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【SS】また春が来た

「春の夢書房」の看板が高架下に掲げられた。ああ、春が来たんだな。今年はどんな本があるだろうか。春だけ開店する本屋「春の夢書房」は本好きにとっておきの夢を見せてくれる。春の終わりには消えてしまう儚いけれど幸せな夢を。

毎年3月下旬から5月の上旬まで駅の高架下にある小さな隙間を利用して開店する本屋が「春の夢書房」だ。この店の店主は60代くらいのおじさんで、一人で店番をしている。店主は本を選ぶ人を横目にいつも読書にふけっている。まるで自分だけの世界に入り込んでいるようで、近寄りがたい空気を漂わせていた。
この本屋はいわゆるベストセラーや新刊本はない。毎週1,2回中身を入れ替える本棚の本は本好きの心をくすぐる作品が多い。だからだろうか。持ってきた本は開店期間中にすべて売り切ってしまう。その後店主はどこかへ行ってしまい、本屋があったなんて信じられないくらい以前の姿に戻ってしまう。その書店名通り春の夢のようだ。

「実店舗を持たないの?」
いつだったか店主に聞いたことがある。
「俺は自分の好きな本しか売りたくない。」
店主は本から目を離さず言った。
「実店舗を持つと商売になる。商売になると売りたくない本も人気があれば売らなきゃいけない。それがイヤだ。」
店主の言葉が何となく駄々をこねている子供のようで思わず笑ってしまった。
「日本全国を回って本を仕入れてそれをこの場所で売る。その形態が俺には合っているのさ。」
店主は相変わらず本から目を離さない。
「じゃあ、夏から冬は本を仕入れに回っているわけですか?」
「そう。仕入れ回って売れるだけの本が集まるのが春。春に一瞬だけ現れるから「春の夢書房」というわけさ。」
店主はようやく本から顔を上げてにやりと笑った。今度はいたずらっ子のような笑顔だった。

看板を見つけて数日後の会社帰りに「春の夢書房」によってみた。
「よう。今年は来るのが遅かったじゃないか。」
店主は相変わらず本棚のそばで本を読んでいた。
「ごめんなさい。仕事が忙しくて。」
「あぁ、やだやだ。これだから会社勤めは嫌なんだ。」
ふざけてうんざりするような顔を見せた店主。でもこれが案外本音なのかもしれない、と思った。そしてこの店は店主自身の夢なのかもしれない。ようやく叶えた夢。誰にも縛られず、好きな本だけを集めて好きな期間だけ店を開く。決して楽なことばかりではないだろうが、店主からは苦労よりも夢を叶えた喜びが漂っていた。
「でもちょうどいいや。今週は女性が好きそうな本が多いぞ。」
「本当?」
「あんたの好きそうなのもあるぞ。」
店主の言葉に私は本棚へ目を向けた。この本棚に私の夢もあるような気がした。


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夢のように現れて夢のように消えていく本屋さんをイメージしました。こんな本屋さんが現れたら私も通うだろうな。

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