見出し画像

知ることは、痛みを知ること -『悪は存在しない』-

タイトルを見た時、随分と結論めいたタイトルだと思った。

あらすじを読んでも、設定しか分からない。
勝手に『怪物』のような、各々の人物から立ち上がる正義感を描くのかなと思っていた。



観てみると、ドキュメンタリーっぽいなと思った。
演技というよりも実生活の感じが強く、自然体。これを演技でやっているのは凄い。

台詞前後の冗長としたカットが変わらない無音のシーンも多い。
ほとんどの映画は、そんな空白に余韻といった意味を持たせているが、この映画はそういう演出をしないことで、ドキュメンタリーのような演出をしているように感じた。



この映画の主題がラストシーンにあるのは間違いないが、タイトルや、その前の鹿に関する台詞を含めて解釈が分かれそうだと思う。

僕は中盤にある、グランピング場を計画した芸能事務所の社員の2人が、土地に触れ合っていく様子に惹かれた。



僕は移住者ではないけれど、転勤族として見知らぬ土地を転々とした。
土地やその土地の人を知ることは、その土地や人々の痛みを知ることだと思っている。

痛みを知らないうちに語ることが出来るのは、ただの知ったかぶりで、上辺の寄り添ったふりに過ぎない。
痛みを知らないと、理解など出来ない。

だから、この映画で2人が薪割りや水汲みをするシーンには意味がある。



都会の人が、わざわざ田舎に来るのは、憂さを投げ捨てに来る、というのはその通りだ。
お金で多くのことを解決してしまえる都会の価値観に比べ、田舎はそこまでお金自体に価値がない。

その土地や人々への尊重がない行動はすぐに分かるし、札束で頬を叩きに来ているということもすぐ気付かれる。



敵意がない、お互いWin-Winだと言うのは決まり文句で、それ自体が都会の価値観で殴りに来ているようなものだ。

都会にやってきて住みつく人の大半は、上辺の利便性でその土地を選んでいるだけで、その土地に精神的な意味など見出してはいない。
利便性をお金に交換しているに過ぎない。



話が逸れるが、最近の過疎化の流れの中で、北海道の田舎に住む人は都会に引っ越せ、そんな土地へのインフラ維持に金を掛けるな、放棄しろという論調を見かけることが増えた。

不便を承知で住み続ける人の気持ちを、僕はなんとなく分かる。
それはその土地が、先祖が原野から開拓した土地だからだ。

土地を棄てることは、先祖を棄てることと同義であって、利便性を遥かに凌駕するものがそこにはある。



人を知ることの痛みは、前作『ドライブ・マイ・カー』でも描かれた世界だが、それがこの映画ではより社会性を帯びたものになっている。

そして翻って、この映画のラストシーン。
衝撃的と言えば衝撃的なのだが、どうだろう。予感というか予期というか、そんな気配はあって、驚き慄くものではなかったと思う。

あれも一つのこの土地の痛みであって、この土地のことなら何でも知っていると言われている主人公は、それすらも受け入れているように思えた。

そして、主人公があの社員を羽交い締めにしたのは、その痛みを自分だけのものとして受け止めて、余所者と共有したくなかったからかもしれないと思った。

人間を含めて自然であり、自然は時にかくも残酷なものでありうるのだと、北海道の過酷な自然を体感している僕は思う。

そして、自然に絶対悪など存在しないことも。



決して重い映画ではない。
僕が好きだったのは、件の社員2人が乗る車のシーンだった。今は出張仕事が多い僕は、移動中の車中でのこういう会話の楽しさが分かる。

人間誰しも色々な一面を持っていて、誰かから見えるものなど、ごく一つの面に過ぎないのだということ。

そこにも絶対悪など存在しないのかもしれない。



余談1
この映画を観たら、3月にやっていたドキュメンタリー映画『WILL』を観ておけば良かったと思った。
観ようか観まいか悩んで、説教臭そうだと思って結局観なかったのだが、近いテーマだと思うので、観ておけばまた理解が深まったかもしれないと思った。



余談2
これは僕の超偏見だが、主人公の雰囲気やぶっきら棒に喋る感じが、おミュータンツの宮戸フィルムさんのsupreme店員のモノマネに似ていた。
いつ「もういい?」って言うかなって、ちょっと思って笑いそうになっていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?