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大高城趾に行ってきました。

昨日は夕方、大高城趾までランニングしてきました。
独立丘陵で城趾に立つと見晴らしが良いし、人も少なくてよく訪れてます。サクラはすっかり散ってましたが。
桶狭間合戦の数少ない、よく遺構が残っている史跡でもあるし、二段になっている本丸部分の南西の空堀の土木量がすごくて圧倒されます。名古屋市内で住宅地の中にあって、すごいです。☺️


主郭南西の空堀。すごく深いし幅広い。


皆さんご存じと思いますが、
今川義元が三河、尾張に進出すると、織田信長方の鳴海城主山口教継が寝返って今川方に加勢し、沓掛城と大高城を手に入れました。
けど、織田信長は、鳴海城と大高城を遮る地点に砦を築き、大高城を包囲、兵糧攻めします。
大高城は今川義元の武将鵜殿長照が守っていましたが、これに苦しみ、義元は大高城に兵糧を送ることに。
この兵糧送りを命じられたのが松平元康(後の徳川家康)。元康は上手い事💦砦からの監視をかい潜って、見事に兵糧を大高城に運び入れることができました(神君兵糧入れですね)
しかし、その今川義元は、桶狭間で信長の奇襲を受け討死。それを確認した元康は駿府でなく父祖の地の岡崎城へ戻ります。

もしかしたら(神君兵糧入れの地)よりも(その先を身の振り方決める決断の地)の方が大事かもしれませんね。

北から見た本丸。二段になっています。

桶狭間古戦場伝承地の近くに彫刻家の先生さんのアトリエがあり、週一、お仕事していました。帰りはいつも古戦場や砦、城趾を寄り道していました。
先生は亡くなられたけど、この辺に来るといつも思い出します。

空堀の堀底から見上げた土橋。

しっかし、この土木量のすごい空堀はどの時代に作ったものなんだろう、とよく思います。

西端の郭。明治維新まで尾張藩志水家の館があったそうです。

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