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ねこ

ねこといると、実に多くの学びがある。本当に見ていて飽きないし、あらゆる自己問答がうかんでくる。

兎にも角にも生活。食事からトイレの世話まで、まるで人間の人生の縮図を見ているみたいだ。
誰かと一生添い遂げようと思うとき、ちょうどねこと暮らすのと同じように、徐々に自分の手を離れることと、徐々に自分の手でやらなければならないことの両方がある。最終的には、後者が生活の大半を占める日もくる。そうなったとき、自分とパートナーを結びつけるものは一体何だろう。「絆」とは何でできているのだろう。時間か。心か。

またねこは、まるでモテて仕方のない、魅力的な異性みたいだ。ねこに近寄られるとうれしくて舞い上がるし、相手にされないとつい追いかけてしまう。一方ねこは、面倒だとすぐ逃げるし、気まぐれに戻ってくることもある。ただ自分のしたいことをしているだけ。邪魔をされると攻撃的になることもあるけれど、不機嫌だからといって当たり散らすことはない。まさに、自分の機嫌を自分でとっている。
ああ、こんな女性になりたい。 

しまいには、ねこを見ながら愛について考える。人間の根の深いところには、寂しさや劣等感があって、それを埋め合わせるように虚勢をはったり、束縛したりする。私たちはついつい、相手が「すること」を見がちだけれど、「なぜ」そうするのかを見てみると、相手の根源にあるものが見えてくる気がする。それが見えたとき、許容するもよし、あしらうもよし。
しかし愛とは、それを「見ようとする」ことと、見えたときに「過不足なく相手を満たそうとする」ことなのかもしれない。
ねこがさびしくてかまってほしいとき、たくさん遊んであげるのだが、過剰になると飽きられてしまって、かえってこちらも疲れたりする。だから、「過不足なく」というのはひとつのポイントなのかもしれない。
もっとも、相手を焦らしたければ、不足気味に与えるのがいいのかもしれないが。どちらにしろ、自分の人生に目的があるのならば、相手に与えてばかりもいられないのだけれど。



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