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番外編:対話実践をギュッと見ていると…。

投稿三回目にして恐縮なのですが。

定例で集まり行っているオープンダイアローグの勉強会で、実践中の対話のを見る役をやり、終わった途端に嗚咽してしまうという体験をしました。

その場でも、なんで泣き出したのかわかる限りで話してみたのですが、その時はまだ自分でもよくわからなかったのが本当の所で。
なので、なにがどうしてそんな事になったのか、対話を観ることで自分に何が起きたのかを書き出して整理したモノと一緒に書いてみようと思います。


2024年4月13日(土)
場所:渋谷インクルーシブシティセンター〈アイリス〉第三会議室

3人での型にそったオープンダイアローグ

そこにいた人数は5人。
ひとり話す人、ふたりでリフレクティングのオープンダイアローグ。
そしてもうふたりはスーパーバイザーとしてその3人を見るなり感じるなり。

話し手が話し、聴き手がリフレクティング、それを受けて話し手がもう一度話したいことを話す。
そしてその話しを受けて、もう一度聴き手がリフレクティングをしている辺りで、その実践者たちの姿やコトバが、不快ではないのですが、違和感というのか「なんだこれ?」と何か初めてのモノを見るときのような感覚になりました。

スーパーバイザーはもうひとりいる。そしてここはどう感じても良い安心安全な場所。

ならばこのままこの不思議な感覚に乗ってみることにしました。

非日常な場所で姿で

大きな窓があり、そこまで広くもない部屋、時間的に外の色も赤みが出てきて部屋も少し赤くて天気がいいので暖かい。
空間に背中(話し手)が見えて、その背中の主の事を話すふたりがいる。
非日常すぎる風景。

既視感があるのですが、 非日常なので多分創作物

どこかでこんな絵を見たことあるような…

なので、絵のように「ギュっ」と観てみることにします。

改めてなんの絵なのかの鑑賞から

いろんな表情をして、身体も動いたり止まったり。
話し手もここからは背中しか見えないけどかなり饒舌に動いている。背中で語る、想わせる。

ふとした沈黙の時もいわゆるフリーズ状態ではなくて、目も身体も動いていて、何より無音だけどコトバがそこには残っている。
言葉を言葉で潰すのではなく、コトバをそこに置く、重なっていくから前のコトバは消されずにずっとそこにいられる。

「こんな気がした」という、妄想の世界ですが…

絵の中の登場人物もギュッと観てみると

かけあみ:マンガの技法。線の重ね具合で明暗だけじゃなくて凹凸も描ける

一言ですべてを仕留める悩み相談の専門家みたいな人はいない事に改めて気づき、出会ったのはこないだに思える2年前。
ギューッと丸めると一緒にいたのは100時間もなくて。
それでこんなに深い話をしているし、この人たちには聴いてほしいいぐらいに思うし。

舞台は

とにかく安全安心、居心地が良い。


…と、気付きが集まってきて

そう強く強く感じたのでした。

この「美しい」とは?

最早 話している内容への集中はどこかに行っています

を更に掘り下げたくなり観察を続けます。

まず、

バチッと一言で終えられないから、そこにコトバが重なっていく。重なったコトバからコトバが生まれる。
整えたり磨いてからじゃなくて、生まれたままのコトバだからなんかホカホカしてる(気がする)。

それと…

話している三人の真ん中に焚き火となんかでっかい白い犬が寝てる妄想レイヤーをかぶせても違和感なし。

クールではない。
皆の心の位置や体勢もあちこち動いている。スマート皆無。
だからの大切で尊くて贅沢な空間に思えます。

そして、ここでもこれが

人が人を想っての行動は美しい としか

こう足されました。

…と、見て聴いて考えていると、セッションが終わり、絵から抜け出るというか、現実に戻ってきまして、スーパーバイザーとして気づきなど重ねる段になって、安心したのか、見て聴いての美しさへの感動が極まったのか、気持ちがゴバっと溢れてきて涙が出るのを追い抜いて過呼吸みたいに嗚咽するみたいな状態になってしまったのでした。


以上、オープンダイアログの勉強会で、対話の中にも参加してない奴が突然泣き出してしまった事について書いてみないか?と言ってもらったので、自分なりに顛末というか何が自分の内で起きていたのかを書いてみました。

元々生まれ育ちのあれこれで、見えないものとか無いものと話しをしたり見たりが得意な妄想癖は強い方ではあるのですが、もしこのオープンダイアローグにうまい回し役や、問題を一撃で仕留めたがる人がいたら、絶対にこんな冒険とも思える面白い鑑賞はできなかったと思います。(成)

全体はこんな風なまとめでした

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