見出し画像

あたたかいはなし

例えば猫と接するとき、「粗相をしない対策」とか、「猫に嫌われない方法」とか、そんなことをネットで調べて答えを探そうとする。やって効果がなくても情報は無数にあるので、ひたすらに検索をつづける。

このとき猫と私は、その時間を共有していない。私は目の前に「リアルな猫」がいるにもかかわらず、頭の中の「猫の虚像」と安易に入手した情報とを照らし合わせて作業する。

皮肉なことにこの一連の作業は、猫とさらにつながろうとするためのものなのだが。つい先ほども生身の猫を差し置いて、私は試行錯誤していたのだった。

思えば人間と接するときも、同じことをやっている。「ほんとうのその人」を差し置いて、「頭の中のその人」とありふれた一般論とを比較検討する。「答え」らしきものに突き当たると、安堵したり分かったような気持ちになる。照らし合わせるものは過去の経験だったり本だったり色々だが、やっていることは同じことだ。

さらにタチの悪いことに、そういう自分の気持ちが裏切られると、相手の「得体の知れなさ」が怖くなり、勝手に距離を置こうとすることさえある。こうして書いてみると、ずいぶんな一人相撲だ。

これは大好きな河合隼雄さんの本を久しぶりに読み漁っていて、気がついたことだ。
先生の本を読んでいると、よく刺される。すごく痛い。痛むけれど、そのきずはじんわりあたたかい。

私は河合先生のこういうあたたかさが好きなのだ。心理学の権威でありながら、あくまで人間の「個」に寄り添い、深く観察し、その深層まで行き着いたところに「普遍的な何か」があると考えられた方である。そして何より尊敬すべきなのは、「結局のところ、人間の心はわからない。」と仰っていることだと思う。

ましてや心理学者でも権威者でもない私など、猫と、人と、裸一貫、対峙していくしかない。

ああ。痛い。あたたかい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?