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人生が二度あればなんて思わない

甚だ唐突ですが、今私は幸せです。
だが「オレって恵まれてるよなー、ホントにオレは幸せだなー!」と無邪気にしみじみしている訳ではない。いろいろな面で「なーんか足りないんだよなぁ」「もうちょっと欲しいなー」「残念だなー」とも思っている。

お金については、出費の際にいつも「もう少しお金が有ればもうちょっといいのが買えるのに‥」と思うことが常。健康面は、年齢相応に課題は多く、決して万全ではない。残念ながら、勉強、運動、音楽に秀でるところは無く、その不足を補う努力をする性分でもなかった。性格面の欠点も多いようで、未だに家人からはよく指摘と指導を受ける。私には「足りない」ことだらけ。また年老いた父親や家族親戚に関する心配事も尽きない。

こんなふうに「不足」「不満」「不安」は山ほどある。でもやっぱり私は「不幸」ではない。
「戻りたい」と思うほど今より幸せだった過去は無いし、
「やり直したい」と思うほどの大きな後悔も無い。
言い換えると「今が一番幸せ」となってしまうが、いささか言い過ぎかとは思う。

***

懐かしい歌がある。

「人生が二度あれば」          井上陽水 1972年

 父は今年二月で六十五  顔のシワは増えてゆくばかり
 仕事に追われ この頃やっとゆとりができた
 父の湯呑み茶碗は欠けている  それにお茶を入れて飲んでいる
 湯呑みにに写る自分の顔をじっと見ている
 人生が二度あれば  この人生が二度あれば

 母は今年九月で六十四  子供だけのために齢とった
 母の細い手 漬け物石を持ち上げている
 そんな母を見てると人生が 誰のためにあるのか分からない
 子供を育て 家族のために年老いた母
 人生が二度あれば  この人生が二度あれば

 父と母がこたつでお茶を飲み  若い頃のことを話し合う
 想い出してる夢見るように 夢見るように
 人生が二度あれば  この人生が二度あれば

陽水さんの「人生が二度あれば」は、1972年発売のアルバム「断絶」に収録されている。高校時代にこの曲を聴いた私は、老夫婦の不幸な来し方と、寂しい行く末に思いを巡らせた。

今や私は歌詞中の父親の年齢を越えてしまった。改めて歌詞を読み返してみると… まぁ何と言うことでしょう! 歌に描かれているのは、とても幸せな老夫婦ではありませんか。

まず歌の中のおふたりは健康そうだ。お母上は細い手で漬け物石を持ち上げておられる。まだ足腰は達者で、引き締まった体型と察する。夫婦で懸命に働いて子供を育て上げ、最近はやっとゆとりもできたとのこと。ふたりでこたつに入って若い頃のことを話し合ったりして、何とも仲睦まじい。欠けた湯呑み茶碗は、長年愛用のお気に入りに違いない。買い替えられない訳じゃない。

そして何と言っても、両親を慈しむ子の優しい目線。「楽しい思いをさせてあげたいなぁ」「人生が二度あればなぁ」と思いやる。
若き日の陽水さんは、田舎で慎ましく暮らす晩年のご両親を不憫に思ってこの曲を作り、それを哀しく歌い上げたんだろう。

***

翻って我が家のこと。私と細君は昨年が結婚40周年。夫婦ふたり暮らし。病気や怪我もあったが運良く乗り越えられた。今は数々の疾病予備軍をなだめながら、ふたりとも何とか健康。4人の子供は全員自立した。お婿さんもお嫁さんも含め、みんな善良で優しい。我々夫婦の仲は良好。ただパワーバランスの変化は著しく、最近私に対する小言や指導が急増している。年金暮らしで余裕がある訳ではないが、小旅行に出たりするぐらいのゆとりは垣間見える。私たちの今はこんな感じ。ひけらかしも謙遜も抜きで書いてみた。

そう。私たち夫婦は、50年前陽水さんに「人生が二度あれば」と思わせた老夫婦 (たぶん陽水さんのご両親) にとてもよく似ている。

ということではあるが… 
私は「人生が二度あれば」などと思わない。全く思わない。

人生は、誰かのために生きるもの。その中には、楽しいことも悲しいこともある。自分の子供のためなら尚更頑張れる。やり直してみたとて、二度目の人生が一度目に勝るとは限らない。
私は一度目のこれを「幸せ」と思い込み、勘違いしたまま生きて死にたい。

「人生は一度っきり」。やり直すことより「良い終わり方」を考える。

がんちち一族・郎党(犬)
このイラストは結婚パーティーのパンフレット用に 次男のお嫁さんが書いたもの
今年の年賀状にしました

< 了 >

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