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書くことから逃げていた頃の話。


ちょっと恥ずかしいけど書いてみます。

20代のある頃、わたしは仕事でたくさん取材をして原稿を書いていた一方で、もともと好きだった「自分のことを書く」ということをほとんどしなくなった。

忙しくて時間がなかったとか、仕事で書いていたからお腹いっぱいだったとか、人生が順調であまり書きたい意欲がなかったとか、それっぽい理由はいくらでも見つかるし、どれもほんとうだけど、いちばん正直に言ってしまえば、こわかったからだ。

書くのが仕事なのに「なんだその程度か」と思われることも。10代の頃に文章で大きな賞をたくさんもらってしまったから、そこがピークだったんだ、所詮子どもレベルだったねと思われるんじゃないかってことも。書店に行けば、ネットをひらけば、自分と同世代のものすごく文才のあふれるおもしろい人たちが活躍していて、そんな人たちとの力の差を認めないといけないことも。

20代の頃にエッセイのコンテストに応募したことがあったのだけど、びっくりするほど自分の気持ちが書けなくて、つまらないものができあがって、あっさり落選して、凹んで、そのあたりから。わたしはこう考えるようになった。

書かないでいれば、書けないことにはならないんじゃないか。


そう、わたしはこじらせていた!自分のことも書けるけど書かないだけだよ、という逃げ道を残しておけば、ちっぽけなプライドを、たったひとつの拠り所を、守れる気がした。文章を書くのが好きだからこそ、書けない自分を認めることがこわかった。

だから、自分のことはしばらく書いていなかった。たまに日記を書いてもメモ程度で他人に見せることはせず。ときどき友人が見るSNSでつぶやく程度。noteも一度、今とは違う名前で1記事だけ書いたけど、すぐやめた。完全な逃げ。今書きながら恥ずかしくなってくるほど、かっこわるい。

つべこべ言わずに、ひたすら書けって言ってやりたい。たとえつまらないものができても、ライターなのにその程度かと思われても、昔の文章の方がよかったねって言われても、コンテストで落選が続いても、それでも書けって言ってやりたい。


それしか、「書ける人」になる方法はなかったのに。
わたしはほんとうは、書けない人になりたくないんじゃなくて、書ける人になりたいはずなのに。仕事の原稿だけじゃなくて、自分の思いを体験を自分の言葉で書ききれる人になりたいはずなのに。


こうやって、ちょっと偉そうに過去の自分に言えるのは、わたしが1年間「自分のことを書く」ということに向き合ってやってきたからだ。noteだって続いたし、それ以外でも作品を作った。やっぱり、書くしかなかったんだよ。書けるようになるには。ほら、1年前よりはずっと、言葉にできるようになった。来年はまた、わたしにとってあたらしいチャレンジが待っている。持ち前の心配性を存分に発揮して、今はまだ不安8割、たのしみ2割。でも、これは自分の気持ちを言葉にし続けたからめぐってきたチャンス。表現することから逃げないで、表現することをおそれないでやっていきたい。


おわり

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