがを映画化していくと、現実世界の写像に近いコマと、そうではないコマがあることがわかる。
 バスの車内で主要人物たちが集まる場面が映像化されているが、実際の車内撮影では、カメラ位置が低く、まんがにある十分な俯瞰角度がとれないことが指摘されている。
 これは、4人の登場人物が決意を固める「象徴的な場面」であり、山本氏は「この場面を 描くためには現実空間を仮想することよりも、映画のスタジオ撮影で適切な画面を撮影するためにセ ット を部分的に解体してカメラポジションを確保するような方法が適切であったのである」と述べている。

 バスの場面に特定した反応ではないと思われるが、作者の藤原カムイ氏は、次のようなツイートを残している。

 現実世界におけるカメラ以上に、まんがの場合は自由に視点を構成することができるのである。
 ごく当然の当たり前のことのように思えるが、映画においても、ヒッチコックならバスの天井を抜いて撮影したかもしれない。わたしはまた、予算不足のため、カメラに収める部分だけを精密なセットにした伊丹十三のことを思い出した。映画においても現実から受ける制約をこえようとする演出は工夫されている。カメラワークを内面化したまんがはそのことを照らし出す。

スケッチか、略画か

 絵の得意な小学生がいるとしよう。彼(彼女)は、ふだんは、いまふうのまんが的な画像をスケッチブックにたくさん描いている。
 彼(彼女)は、現実の人物のクロッキーもじつはうまく描ける。視覚像を絵に転換する才能に恵まれているのだ。絵を習いたくて絵画教室にいったところ、スケッチやデッサンばかりで少し自分の希望と違うと考えている。

 わたしは絵の才能がみじんもないが、この小学生の戸惑いはよくわかる。
 スケッチのやデッサンの修練は、大局的にはまんがの絵を描くのに役立つだろうが、記号的なまんが表現に熟達するのはどのような方法がよいのだろう。

 「第二章「まんがと印刷・美術教育」」に収められた、大塚英志氏の「まんが入門書と「略画」——「まんがの方法」の歴史学」(初出時の題は「蘭学としての「漫画」——近現代略画・まんが入門書におけるライラッセ『大絵画本の系譜』」、『ユリイカ』2021年4月号)を読んでそんなことを考えた。

 日本には近世以来の略画、略筆画の伝統があって、『北斎漫画』や『蕙斎けいさい略画式』がよく知られている。それらがもとになって近代になって、西洋画の技法書とは系統のことなる略画の手本書が多数現れた。
 大塚氏は、近代の略画入門書に次のような共通性が見られることを指摘している。(p94)   

  ①卵形の描き方
  ②ムーブマン
  ③人体図

 まんがの描法に通じる、記号化、抽象化が略画の手本書の根幹にあることがわかる。
 わたしがおどろいたのは、大塚氏がこれらの源流に、蘭学者であり戯作者でもあった森島中良の『紅毛雑話』(1787年)があると指摘していることだ。写生、写実のリアリズムと、略画の記号化の不思議な交錯があったのだ。

 少し話がそれるが、わたしが追跡している、明治期にコマ絵・スケッチ画・絵物語で活躍し、洋画家となった太田三郎は、写生の入門書とともに、略画の手引きも出版している。太田の昭和期の小説挿画は、略画のタッチを生かしたものだ。

 また、略画の系譜を継ぐ木版漫画で活躍した小杉未醒(放庵)は洋画を描き、その後、水墨画に転換する。
 日本近代の多くの画家たちには、西洋美術の写実と、伝統的な略画の記号化の間の緊張、相互影響を内に抱え込んでいたのではないかと考えられる。

 前川志織氏の「明治期のアール・ヌーヴォーにみる「方法としてのまんが」——京都高等工芸学校の生徒作品を手がかりに」では、京都高等工芸の明治期の学生の作品がミュシャなどアール・ヌーヴォーの模写を行っており、その模写の過程で独自の日本的味わいを付加していることを指摘している。臨本模写という美術教育が絵から絵を生み出すきっかけをつくっているのである。


色は不思議

 「三章「まんがと色彩」」ではまんがの色づけ(着彩)について取り上げている。
 山本忠宏氏「まんがにおける「カラー」の問題」は、2017年から2018年にかけて行われた、「まんがの着彩についてのプロジェクトとカラリストによるワークショップを含むシンポジウム「まんがの色彩学」」における実践の報告である。
 
 『多重人格探偵サイコ』の見開き2ページの着彩事例が示されているが、配色と明度によるコントラストによる差異があることが、カラー図版から理解できる。

 海外のカラリストが、日本のまんがのキャラクターの背後の余白を「怖い」と感じて着彩していることは興味深い。

 山本氏は、大童澄瞳『映像研には手を出すな!』(第6巻43話、2021年小学館)を例にして、「カラリストにおける着彩に近い考え方でありつつ。余白を日本のまんがのように使用している点でハイブリッド性を持っている」と指摘している。余白による心情暗示という日本まんがの技法が、モノトーンに段階を付ける着彩を思わせる方法と並行しているということの指摘である。
 さっそく、『映像研には手を出すな!』全7巻(2017年〜2022年、小学館)を読んでみたが、すばらしいできばえの作品である。このまんがは、アニメ創作を目指す主人公たちの現実世界と、アニメ化を予想した想像世界が描かれる独特の構成をもっている。ある意味、表現のプロセスそのものを表現しているまんがである。

 第五章収録の中島千晴氏の「エッセイまんが フランスで教える日本のまんが」では、フランスのまんが家志望者たちが、映画的視点を内面化していることを指摘している。その映画的視点は外部から対象をとらえる客観ショットが基本になっていると考えられる。
 日本まんがのコマの余白が心情暗示として機能するなら、それは、客観視点のコマにキャラクターの感情を表現しようとする視点が含まれていることを示している。背景を抜くことによって、キャラクターを浮かび上がらせて、キャラクターの心情が投影されやすくするという表現のプロセスがある。
 コマの余白は、客観的視点から人物の主観を暗示する手法である。それを可能にするためには、まんがの物語プロセスそのものを対象化する視点が必要になるのではないだろうか。
 
 アルバロ・ダビド・ エルナンデス・エルナンデス氏とルベン・エドゥアルド・ソト・ディアス氏の「イストリエタが生き残る為にとった選択、色印刷のコスト、競争と産業の需要をめぐる戦略——作画家PEGASOの経験を例に——」では、メキシコの民衆まんがイストリエタの着彩法の歴史がたどられている。
 わたしが関心をそそられたのは、カラー印刷はコストがかかり、モノクロの作品も多かったという点である。フルカラーのイストリエタが一般的になるのは1980年代だという。
 日本では、フルカラーのまんががなぜ定着しないのかということが気にかかった。

Webtoonの可能性

 「第四章「まんがと絵巻・Web」」の、中国で実作者として活動している浅野龍哉氏のインタビュー「中国、韓国、日本のはざまで、縦スクロールまんがを考える 浅野龍哉/聞き手・構成: 山本忠宏、大塚英志」では、縦スクロールが基本になっている韓国、中国のWebtoonの現状を知ることができる。

 縦スクロールをページ形式に転換する場合には手間がかかる。コマの再配置が必要だからである。手作業が大切で、いかに時間と手間のやりくりをするかが要点であることがわかる。

 ぺージ形式のウェブまんがは横送りで、電子本もそうだ。noteは縦スクロールだが、文字の書き手たちはそのことを意識しているだろうか。そんなことも気になった。
 もしかして、縦スクロールはページ形式より映画に接近しているのだろうか。映画の絵コンテと縦スクロールの画面構成を比較したらどうなのだろう。

創作教育の実践

 「第五章「まんがと創作教育」」に収められた大塚英志氏の二つの報告(「報告1 教材開発「物語の絵本」シリーズ」「報告2 メキシコシティ地震被災児童のアニメ制作ワークショップ」)は、表現教育、創作教育に関するものだ。
 「報告1」で、大塚氏は「若い時代の心の内にある不安定な何者かを定型化する技術は「作家」修練法というよりは、生きる術として必要なような気がしてきた」と述べているが、そのとおりだと思う。わたし自身物語を完成できない子どもだったのでよくわかる。

 創作教育のテキストとして作られたのがキャンベルの神話論に基づいた『物語の絵本22』(絵・上原功一)と、プロップの『昔話の形態学』に基づいた『物語の絵本2 31』(絵・上原功一)であり、市販されたものに、読者が絵を絵本に描き込んでいく方式の大塚英志・七字由布『きみはひとりでどこかにいく』(2010年、太田出版)がある。
 私家版で発行されていない「窓から見える絵本」もおもしろい。窓外の風景を参加者が描き込むものだが、「窓からの侵入者を恐怖するモチーフ」が多かったという。

 七字由布氏の絵で作られた『姥皮うばかわ』もおもしろい。抽象化された絵柄であるため、物語の筋・プロットというものが、抽象化できるものだということを視覚的に理解できるのだ。

 「報告2」では、2017年9月に起きたメキシコ中部地震の表現を子どもたちが実践した2018年のメキシコでのワークショップが取り上げられている。表現することによる心理的な効果にふれている。
 枠組をどの程度与えてよいか、描くタイミングの問題など、反省点も記されている。
 創作教育においては、体験の共有(描くプロセスや、できあがった作品の鑑賞)が大切であることもわかる。

 物語の教育は、一見すると、物語の型を教え込むだけのように見えるかもしれない。しかし、型にそってシミュレーションをしないと、物語を統御する力を身につけることはできないのではないか。型にそって練習することは、表現するプロセスにおける心の運動を体感し、それを対象化することにつながる。
 

もう一人の自分


 創作教育についての報告を読みつつ、わたしが想起したのは、三浦つとむの「観念的な自己分裂」という考え方である。報告の内容から少し離れるかもしれないが、わたしにとって重要な気づきであるのでここに書きとめておきたい。
 勁草書房版『三浦つとむ選集4 芸術論』(1983年)の25頁に三浦は次のように書いている。

芸術の創作に際して、作者は観念的な自己分裂を行って「もう一人の自分」となり、これが表現の主体になる。 この主体は対象に対して特定の位置を占め、登場人物もまた特定の位置でそれぞれ表現の主体になる。そして鑑賞者もまた観念的な自己分裂を行って「もう一人の自分」になり、これが作品の表現主体を追体験する。

 これは、三浦が病気から回復して、勁草書房版の選集が刊行された際に付けた解題の一部である。この指摘そのものは、1967年の『認識と言語の理論』第一部、第二部(勁草書房)で、詳しく展開されている。

 三浦のいう「もう一人の自分」とは、文学理論ナラトロジーでいうところのimplied author(内包された作者)に相当する。implied author(内包された作者)とは、生身の作者とは別に設定される創作主体のことである。三浦つとむはウォルフガング・イーザーやウェイン・C・ブースに先駆けて「内包された作者」の問題を理論化しているのである。しかも、言語の断面で機能的にとらえるのではなく、認識と表現の過程として、三浦は「内包された作者」をとらえている。

 創作することは、生身の作者が対象化されて「もう一人の自分」と二重化することである。引用部分では、三浦は登場人物も「特定の位置で」主体化すると述べている。対象化された自己である創作主体が作る世界のなかでも、さらに複層化がおきるのである。
 創作は、人間が物理的素材を用いて、自己を観念的に二重化して、表現世界を対象化する、心身、世界が複雑にからみあった運動なのである。

 天性の創作者というのは、こうした表現行為の全体を対象化する視点を早くに獲得し、内面化することができているのではないだろうか。
 もちろん、生得的にそうなったわけではなく、天性の創作者と見える人は、失敗をおそれず試行を積み重ねて経験から学び、創作過程の全体を統御する力を身につけたのに違いない。
 
 さて、収録されたすべての論稿にふれたわけではないが、これで稿をとじることとしよう。
 今回紹介した『まんが表現教育論 実験と実践』は、A5判ハードカバー247ページでモノクロ図版、カラー図版も多いが、価格は5682円+税で高価格である。
 部数の少ない人文書は、高価格になる流れにあり、やむをえないことかもしれない。拙文を読んで関心を持ってくださった方は、図書館に購入希望を出して読んでくださればありがたい。

 *版元、太田出版の紹介ページでは、図版の事例を拡大してみることができる。



*ご一読くださりありがとうございました。

 


 



 
 
 

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