映画「JOKER」感想(2019年10月20日収録)

パンフレット中で、アーサーが「一体いつ」ジョーカーになったのか、という疑問について監督のコメントが載っていた。明言はされていなかった。しかし、判断は観客に委ねる、というのではなく、単に上手く言語化できていないだけの気がした。

もともと、わたしはジョーカーというキャラクターについては強い思い入れがある。彼は完全なる「愉快犯」だ。自身の愉悦というよりも、人類種の根源的な欲望である「矛盾」を晴らす、ということ、答のない問いを投げるということに特化した道化だ。
さまざまな矛盾を抱えたバットマンに対しては、彼の自我の根源である「自分と犯罪者の間には違いがある(はずだ)」というものを突き崩すためにさまざまなちょっかいをかける。それはバットマンに対する憎しみではない。ほら、みんな同じだよ、という声かけのちょっと過激なやつである。
わたしたちの知るジョーカーは、しばしばバットマンに自らの殺害をけしかける。不殺の意思に対し、自分を殺しておかないと「間違いなくこれからも殺し続ける」と宣言する。これはとてもシンプルな「殺すな」に対する問いだ。(ちなみに毎回、バットマンはジョーカーを殺さない。脱獄後のジョーカーの再犯に対する責任は、厳密には「脱獄を許した施設」ではあるがバットマンにないとは言い切れない)

「殺さない、というのは、果たしてほんとうに命を大事にしてることなのかな?」

それは悪意ではない。ただの意地悪な問いであり、選択を強制するために犯罪が、暴力が存在する。ジョーカーに関しては、人間(自身も含む)を傷つけることは決して目的ではなく、徹底的に手段のひとつでしかない。そしてそれは、実利や怨恨を目的としない。目的は「問い」だ。
その意味では「ダークナイト」でヒース・レジャー氏の演じたジョーカーは素晴らしくジョーカーの本質を捉えていたと言える。特にフェアネス、自身も他人も区別しない、徹底したバットマンへの愛着は素晴らしかった。

そして、今回の映画「JOKER」では、厳密にはジョーカーというキャラクターは出てこない。ジョーカーという概念の発生についての物語だと感じた。その意味では異端や独自解釈のジョーカーについての話ではなく、結構しっかりと「ジョーカーという概念」について理解してくれていると思っている。
人間社会由来の倫理観が存在せず、(自分も含め)人命や人の苦痛といったものを重視しないのがジョーカーだ。自身の保身などもなく、純粋な論理矛盾を暴き出す装置。キャラクターはあるが、性格は存在しない。常に分裂し、一貫しない。もともとジョーカーとは非常に概念的な存在であると言える。

そして、アーサーにはそんな側面はない。病や妄想もあるが、きちんとした性格のある一人の人間だ。そして、これはアーサーがジョーカーに変貌する物語ではない。そう捉えるには、アーサーの言動はあまりにも違和感がある。ジョーカーとアーサーは不連続であり、明滅もしていない。結論から言うと、わたしはアーサーが「いなくなってしまった」だけだと考えている。
本作において、ジョーカーは二度生まれ、三度目にはスクリーンを出てしまったと感じている。アーサーがジョーカーに変わったのではないと感じる。ジョーカーはアーサーであり、アーサーはジョーカーではない。

違和感の正体はそこだ。

アーサーとジョーカーは不連続だ。これは間違いのないことだ。ショーに出る前、最後のアパートのシーンに見られる異様な二面性。そして、これは未来のジョーカーのやり方だ、と確信させる凄絶なシーンだった。通り過ぎる矮人を脅かす仕草。笑顔。わたしたちが知っているジョーカーの片鱗がそこにはあった。しかし、その根底には人間の顔がある。

最初にジョーカーが生まれたのはいつか。

少し遡って地下鉄のシーン。ジョーカーは名前のない怪物、ピエロ顔のヴィジランテという「概念」として、肉体を持たずに生まれた。
その誕生は、地下鉄での事件のニュースが流れた朝だ。顔も、名前も、その性格さえも持たない存在として生まれたのがジョーカーだ。のちにいくつものコミックスで受肉したジョーカーたちに一貫性がないのは、至極当然のことと言える。ジョーカーとは概念、肉を持たずに生まれたものであるから。
ゴッサムの住人たちの中にある、欲望や願望を体現したもの。それらはアーサー・フレックという一個人とは紐づけられずに生まれた。アーサーの中にもその概念自体は巣食っている。
だからこれは肉を持たず、聴衆、群衆の中で育った「ジョーカーという概念」を、引き受けてしまったアーサーという男の物語だ。
たしかにそれを悲劇ととるのか、喜劇ととるのかは観客に委ねられている。

描かれているのは、アイコンとしてのジョーカーだ。哄笑し、震える。ジョーカーが持つ要素とあまりにも相性の良い、善良な、かわいそうなハッピー。かわいそうなアーサー。
地下鉄の車内で彼の拳銃が火を噴き、ジョーカーの元になる概念が生まれた。ピエロ姿のヴィジランテ。あるいはヴィラン。あるいはヒーロー。

この奇妙な連環。

原作を持つ映画の不思議な魅力だとわたしは思う。エヴァンゲリオン新劇場版でも観たあの感覚。
この先の展開を、起こる出来事を、我々は「知らないのに知っている」。
アーサーが、やがて道化のメイクをして、髪を緑に染めることを我々は「知らないのに知っている」。
この時点ではジョーカーというアイコンは存在していないし、アーサーがジョーカーというアイコンになる瞬間を描かれた映画のはずなのに、我々はその「アイコンの形を知っている」。

話を戻そう。

ジョーカーという概念は、人々の噂話の中で、善悪混じった概念として、名前もつけられないまま生まれた。それは名前をつけられることを望んでいるわけではない。なかった。人格のないものであるから当然と言えば当然である。
人々の噂の中で正体不明のキャラクターは祭り上げられ、アイコンとなってゆく。
名前のない概念だったジョーカーの二度目の誕生、それはアーサーが「ジョーカー」と名乗った瞬間である。
ジョーカーは、その騒動を引き起こした本人という偶像によって現実世界に焦点を結んだ。名前を手に入れ、そしてその誕生の発端となった男の身体に受肉してしまった。
それまでたくさんの人の中にあり、それぞれの善悪に沿って顔を覗かせていた「ピエロ姿のヴィジランテ」は、既に殺人を自らの意思によって行う男の肉体で現界、固定、定着してしまった。

ジョーカーはアーサーであり、アーサーはジョーカーではない。その奇妙な同居は、幾百ものジョーカーの姿の通りである。
ジョーカーは本来、群衆の中にあり、形を持たぬべきだったアイコンだ。それを人の身で降ろしてしまったアーサー。かわいそうなハッピー。
それは後戻りのできない旅であった。
地下鉄のシーン以来、後戻りのできない旅を始めてしまったから、アーサーはジョーカーになってしまった。正確には、アーサーは塗りつぶされて消えてしまったのだ。

アーサーは、アーサーとして殺人を続けた。愛、憎、人間としてのそれによって彼は殺人を続けた。どの殺人も、すべてそれは「人間の仕業」である。いかなる手段でもない。殺すことが明確な目的だ。わたしたちの知るジョーカーからは遠い。それは人間であるアーサー・フレックが犯した罪である。
その境があやふやになったのは、カメラの前での告白のシーンだとわたしは思う。アーサーは、アーサーと名乗ることを止め、ジョーカーと名乗った。そしてゴッサム市民の持つ「ジョーカーという概念」を受け止めてしまったのだ。
一個人の悲しみ、怒り、無念、そういったものをジョーカーという概念が塗りつぶしてしまった。ジョーカーという名を借りてアーサーの思いを語るうち、やがて、アーサーは消えてしまった。

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