「歌がうまい」の誤解

誰もが調子っぱずれな歌は聴きたくはないと思うでしょう。
少なからず筆者もその一人であります。

ですが、その一方で「歌がうまい」ということに対する、一般的な理解が「音程が正しい」ということに帰結していくことに関しては、かなり懐疑的な目線があります。
もちろん人によって好みやテクニカル的な理解は千差万別なので、「良いものは良い」という部分は簡単にひとくくりにはできないものであるのも確かです。

このnote記事では、自分が音楽を好んで聴いてきた中で分析したり感じたことが元となっています。その大部分が主観であり、一般論、また、決めつけるものではありません。 そのことをあらかじめご了承いただきながら読み進めていただきたいと思います。

歌の要素

歌や楽器は全てに複合的な要素があります。大まかに分けて「音程(音高)の情報」「リズム(タイミング)の情報」そして「音量(ダイナミクス)の情報」
この3要素に分類することが出来ます。

「音程が正しいこと」はあくまでもこの3つのうちの1つを最低限クリア出来ている、ということにすぎないということになります。

声の「音質」という概念

そして、さらに特筆すべき要素がもう一つあり、それが「音(もしくは声)の質感」という要素になります。これが特に忘れられがちというか、具体的に言及されることが急激に減るポイントです。
ですがたしかに、印象としての良し悪しを大きく左右しているのはここになる気がします。

そして個人的に本当の歌のうまさはこの「音質の良さ」だと思っていて、これは発声が熟練していない歌声はどんな高級マイクでも綺麗に録れず(むしろ、ノイズや特定の周波数のピークなどの影響で、高性能なマイクのほうがより不利になってしまう可能性も)

かえって発声が熟練している人は、安価なマイクでも必要な要素が充分に出ており、ミキシングに耐えうるトラックに仕上がってくるように感じます。
この差は果てしないものがあります。

ここでいう「音質の良さ」とは、レコーディング機材やミキシング処理などによる聴感の「音質」ではなく、文字通り「声そのものの質」のことです。

(4/19追記: ここで触れている意図は先天的な「声質」という意味合いよりは、後天的に訓練して得られる「マイクに乗せる技術」的な意味合いが強いです。)

ダイナミクスがもたらす印象

これは「音量」の情報にも関連します。ですがこれも同じく、「大きな声が出ること」が「歌がうまい」と形容されがちなことにも注意が必要です。
ウィスパーや、そこまでいかなかったとしてもそこまで声量を張らずに素晴らしい歌唱をするシンガーはたくさんいます。
例えば録音の観点から言えば、音量が小さいということは不利になりえます。しかし、発声の質によってそのクオリティは担保され、「単純に声が小さい」こととは差があります。

一方で「声が大きい」ことは、もちろん強い味方ではありますが、
それ単体ではメリットになりえません。

表現力があるように感じられるものというのは「もっとも小さい(弱い)部分」と「もっとも大きい(強い)部分」の差がどれほどあるか、というところが核になってきます。
そのため、声が大きいというメリットを活かすためには同じくらいだけ小さい声量をコントロールするテクニックが必要です。しかしこれに関してはあまり大事にされていないように感じます。

なので、一般的に「音程が正確で、声が大きい(≠パワフルな)歌」は「歌がうまい」と形容されやすいと思うのですが、あくまで個人的な印象としてはむしろ逆に、「歌がうまい」から遠ざかってしまう可能性もある特徴であるようにも感じます。

正しい音程、とは何か

音程に話を戻すと、音楽的な表現においては「数値として正しい音程」が必ずしも正解ではないことは非常に多くのケースであります。
細かな情緒が、微妙にフラットしたりシャープしていること、もしくは音程間の移動が曖昧なことによって表現されることも大いにあります。

近年、カラオケの採点機能が高性能化したことで、リアルタイムでもかなり精密な音程の検出が可能になりました。しかしながら、この場合の点数や評価はあくまで「設定したピッチ数値にどれだけ近づいているか」を指標にせざるをえません。その技術的な問題を解決するため、複合的な歌のうまさを評価する意味で加えられているのが「しゃくり」や「ビブラート」などのポイント加算方式になりますが、これもおそらくは「音程が下から正しい位置に推移した」「音程が周期的に揺らいだ」ことを判断しているにすぎないため、極端な話「あえてたくさん入れる」ことも可能になってしまいます。

また、先ほど話題にした「音量」および「音質」の領域については殆ど考慮されません。
(音量に関しては、おおまかにダイナミクスがあるかを評価要素に加えることは技術的に可能ではありますが)

つまり、極論を言ってしまえば「全く実用的ではないが、音程の正確性が出やすいことに特化した発声」をすれば点が取れてしまうことになります。結果的にかなりゲーム的な、「攻略をする歌」を目指すことも可能になってしまうということになります。

もちろん、音程が明らかにズレていることは大きなマイナスポイントであり、そもそも議論の対象にならないものであることは確かです。

それを耳にすれば確かに「歌が下手くそだ」と思うのは確かでしょう。

すなわち音程がある程度取れることというのは「最低限クリアされているべき要件」という範囲の、いわばマナーに近いことだと考えられます。
ですが、それは必ずしもピッチがパーフェクトであるということを意味しない。ということには留意をしたいところです。

ピッチ補正の是非

よく「この歌手はピッチ補正をしていて…」といったようなコメントを、ネガティブな意図で見かけることがあります。
ですがこれがマイナスポイントになるかどうかは、正直それ以外の要素をどれだけ持ち合わせていて、音程に補正をかけることにどれだけメリットがあるか、というバランスでしかないと思っています。

ピッチ補正が与える影響は、主に2つあります。

1つめは「歌が下手な人でもごまかせるのだろう」というマイナスイメージが持たれることです。これに関しては正直、半分正解で半分不正解みたいなものだと思っています。
ピッチ以外の要素、「声量(および音質)」と「ダイナミクス(音量の時間的変化)」の情報量まで乏しい歌唱にピッチ補正を行うと「音程が正確で、下手な歌」というなんとも奇妙なものが誕生するだけです。

細微な音程の補正を行う場合、いわば前述した「マナーの領域」においての、美意識をもって行われることがあります。
端正なビジュアルの持ち主でも、お化粧はするものだと想像してみてください。ですが「下手な歌を聴けるようにする」ような魔法の修正は本来はありません。それが出来るならば、誰が歌ってもオートチューンをかけさえすれば何も変わらないことになってしまいます。
大きな修正は音質の面でもさらにマイナスポイントになるため、そもそも推奨されません。
「ピッチ補正が実力をごまかし、それがリスナーを騙している」というイメージは実際には正しくないと感じます。

2つめは、ピッチに補正をかけることによって音程がもたらす個性や音楽的な情緒が大きく損なわれるというデメリットがある点です。
本来、ピッチを修正するとしてもこの部分をいかに残すかという点はかなりシビアになるべきですし、「じゃあ直さない方がよかったのに」ということすら頻繁に起こり得ます。

しかし、昨今特に「補正されているピッチ」に耳が慣れている人の場合、その情緒について無頓着になりがちです。結果的に、補正も数値的になり、「ピッチ・パーフェクトである歌」に耳が慣れてしまいます。それが前述したような採点機能の広まりと相まって、音程要素ばかりが歌のうまさであるとの誤解につながっているように感じます。

リズムの影響

そしてもう一つの軸、それはリズムになります。
個人的には、ピッチよりもはるかにリズムの良し悪しのほうが、歌の印象においては効果が高く不可欠に感じます。
仮に「音程がめちゃくちゃだがリズム感がめちゃくちゃ良い歌」と「音程がかなりしっかりとれているがリズムに乗れていない歌」のどちらを選ぶかと問われたら、私ならば迷わず前者のほうを選びます。

特に現代のポップミュージックではロック、R&B、ソウルなどといったビートがしっかりとした柱になっている音楽が主流になっているように思えます。
「ノリ」は、音楽全体に影響を与えます。例えば、ハネている曲で全くハネていないリズムで歌ったりしたときなど、致命的にバックトラックのグルーヴ感を損なうことになります。
ブレイクを挟んで復帰するメロディラインなどの時に、ブレイク中にハシったりモタッたりすることによって、復帰のカタルシスを損なったりもします。これは音程のズレよりも遥かに致命的なことだと感じます。

不思議なことに、リズムがめちゃくちゃよくて音程がいまひとつ、というケースはあまり耳にしないような気がします。
だいたいの場合、「リズムと音程が同時に苦手である」か、「ある程度両方とも出来ている」か、というケースが多いのではないかと思います。
ある意味「リズム感」そのものがベーシックな音楽的素養だと考えます。

また、前述した「音質」に最も大きく影響する要素として「発音」があります。
「発音」はそのまま歌詞の聴き取りやすさに直結します。歌において、必ずしもではありませんが「歌詞が入ってくる」というのは重要なポイントなように感じます。

音素について考える

リズムが良くないとき、同時に、発音におけるつまずきも多いように感じます。平たく「滑舌」といっても差し支えないかもしれませんが、細かい音素のコントロールが結果的にリズムの良さにも直結してきます。また、子音のアタックがあることによってアクセントがはっきりとします。結果的にリズムにメリハリが生まれることにもつながります。

重要なのはこの「音素」すなわち、子音と母音を分割して考えられる、また実際にコントロールができる、ということです。

例えば「世界」という単語を発音するとき、実際にはいくつの要素があるでしょうか?」
「せ」「か」「い」の3つの要素、これではまだ不十分です。
厳密には
「s」「 え」「 k」「あ」 「い」

という5要素になり、
もっと厳密にいうとその間の

「s→えの前歯の開き」
「え→kの口の閉じ」
「k→あの奥歯の開き」
「あ→いの口の開き具合の遷移」

というのも含まれてくると倍以上の要素になります。これらの情報量の差は歴然になります。

こうした発音の情報量に関することは歌のみならず単に発音、会話においても共通してくるとは思いますが、実際にリズムやアタック、アクセントについて考えているときに常に無意識下でこれらの情報を感じ取っています。そのため、「声量は大きくしたくないが、アクセントだけを強くする」逆に「声としてはパワーが欲しいが、耳に刺さるs子音だけを抑える」
「タイミングは変わらないが、音価が短くなったように聴こえさせる」などのコントロールが多段階で可能になります。

一方で「せ」「か」「い」の3つの要素でしか捉えられていない場合、その文字単位でせいぜい強いか弱いかをコントロールするのが精一杯になります。「せ」に気を取られすぎるがあまり「か」で息が苦しくなる、みたいなことも起こりえます。

そして、この「発音の解像度」というものは前述した「音質の良さ」に最も直結するものと考えられます。

改めて思考を整理し直してみましょう、この「発音の解像度」という要素は、「音程」とは全く関連性がありません。ここが優れているか否かと、
音程が良いかどうかにはほとんど関係がないのです。
そして、これらは残念ながら補正をする手立てがあまりありません。
録音の後処理において、もっとも手強く、
また不用意に修正すべきではない処理であることは確かだと思います。

あとがき

ここでは、「歌唱」というものをいくつかの要素に分解して考えました。
「音程」というわかりやすい指標に惑わされず、
「ピッチが正しい歌」ではなく「良い歌」というものを考えられたらよいなと思います。

また、この記事を書くにあたって、多くのことが楽器の演奏とも共通していると改めて気づきました。
スピードやテクニックなどを指標に求めてしまいたくなりがちですが、
丁寧なイントネーション、理解の解像度を高めること、
それに伴って目的意識を持って練習に取り組むこと、

これらをより一層大切にしていこうと思いました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?