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「箕輪の剣」第11話

第11話 西上野攻防

 武田信玄という武将は、戦国が生んだ魔物といってよい。信濃をおおよそ支配下に握ったのち、信玄は戦線を関東へ向けた。吾妻方面に侵攻した真田の軍勢は、抵抗を圧倒し、やがてこれを制圧した。箕輪のある榛名山麓の北側が、武田の支配下となったのである。
 しかし、これは武田勢のなかで、ほんの一握りに過ぎない。信玄の本命は、駿河だった。武田・今川・北条と同盟を結んでいた三国であるが、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、信玄は駿河へ遠慮することをやめた。
 信玄のやり方に不服な嫡男・義信は、謀叛を画策し、幽閉されるに至った。これが、信玄だ。侵略に綺麗事などない。機をみて絶好とあらば、ためらいもなく侵攻する。肉親の情など、そこには介在しない。まさに、戦国の魔物。
 この不穏な状況は、北条との盟約も左右した。
「武田は西上野を奪い、やがて武蔵に南下する」
 そうなれば、北条とも対立することとなる。北条氏康は上杉輝虎など季節のあしらい程度に感じていたが、武田信玄は隣国、常に脅威にさらされる危惧を覚えた。はやく関東を平定し、盤石な状態にしたい。その危惧は、数年後、現実のものとなる。
 が。
 その前に、箕輪のことを伝えなければいけない。
 
 小幡憲重・信貞父子は武田の先方衆として西上野で活動していた。これに接する安中は、武田に内通しつつ、公言せずに曖昧な態度を示していた。和田も、倉賀野も、そういう態度だ。が、事実上、武田に属することには違いない。
「はやく武田に帰属してくれまいか。のう、同士討ちは御免だ」
 西上野の諸豪族たちは、長野業盛へ武田に降伏して欲しいと再三訴えた。
 そうだろう、この地方の豪族は誰もかれもが、遠巻きに皆が縁戚のようなものだ。叔父甥であったり、従兄弟であったり、場合によっては養子による父子関係もある。妻も介せば、とにかく血縁関係も入り組んでいるのだ。
「同士討ちは御免」
 この感情は、本音であった。
 これに対し、箕輪城でも評定が交わされた。北条か武田か、そのどちらかへ付いて生き残ることが大義だという者は僅かだった。亡き長野業政の遺言がある。これが、長野家の絶対方針にされていた。
「戦って、墳墓の地に骸をさらしても仕方なし」
 それが長野家の考えだった。
 永禄八年(1565)正月八日。沼田城が武田信玄により落された。箕輪城は四方を囲まれ、完全な孤立状態となった。
 そして、翌年。武田信玄は箕輪城総攻撃の采を振った。

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