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【謹賀新年】『ふぞろいの林檎たち』を店頭に並べたい。

あけましておめでとうございます。

昨年末から始めたばかりのnote。いよいよ今年から本格稼働ということになりそうです。これからも想いを込めて綴っていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、数日前からネパールに来ています。トップ画は、ヒマラヤ山脈の向こうから昇ってくる朝日。なんだか縁起が良さそうな写真でしょう。この旅、お気に入りの一枚です。

ネパールは初訪問。海外を放浪していた経験のある友人たちが口を揃えて「最も気に入ったのはネパール」と言っていたこともあり、いつか訪れてみたいと思っていた国のひとつでした。

初めての国を訪れるときには、多少なりとも緊張感を覚えるもの。特に車椅子での旅となれば、「空港からホテルまでスムーズに移動できるだろうか」など悩みは尽きません。予約していたホテルからは送迎の車を用意したとの連絡をもらっていたものの、無事に担当者と落ち合えるという保障などどこにもありません。

ドキドキしながらカトマンズ・トリブバン国際空港を出ると、ずらりと並ぶ迎えの男たちの中に「OTAOTAKE HIROTADA」と書かれた紙を掲げる男性の姿が。「おいおい、それじゃ“オタオタケ”だよ」と心の中でしっかりとツッコミを入れながらも彼のもとへ。よかった、ひとまずホテルまでは到着できそうだ。

ところが、様子がおかしい。「ナマステ」と呼びかけても、「ハロー」と挨拶しても、彼は「あー」とか「うー」としか口にしないのだ。どうやら、私を出迎えてくれたその彼は、聾(ろう)者のようだった。

私は面食らってしまった。出迎えの担当者、つまり私とのコミュニケーションを図ることが必要になるポジションに、まさか耳の聞こえない人が来るとは予想だにしていなかったからだ。

そんな私の戸惑いを知ってか知らずか、彼は軽妙な足取りで駐車場へと向かっていく。置いていかれることがないよう、私は慌てて車椅子のスピードを上げた。その間も、彼は「あー」とか「うー」と言いながら、ジェスチャーを交えて、段差や斜面が急になっている箇所を知らせてくれた。

ほんの数分で駐車場に到着。そこにはホテルまで向かう車両とドライバーが待機してくれていた。出迎えの彼は、ここで御役御免。しっかりチップまで請求された。役目を果たした彼は、またひょこひょこと同じ足取りで空港の方面へ歩き出していった。

私は、なんだか狐につままれたような心持ちだった。そして、ホテルへと向かう車内の後部座席で揺られながら、私自身、なぜ「狐につままれたような心持ち」になっているのかを考えた。そうだ、この感覚、つい数時間前にも体感したばかりだったではないか。

日本からネパールへは直行便がない。私はバンコク・スワンナプーム国際空港を乗り継ぎ地に選んだ。乗り継ぎ時間が5時間ほどあったため、途中、ミネラルウォーターとフルーツを買おうと売店に立ち寄った。商品を手に取ってレジに向かうと、大柄な女性がそれを受け取り、レジを打った。

「157バーツになります」

その野太い声にギョッとした私は、思わずその店員の顔をじっと見つめてしまった。彼女は、おそらくは“元”男子だった。いわゆるトランスジェンダーなのだろうと思う。そして、私はその瞬間から激しい自己嫌悪に苛まれた。なぜ私はギョッとしてしまったのだろうか、と。

客が代金を支払い、従業員が商品を手渡す。たったこれだけのやりとりに、性別など関係があるだろうか。彼女にしてみれば日常茶飯事なのかもしれないし、私の反応など気にも留めていないかもしれない。しかし、こうした無遠慮な視線が“日常茶飯事”になるまで、彼女はどれだけその心を消耗させてきたのだろうか。

ネパールの案内人も、空港の店員も、なんら仕事上の落ち度があったわけではない。私が「狐につままれたような」心境になったり、「ギョッとしたり」しなければ、それこそどこにでもありふれた日常だった。それが、悔しかったし、申し訳なかった。

私が子どもの頃、『ふぞろいの林檎たち』というドラマがヒットしていた。いわゆる“落ちこぼれ”と言われる大学生たちにスポットを当てた群像劇だ。しかし、「ふぞろいの林檎」にスポットが当たるのは、あくまでドラマの中の話。現実の社会でスポットが当たるのは、やっぱり赤くて、まあるくて、ツヤツヤして、傷ひとつない林檎たちなのだ。

特に日本ではその傾向が強いのではないだろうか。スーパーなどの店頭に並ぶのは、形もきれいに整ったツヤツヤの商品ばかり。もちろん、傷なんてついちゃいない。じゃあ、そこから外れてしまった“ふぞろい品”はというと、「訳あり商品」なんて名前がつけられて格安処分される。味は、ちっとも変わらないのに。

そうした傾向は、残念ながら私たち人間にも適用されてしまっているように思われる。性格や能力といった“中身”を見る前に、まずは「まわりの林檎とおんなじか」で判断される。もしも、「まわりの林檎とおんなじではない」と判断されてしまったら、やはり“訳あり商品”として社会の隅にひっそりと追いやられてしまう。私たち人間も、本物の林檎たちと同じような憂き目に遭ってしまうのが現状だ。

聾者が案内人を務めたっていい。トランスジェンダーが店員だっていい。いわゆる“ふぞろい品”が社会の片隅に追いやられることなく、堂々と前線で活躍できる社会のほうが魅力的ではないだろうか。

ふぞろいの林檎たちが店頭に並ぶ社会へ

これが、2019年の私のテーマになりそうです。いや、もしかしたら生涯通じてのテーマなのかもしれませんね。新年一発目から、ずいぶん長くなってしまいました。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

                     平成最大の“訳あり商品”より


【追記】少しずつnoteの仕組みがわかってきたのですが、無料公開にしていても「サポート」というシステムで書き手に寄付ができるようになっているのですね。前作、前々作に対してサポートいただいた方々、本当にありがとうございました。

そして自分でも驚いたのですが、金額の多寡にかかわらず、サポートをいただけると、こんなにも書くことへのモチベーションが上がるものなのですね。みなさん、ぜひお年玉だと思ってこの記事にサポートしてやってください。ワタクシ、尻尾を振って喜びます(あ、戌年は終わったんだった…)。

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