ZOC、ライブツアー《QUEEN OF TONE TOUR》チケット売れ残りから考察する、ポストコロナのアイドル像の変化。大森靖子ファンから見た、MAPA、VTuberまで





 

はじめに


 2024年2月中旬、アイドルグループZOCのライブツアー《QUEEN OF TONE TOUR》にて、2月25日に行われるファイナル公演のチケットが半数以上売れずに余っているという話題がSNS上で議論された。ZOCは大森靖子(以下、敬略称)が自ら率いる7人編成のアイドルグループであり、デビューした2018年以降、シーンで特異な存在感を誇り、常に注目されてきた。そのZOCのチケットが売れ残っていることは、あまりにも意外なことであり、ファンのコメントからも大きな動揺が感じられた。また、チケット販売のために実施される手段として、メンバー自らが新宿にて手売り(チケットへのサイン、7秒動画撮影付き)を行うことが告知され、既にチケットを電子的手段で入手したファンの視点からも、複雑な感情を持つことは不可避であったようだ。
 ちなみに筆者はZOCのライブに行ったことはないが、長らく大森靖子のファンであり、何度かライブに行ったことがある。そのような筆者が先日実施された大森プロデュースグループであるMAPAの大阪公演に参加し、そこで展開されていたある光景に大きな違和感を感じたことも本論を執筆する契機であった。それを言語することはその場ではできなかったのだが、今回のZOCの報道にも連なるものであり、併せて本論にて考察することとした。
 本論の結論を先に述べるならば、コロナウィルスの感染拡大期を前後として、アイドルの在り方が大きく変化したということである。それは、アイドルだけに限定されず他の表現形態全体の時代性を象徴するものであった。
 
 

1、ZOCの魅力とは


 なぜ、ZOCのチケットが売れ残るに至ったかを考察する上で、まず、あらためてZOCの魅力を明らかにすることからはじめたい。大森ファンとして客観性を保持するのは容易ではないのかもしれないが、大別すればZOCの魅力は以下の四つに分類されるだろう。
①スキャンダル性
②ビジュアル
③大森の楽曲の良さ、衣装、ダンス、映像などの他クリエーターの質の高さ
④アウトサイダー性
 
①スキャンダル性
 ZOCの楽曲は聴いたことがない人でも、そのスキャンダル性によってニュースなどで名を見たことがある人は多いかもしれない。それは、良くも悪くも、また意図的か偶然か、いずれも判断は難しいが、スキャンダルによって知られ、またそれが魅力であったのは間違いないだろう。メンバーの出入りが多く、メンバーそれぞれのキャラクターの危うさも伴って、その瞬間にしか見ることができない、持続可能性の低さが魅力だったと換言することができるかもしれない。本論では、それぞれのスキャンダルについて言及することはしないが、AKB以降の「会いにいけるアイドル」に反して、「会えるはずなのに会えるかどうかわからない、今日は会えても明日は、、、」といった儚さがあった。むしろアイドルに対して我々が求めるものは、そのような一過性のものであるのかもしれない。

②ビジュアル
 ZOCが結成された2018年は、欧米を浸透し尽くしていたポリティカル・コレクトネスの風潮が日本に遅れて認知されはじめた頃といえるだろう。AKB、坂道系まで続いた、「男性に好まれる女性らしさ」「女性性の所有、物質化」「処女崇拝」といったビジュアルの傾向とは逆のベクトルのZOCのビジュアルは、革新的な発明であっと思える。近年よく使われた「ビジュ優勝」という言葉が示すのは、どちらかといえば女性から好まれるビジュアルであり、AKB、坂道系などの画一的な制服制度とは違い、まったく統一感のないメンバーの個性を反映した衣装などによって巧みに配置されていた。
 
③大森の楽曲の良さ、衣装、ダンス、映像など、各クリエーターの質の高さ
 言及する必要はないのかもしれないが、ZOCが歌うのは大森の曲であり、その質と同時代性は、他のアイドルグループからすれば妬ましいほどのものであるだろう。筆者がライブには行かないまでも常にZOCの新曲が出るたびにYouTubeなどで視聴していたのは、楽曲が本当に聴く価値があると納得させられるものだったからだ。また、大森の周辺の気鋭のクリエイターたちによるコンテンツ制作力は非常に高く、これも大きな魅力でもある。
 
④アウトサイダー性
 これは、初期メンバーの紹介時に顕著だった。社会不適合であることを礼賛する態度は、マイノリティへの意識変化の時代に適合した。ヤンキー文化がマジョリティ文化だった20世紀が終わり、国民全員が総オタク化したといわれる現代において、時代に逆行するような「悪いもの」としての魅力があった。それぞれに付されていたキャッチコピーはアウトサイダー性を強調するものだった。
 
 では、このような魅力を持つZOCのチケットがなぜ売れなくなってしまうのか、次節ではこれを考察する。
 

2、ZOCが失ったもの


 前節でZOCの魅力を四つに分類したが、その中でも①スキャンダル性、④アウトサイダー性の変化がファンへの訴求力を失った原因であると筆者は推測する。②ビジュアルや③制作物は現在も申し分なく良い。
 YouTube動画『ZOC超緊急会議』(2024年1月16日公開、https://www.youtube.com/watch?v=bZ2h4D0iOyM)では、メンバーは体調不良や、経験の浅さによるパフォーマンスの低下を問題の原因として指摘する。だが、チケットが売れていた時期のパフォーマンス(歌、ダンス)に比すれば、明らかに現在は洗練されているといえるだろう。そのため、パフォーマンスと集客が相関関係、因果関係にあるというのは誤りであると思える。語弊を恐れずに言うならば、パフォーマンスの低さが話題になっていた時期の集客から考えれば、むしろ「うまさ」と「数字」は、相反関係にあるようにさえ思える。
 では、失ったように見える①スキャンダル性、④アウトサイダー性を再び獲得する必要があるということだろうか。それはあまりにも短絡的であるだろう。
 まず①スキャンダル性は、近年のポリティカル・コレクトネスの異常さ、一度「炎上」した者に対する寛容が年々希薄になる中で、あまりもリスクが高いように思われる。5年前には許容されていたことが、現在ではまったく許されない行為になったものも多い。小さな炎上によって、公演の中止やメディア出演の補償などによって実際的に活動を中止せざるえない状況まで追い込まれてしまうだろう。
 次に④アウトサイダー性は、ZOCはもはやその担い手としての役割を終えたといえる。大森が代表を務めるTOKYO PINKから、ジェンダーレスな椿宝座、グローバルな出自を持ち刺青が鮮烈な印象を与えるティム西蓮寺が所属するTOKYO PINK MINDS、といった新世代がグループデビューしていく中で、ZOCはむしろ正統派、模範的、ともいえる立ち位置を強いられる。それは、ZOC初期メンバーである愛染がYouTube上で演じるジュラ染カレンが象徴するような「良いお姉さん」的な役回りであり、業界歴の長い巫まろのプロフェッショナルなパフォーマンス、グラビアで新規ファン層開拓を図る鎮目のどか、などアウトサイダー性とどれも対極にあるものである。
 いずれにしろ、このようにグループが長期化する過程で、素人集団がプロフェッショナルな集団に変化する過程は、大森が敬愛する道重さゆみが所属したモーニング娘。も辿った軌跡そのままといえ、アイドルグループの必然といえるのかもしれない。ただ、そのスキャンダルかつアウトサイダーであることが魅力であったZOCの、そのファンたちにとっては容易に受け入れることができないものだったのであろう。
 

3、ファンたちが失ったもの


 本節では、MAPAの大阪公演を通して感じたことを通して、ZOCの今回の問題と共通する、ファン側の心理変化について考察する。
 筆者は、2024年2月12日のMAPA《Snowbud tour》大阪公演を観覧した。新規メンバーの加入の話題性や、以前より『いもうと』『アイドルを辞める日』などの楽曲の良さから気になっていたグループであったので、なんとなく参加した。客の男女比は2:8くらいで、中年男性である筆者としては若干の居心地の悪さはあったが、仕事関係の知人アイドルの小規模ライブを除けば、人気アイドルのライブははじめてであったので貴重な機会であると感じていた。内容については、歌やダンスのクオリティも高く、オリジナルメンバーと新メンバーの関係性なども垣間見ることができ、非常に見応えのあるものだった。特に、『いもうと』のダンス構成(振り付けはZOCの雅雀り子であろうか)は、たま、などにも連なる日本の民俗学的な系譜を感じさせる秀逸なものであった。
 しかし、トークの段階では、違和感を感じた。というより、驚いてしまった。熱心なファンからすれば、慣れていることなのかもしれないとも思ったのだが、最後部の男性ファンが「大阪のライブなんだから、大阪のこと大事にしてや!」(不確かな記憶であり正確な言葉ではなく、関西弁がわからないためニュアンスもあくまで予想であるが)と叫んだ後の、会場の空気からはそれが私だけの違和感でないことは明らかだった。それは、メンバー全員がそれぞれのトークにおいて、東京でのツアー最終日のチケットが売れ残っているのでぜひ来てほしいという内容が話されている最中の出来事であった。
 そこには言わされているといった印象があり、またZOCの場合と違い「売れ残っている」という直截の表現は避けられていたが、メンバーの表情からは、達成すべき目的といったポジティブなものではなく、課せられた義務、のようにも感じられた。
 しかし、会場を見渡し、ファンの年齢層から考えても、関西地区から東京のライブに参加することはかなり難しいように思える。昨今の円安や、ポストコロナとしてのオーバーツーリズムによって外国人観光客が多数来日する東京では、ホテルの価格などが高騰し、交通費など併せると5万円ほどは必要だろう。会場のファンたちにとって、それを工面することはかなり困難であるように思える。
 収益化、その黒字化はビジネスとしては当然であるが、それを巧みにソフィスティケイトし、ファンが喜んでお金を支払えるシステムの構築こそが現代のアイドルには不可欠である。演者にとっても成果主義的なモチベーション維持機能としてチェキなどの直接交流による手売りは重要であるが、さまざまな危険性と矛盾を孕んだものであることは、運営、演者、ファンもそれぞれ承知の上だろう。しかしながら、それは同時に、ファンにとって「見たくない面」を露呈させることにもなる。チケットの手売りや、署名(古くは、ウッチャンナンチャンの番組企画としてのポケットビスケッツ)のようなコンテンツによって物語を醸成し、ファンの訴求力を高めるのは現在でもある程度有効かもしれない。しかし、実際に「会いにいけるアイドル」の近さは、そのコンテンツの有効範囲を狭きものに限定する。新規層を獲得しようにも、たとえば、大森の『パーティドレス』に登場する「きたない親父」の年齢になってしまった筆者のような存在からは、オフィシャルのペンライトを持って次もまたライブに行く、というのはかなりのハードルに感じてしまうのだ。筆者にとっては、演者が「憧れの存在」や「同年代の友達」になることなどありえない。「ショービジネスの演者」でしかなく、「チケット売るために苦労する若者」を応援する気も、見たくもないのである。
 また、ポストコロナの状況において、手売りのリスクは、ファンにとっては加害者になり得るという恐怖も想起した。「推し」に接近することで、もし自身が感染者だった場合起こりうることは、見たい推しを自身によって、見られないものとしてしまう可能性がある。その罪悪感はこの文化そのものを弱化させるだろう。人々の意識から、直接的なコミュニケーションのリスクを駆逐できる日はいつになるのだろうか。永遠に不可能であるならば、他のコミュニケーション、マネタイズの方法が登場することに期待せずにはいられない。
 そもそも、小説を揶揄して「読んでいる人間よりも書いている人間の方が多い」と言うように、アイドルになりたいという層は大事な顧客層である。会場にいるお客さんからもそのような意気込みは感じられたので、MAPA、ZOCともに厳しい現実の部分の露出は、長期的にはマーケットの縮小の危険性を伴うものであろう。
 

4、VTuber、アイドルのポストヒューマニズム化の中でのZOC


 本節では、もう少し俯瞰的に現在のアイドルを考察するために、勢いのあるコンテンツを対象として論じる。
 ZOCだけでなく、他の多くのアイドルも厳しい状況に追い込まれていく中で、盛り上がりを見せているのはVTuberである。トップVTuberの配信中の投げ銭をカウントしていると、今回のZOCのチケットの売れ残り分(5,000円×800枚=4,000,000円)を1日で平気で達成しているものもある。VTuberも多くのスタッフが裏で稼働しているのかもしれないが、それでもZOCの一公演分のコストが必要なことはまずないだろう。VTuberを躍進させた契機の一つがパンデミックであることは間違いないだろうが、文化全体の変化により適合し、その代表であるのがVTuberといえよう。
 そこで投げ銭に付されるコメントを見ると以下に分類されることがわかる。
a,VTuberの発話内容に対するコメント、ツッコミ、アドバイス等
b,何かしらの要求
c,あいさつ、テキスト記載無し、など特に意味を有さないもの
d,要求を伴わない一方的な感情の吐露
 ここで、もっとも注目すべきはdの要求を伴わない一方的な感情の吐露である。それは、なぜか、単純に付される金額が多いからである。「ずっと好きです、これからも応援しています」といった内容であり、それに対し「ありがとう」と配信中に返答するVTuberもいるため、要求とカテゴライズすることもできるが、読み上げを行わないVTuberもいるため、敷衍すれば、「勝手に自分の想いを述べ、金を無駄にしている」といえるだろう。重要な点は、「無駄にしている」という自覚はありながら、むしろ無駄だから、価値がある行為に転化されるという矛盾である。ソーシャルゲームのガチャに課金し、所謂「爆死」することを喜んで行うことに近いのである。本論では詳細な検討は避けるが、このような行為にこそ価値を見出すのは、人間の本質的な性であるいえるのではないだろうか。
 本題に戻ろう。では、VTuberの投げ銭から見える現在の「推し活」の心理から、ZOCにフィードバック可能なことを勝手に考えるとするならば、それは、VTuberのような「軽さ」なのではないだろうか。上述のチケット販売会議の動画にて、撮影、進行し、多くの提言をおこなっているのはおそらく『街録ch』の三谷三四郎であるのだが、そのあまりの真っ当さはコミカルであるが、シニカルにも映る。三谷は、SNSの基本的な利用戦略を提示し、そこでは質ではなく「量」が重要であることを強調する。しかし、内容にこだわりを見せるメンバーとは完全にディスコミュニケーションが展開される。第2節にてパフォーマンスと集客は必ずしも直結しないことを筆者も指摘したが、同様に、VTuberの、歌などのパフォーマンスもそれほど質が高いものだとは思えない。そこで語られる物語はやはり「軽い」ものである。「物語」というにはあまりも大袈裟で、「小話」でよい。現在のユーザーはそのような「小話」を求めているのである。今更、ポストモダン、大きな物語、などと言うつもりはないが、それでも退院後間もない大森や、酷使した愛染の声、巫の経験値からくる危機意識、などから感じられるのは、あまりにもハードなものであり、若いファンたちが参入し難いコミュニティ、排他的ともいえる雰囲気があることは否定できないだろう。「かわいい」の中に「狂気」が内在するのは大森の作品の魅力であることは確かだが「推しは推せる時に推せなんていうアイドル信用しちゃダメダメ」(MAPA『アイドルを辞める日』)と言うくらい嘘と本当が入り混じり、「でも 成長過程見せるのが アイドルだって聞いた」(ZOC『A INNOCENCE』)としても、べつに楽しく遊んでいてほしい、成長どころか悪くなってもよい、と思うのは筆者の年齢によるものであろうか。それくらいの方が、「かわいい」の中の「狂気」が際立つのはないだろうか。


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