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連載小説『ヒゲとナプキン』 #10

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「今週もご苦労さんだったな。そろそろ切り上げて飲みにでも行くか!」

 ハリさんの声に、イツキは軽い電流を流されたかのようにビクッと背筋を伸ばした。

 タクヤに連れられて行った合コンで、同じ前橋出身の女性と遭遇してから一週間が経つ。彼女がイツキと同級生に当たる兄・克彦に確認すれば、イツキが“女性だった”過去が明るみになってしまう。

 驚いた彼女は、そのことを悪気なくタクヤに伝えるだろう。
 それを聞いたタクヤは、そのことを悪気なくハリさんに伝えるだろう。
 それを知ったハリさんは、そのことを悪気なく同僚たちに伝えるだろう。

「それをアウティングと呼ぶんだよ……」

 あの日以来、イツキは職場に行くのが怖くなった。誰もが自分の噂話をしているのではないか。誰もが自分を嘲笑っているのではないか。この一週間、いつも以上に視線を浴びせられているように感じる。気づけば同僚のちょっとした話し声にも敏感になっていた。

 そこに受けた上司からの誘い。さて、どんな理由をつけて断ろうかと考えているうちに、あっけなくタクヤが答えを出してしまった。

「お、いいっすね。イツキも行くだろ?」「おう」

 つい、いつもの習性で返事をしてしまった自分が恨めしかった。このタイミングで、「あ、やばい。用事があることをすっかり忘れました」などと言い出せるような性格だったら、もう少し気楽な人生を送れていたかもしれない。そんなことを考えている間にも、ハリさんとタクヤはこの後、どこに飲みに行くかについて楽しげに話を進めていた。自分のすぐそばで交わされている会話なのに、そこにはガラス一枚を隔てているような感覚があった。

 ハリさん行きつけの焼鳥屋のボックス席に腰を落ち着かせたのは、それから三十分も経たないうちだった。生ビールが運ばれてきたタイミングで、シーザーサラダとかぼちゃの煮付け、それから串の盛り合わせを注文する。

「はーい、それじゃあお疲れさん!」

 ハリさんのかけ声で、三人がガチンとジョッキを打ち鳴らす。仕事を終えた解放感に満ちた肉体に流し込むビールがどれだけ至福の瞬間をもたらしてくれるかをイツキはこの数年で学んだはずだったが、この日ばかりはその感情がアンインストールされてしまっているようだった。目の前の二人が浮かべる満面の笑みを交互に見比べながら、イツキは見よう見まねで笑顔らしき表情を作りあげた。

 じきに料理が運ばれてきた。タクヤが三人分のシーザーサラダを取り分ける。ハリさんはよほど待ちきれなかったのか、大皿に箸を伸ばしてかぼちゃを突つき始めている。イツキに食欲などあるはずもなかった。

 タクヤが小皿に盛ったサラダをイツキに向かって差し出した。それを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、タクヤは驚くほど無邪気な顔で悪魔のようなセリフを言い放った。

「なあ、おまえオンナだったんだってな」

「んどぅっふ」

 子どもの頃によく観ていたお笑い番組のワンシーンのように、イツキは勢いよくビールを噴射した。

「きったねえ」

「おい、おまえ何やってるんだよ」

 二人から一斉に非難を浴びる。その声が、どこか遠くから聞こえる気がする。吹き出したビールがハリさんのスーツにかかったのだろうか。正面に座るふくよかな上司は、しきりにおしぼりで胸元を拭っている。

 謝らなきゃ。声が出ない。
 ひとまずジョッキを置こう。体が動かない。

 またしても遠くから、タクヤが店員に新しいおしぼりを頼んでいる声が聞こえる。ハリさんも、タクヤも、店員も、となりのテーブルに陣取る客も、すべてがスローモーションのように見える。

 そういえば、人は死を迎えるとき、思い出が走馬灯のように駆け巡ると聞いたことがある。いったい自分にはどんな思い出が蘇るのだろう。ああ、自分は死ぬわけではなかった。いや、ある意味、死を迎えるのかもしれない。もう職場にはいられなくなる。この社会にいられなくなる。やっと手に入れたはずの場所なのに。この社会には、やっぱり自分の居場所などないのだろうか——。

「イツキ。おい、イツキってば」

 タクヤの声で、ようやく正気に戻った。

「ああ、ごめんなさい……」

 それがビールを吹き出してしまったことへの謝罪なのか、これまでずっと性別を隠し続けてきたことへの謝罪なのか、イツキは自分でもよくわからなかった。

 タクヤが店員の持ってきた新しいおしぼりでテーブルの上を拭きながら、ちらりとイツキに視線を送った。

「それにしてもビックリしたぜ」

「ごめん……なさい」

「はっ、何が?」

 タクヤはテーブルを拭く手を止めて、食い入るようにイツキの顔を見つめた。

「いや、だから、その……元はオンナだったというか、うーん、気持ちはもともとオトコだったんだけど、でも生まれつきの肉体は女性で……」

 イツキが言葉を探していると、ようやくスーツの染みに見切りをつけたハリさんが割り込んできた。

「ほら、あれだろ。いま流行りのBLTとかいう」
「ハリさん、惜しいっす。それ、サンドイッチ。正しくは、“LGBT”っすよ」

 ニュースで聞きかじった言葉を部下に訂正されたハリさんは、手元のジョッキをぐいと持ち上げ、喉を鳴らして照れ臭さをごまかした。

「それに、あれっすよ。べつに流行ってるわけじゃなくて、いままで知られてなかったことがようやく俺らにも知られるようになったって感じじゃないっすかね。違うの?」

 いきなりタクヤから話を振られ、イツキは慌てて返事をした。

「そそそそ、そう。そういう感じ」

 もしも平静でいられたなら、LGBTについて、トランスジェンダーについて、二人にきちんと説明することもできたのだろう。だが、ある程度は覚悟していたこととはいえ、想定していた以上に大きな砲撃を受けて転覆寸前のイツキには、タクヤのひとまずの説明に同意を示すことだけで精一杯だった。

「でもさあ、なんかごめんな」

 タクヤが発した言葉の意味がわからず、イツキは思わず聞き返した。

「いや、おまえもしんどかっただろ。何というか、察してやれなくて悪かったな」

 イツキはそれでもタクヤの意図するところを理解できず、同僚の言葉を反芻した。

 ずっと性別を隠していた。その嘘がついにバレた。悪気があったわけではないが、結果的には上司や同僚を裏切り続けてきた。男だと思って接してきた人間が、じつは肉体的には女だった。そんな安っぽい小説の設定みたいな状況が明るみになれば、自分は間違いなく罵られ、嘲笑され、そして追放されるものだと思っていた。

 だが、タクヤは目の前で謝っている。「察してやれなくて悪かった」とまで言ってくれている。これは夢なのか、現実なのか。ビールひと口で、そこまで酔うはずもない。頼むから現実であってくれ——。

 いまだにLGBTを正確に理解できていないハリさんが、もどかしそうに切り出した。

「つまり、その……おまえは本当はオンナだけど、これまで通りオトコとして扱うってことでいいんだな?」

 イツキとしては「本当はオンナ」という物言いには引っかかりがあったが、これ以上、ハリさんが理解できるとも思えず、ひとまず「これまで通りでお願いします」と返答した。

 その言葉を聞いたハリさんは、やけに暑苦しい責任感をにじませて右の拳を振り上げた。

「ようし、それでは本日より、山本イツキをあらためて後輩男子として迎え入れる。おまえは男だ。誰が何と言おうが男だ。なんだかんだ言ってくるやつがいたら、俺がしばき倒してやるからな」

「ハリさんまで……ありがとうございます」

 イツキは手にしていた箸をテーブルに置き、両手を合わせて上司に向かって頭を下げた。

「よし、じゃあ、あらためてヤマモトの男子チーム入団を祝して、この後は風俗に行くぞ。おい、ヤマモト。おまえヘルスがいいか、ピンサロがいいか言ってみろ。今日ばかりは俺がおごってやるから」

 イツキはちらりとタクヤに視線を送ったが、細身の同僚はニヤニヤするばかりで一向に助け舟を出してくれる気配はない。

「いや、ハリさん。その……お気持ちはうれしいんですけど、僕は……チンコがあるわけではないので、放出というか、そういう場所に行っても出すべきものがないんですよ」

「ん、どういうことだ? おまえは男になったんじゃないのか?」

 少しだけ酔いが回ってきた上司に、これ以上の理解を求めるのはどうにも難しそうだった。ならば、違う手段で目的地を回避するしかない。

「ハリさん、僕、うれしいっす。今日はとことん飲みましょう」

 そう言って、手元のジョッキを高々と持ち上げた。三人のジョッキが、再びガチンと打ち鳴らされた。

「すみませーん、生をもう三杯お願いします」

 相変わらず気の利くタクヤが店員を呼ぶ。その声が、今度は遠くなどではなく、近くからはっきりと聞こえた。


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※今回、トップ画を作成してくださったのは、第7話に引き続き、澤田麻由さんです。澤田さん、ありがとうございました! 

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