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連載小説『ヒゲとナプキン』 #12

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 イツキはふたつのスマホを握りしめたまま、冷たくなったフローリングの床にしゃがみ込んだ。あれだけ全身を駆け巡っていたはずのアルコールは、すっかり抜けきっていた。

 カタン。

 手元から滑り落ちたスマホが床を叩く。思ったよりも大きな音に思わず背筋を伸ばしたイツキは、サトカが起きてしまわないかと慌ててソファの上に視線を向けた。先ほどまで半開きだった口は、いつの間にか閉じられている。まるで微笑みを浮かべているかのような穏やかな寝顔は、間違いなくいつものサトカであるはずなのに、どこかサトカではない別人のようにも見えた。

 イツキは背中を丸め、両膝を抱え込んだ。体育座りなど何年ぶりにしただろうか。そういえば、この体育座りを関西では「三角座り」と呼ぶらしいとか、愛知や福岡では「体操座り」と呼ぶらしいとか、この上なくどうでもいい情報がこんなタイミングで頭に浮かんでくることに、イツキは自分でも可笑しくなって思わず笑みをこぼした。

 なのに、頬は濡れていた。人差し指でそれを拭う。イツキは濡れた指先をじっと見つめた。これはどういう涙なのだろう。悲しいのか。悔しいのか。いや、怖いのだ。

 これまでずっと一人で生きてきた。ジンとの出会いによって少しは孤独から解放されたが、サトカと出会い、サトカと暮らし、サトカと愛しあうことで、ようやくこの社会に自分の居場所を見つけることができた気がしていた。初めて誰かに必要とされ、初めてこの社会に生きていてもいいのだと感じることができた。

 そのサトカが虚像だった——となれば、すべてが覆される。自分を必要としてくれる人など誰もいない。自分を愛してくれる人など誰もいない。やはり、この社会に自分の居場所など存在しないのか。

 また深い孤独へと引き戻される恐怖に、イツキは体を打ち震わせた。両腕で抱えたスーツの膝部分に、ぽとり、ぽとりと雫が落ちては黒い染みをつくる。いつしかイツキは子どものように声をあげて泣いていた。

「どうしたの?」

 ふと耳に届いたサトカの声に、イツキはゆっくりと顔を上げた。そこにはソファから身を起こしたサトカの顔があった。泣きはらした顔と寝ぼけ眼が、たがいに見つめあう。

 詮索するのはやめておこう。
 何も見なかったことにしよう。
 何も聞かないようにしよう。

 それが結局は自分を守ることになるのだと言い聞かせた。だが、勝手に口が動き出す。

「アツシって誰?」

「えっ」

「ごめん、見ちゃった……。アツシって誰?」

 サトカは一瞬にして真顔になった。右手でおもむろに前髪をかきあげる。特に狼狽した様子を見せることもなく、ただ黙ってイツキの顔を見つめている。

 サトカの言葉をひたすら待った。だが、彼女は口を開こうとしない。このまま夜が明けてしまうのではないかと思うほど長い静寂が、冷蔵庫のように冷えきったリビングを包んでいた。

「俺に隠れて、何をコソコソやってんだよ」

 喉元まで出かかった言葉を何度も呑み込んだ。それをぶつけたら、すべてが砕け散る気がしていた。まだ裏切られたと決まったわけではない。いまにもサトカが「なあに誤解してんのよ!」と笑顔で否定してくれるかもしれない。そうだよ。そうに決まってる。ねえ、サトカ。早く誤解を解いてよ。頼むから嘘だと言ってよ。

「ごめん……」

 サトカの口から、いちばん聞きたくない言葉がこぼれ落ちた。突如として視界がブラックアウトして何も見えなくなる。光すら感じることができない。ただ指先まで冷えきった身体が小刻みに震えていることだけは、かろうじて感じ取ることができた。

 二度目の沈黙が訪れる。深夜のリビングを支配する静寂に、イツキの乱れた息遣いがかすかに響いていた。

 ようやく覚悟を決めたイツキは、スマホの会話を覗き見してしまったときから、ずっと心の中で堰き止めていた疑問をサトカにぶつけようとした。

「なんで……」

 目を開くと、サトカの頬には涙が伝っていた。

「えっ、なんで……」

 さっき聞こうとした「なんで」を、たったいま感じた「なんで」が追い抜いて口を突く。

「サトカ、なんで泣いてるの?」

「私さあ……もう三十だよ」

「うん」

「私との未来、どう考えてるの?」

「えっ」

「あなたとの未来、どう考えたらいいの?」

 そう言い終わると、サトカは声を上げて泣きじゃくった。イツキは目の前で何が起こっているのかをすぐには理解できずにいたが、反射的にソファの上にうずくまるサトカに歩み寄ると、その身体を抱きしめていた。腕の中でサトカの体温を感じながら、イツキは彼女の言葉に耳を傾けた。

「私だってさ、イツキが好きだよ……ずっと一緒にいたいよ。でもさ、同級生とかどんどん結婚してって。子どもが産まれたとか幸せそうな写真、Facebookとかでもちょくちょく見かけるようになって」

「うん」

「そういうの、ホントなら『おめでとう』って言ってあげたいじゃん。いや、言うよ。もちろん、言うよ。でも、心から言えてないの。心は泣いてるの。なんで私だけ、って。なんで私にはフツーの幸せが許されないの、って」

「うん……ごめん」

「謝らないで。イツキは何も悪くないから。イツキだって、選んでこのカラダに生まれてきたわけじゃない。わかってるよ、そんなこと。その上で私はイツキを選んだの。全部わかってる。でも……ダメなの」

「うん……」

 泣きじゃくるサトカの頭をやさしく撫でながら、イツキは強く下唇を噛み締めていた。

 乳房切除の手術を受けてから、イツキは男性として生きてきた。ヒゲを生やし、スーツで身を固め、サラリーマンとして会社勤めをしてきた。それでも、戸籍上は女性だった。いくら「世間の偏見を乗り越えた恋愛」だと美談に仕立てたところで、あくまで法律上は「女性」と「女性」。結婚は望むべくもなかった。

 みずからがトランスジェンダーであるという境遇を受け入れた時点で、イツキは自分の人生から「結婚」というイベントは削除したつもりでいた。サトカというパートナーと出会い、かすかに結婚の二文字が頭に浮かんだ時期もあった。だが、それは「いったいどうやって」という疑問とともに吹き飛ばされるほどの脆弱な願望でしかなかった。

 だが、サトカはどうだろう。本来ならすぐそこに「結婚」という選択肢が用意されている身の上だ。どんな相手を選ぼうが、結婚へのハードルが果てしなく高いイツキとは事情が異なる。イツキ以外の男性を選べば、いますぐにでも結婚できるのだ。

 出会って二年になる。サトカも三十代を迎えた。将来的なことを話し合うべき時期なのだと頭では理解していたが、視線を少し先に向けると、そこにはいつだって鉛色の分厚い雲が立ち込めているのが見えた。そのたびに目を逸らしてきたのは、イツキの弱さに他ならなかった。

 暴風雨が待ち受けているだろう未来に目を向けず、ただひたすら「いま」を貪り続けた結果がサトカの涙につながっているのだと思うと、不実だったのは他の男と逢瀬を重ねていたサトカではなく、自分のほうだったのではないかと胸を締めつけられた。

「ごめん……」

 イツキは自分の胸からそっとサトカの身体を引き離すと、よろめきながら玄関へと向かっていった。


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