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悠久を彷徨せし従順な子羊   Ambulator nascitur, non fit.

For every walk is a sort of crusade, preached by some Peter the Hermit in us, to go forth and reconquer this Holy Land from the hands of the Infidels.

あらゆる散歩は、われらが内なるペトルス・アミアネシスの説教を聞いて、異教徒たちの手から聖地を奪還しようと勇み立つ、一種の十字軍遠征にほかならないからである。

H.D Thoreau ≪ Walking ≫ [1] / 「歩く」飯田実訳 [2]

遺210824
 SauntererとしてSanctum Sanctorumを目指すことが人類に課された責め苦である。悠久永劫な聖域は、何物にも無関心な様子で、この唾棄すべき泡沫の人類文明の前に聳え立つ。
 有史以来、幾度も聖なる場を希求し、主から与えられた苦難からの解放を願った人類は、貪婪な陋劣な情慾の持主であり、己の性質に抗うことができない愚昧な徒であった。彼らは、忘却の川の水を飲み、自ら淪落の沼底に沈湎し、魂魄に深く刻印された聖地のありかを見失ったのだ。
 それ以後、聖地は常に住処を韜晦し、人の眼に映ることはない。
高邁な騎士道精神にあふれ放縦豪蕩であったEquestrian Chevalier Ritters Ridersは、己が欲望に飢えに飢え、衰憊の果てに死に絶えた。陋巷に埋もれた場末の騎士として彼らの名誉は永久に忘却され、その魂は猛り狂った噴火獣の餌食となり縷々たる業火の中でとこしえの苦艱に喘ぐのだ。
 残されたのは我々Walkersだけであろう。
 我々はふたたび聖地を己が魂に呼び覚ますため、聖戦に駆り立てられている。不遜で蒙昧な異教徒どもから、我々の聖地を奪還するために。
 西へ突き進むのだ。さすれば、聖地にたどり着くであろう。
索漠たる不毛の地を抜け、己が欲望の絢爛と頽廃に抗い、悠久の理想郷を己が手中におさめるために。

大自然に接すると、吾々は自己の微小を感ずる。人生に於て吾々の眼を強く惹きつけていたあらゆるものの価値が一時に払拭され、凡てのものの中心であった自分自身が微々たるものになって、ただ悠久永劫な大自然のみが、何物にも無関心な大きさで君臨する

豊島与志雄 「大自然を賛う」[3]


・ソローの≪Walking≫を読んでいて、"walk"に関連する単語が6つほど出てきた。どの単語も大雑把に言えば、"walk"という意味になるけれど、語源を調べると大まかな違いが理解できる。(etymonline.com)
また、etymonlineにはgoogle booksをもとに、書物で使用された単語の統計をとっており、ある単語が用いられる頻度がTrends of xxxとして示されている。
例えば、Walk(v.)は56.702 per million (millionは恐らく本の数だと思う。因みにhave (v.)は2800)
Trends に基づくと現代では、"wander"と"errant"以外は殆ど使われていないことが分かる。≪Walking≫の初版は1862年なので1862年と比較すると"rove" , "saunter", "vagrant"はそれなりに使用されていたのかもしれない。ただ、"ambulate"に関しては全く用いられていない。

Trends of "ambulate" in 1862 = 0.006 → in 2019 = 0.116
0.578 → 1.005
1.047→ 0.157
0.190 → 0.134
1.482 → 0.591
6.038 → 5.357


[1] H.D. Throeau ≪Walking≫
[2] H.D. ソロー 「歩く」 飯田実訳、岩波文庫
[3] 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社

He is a sort of fourth estate, outside of Church and State and People.

「散歩者」は、教会、国家、人民の埒外にあって、いわば第四階級を構成しているのだ。

I think that I cannot preserve my health and spirits, unless I spend four hours a day at least— and it is commonly more than that—sauntering through the woods and over the hills and fields, absolutely free from all worldly engagements.

私は、一日に少なくとも四時間ーたいていはそれ以上ー、いっさいの俗事から完全に開放され、森を通り抜けたり、丘や野原を越えたりして、あてどもなく散策するようにしていないと、自分の健康や生気を保つことができないような気がする。

I wonder that about this time, or say between four and five o’clock in the afternoon, too late for the morning papers and too early for the evening ones, there is not a general explosion heard up and down the street, scattering a legion of antiquated and house-bred notions and whims to the four winds for an airing—and so the evil cure itself.

新聞の朝刊には遅すぎ、夕刊には早すぎる午後のそんな時間、つまり四時から五時のあいだに、なぜ通りのどこかで大爆発が起こり、時代遅れで屋内育ちの観念や気まぐれを木っ端みじんに吹き飛ばして外気にさらし、かくて悪弊はおのずから正される、という具合にならないのか、私は不思議でたまらないのである。

The West of which I speak is but another name for the Wild; and what I have been preparing to say is, that in Wildness is the preservation of the World.

私の言う「西部」とは、「野性」の別名に他ならない。私がこれまで言おうとしてきたのは、「野性的なもの」のなかにこそ「世界」が保存されている、ということである。

Life consists with wildness. The most alive is the wildest. Not yet subdued to man, its presence refreshes him.

生命とは野性そのものにほかならない。このうえなく生気にあふれているものは、このうえなく野性的である。野性的なものは、まだ人間に屈服していないからこそ、接する人間に元気を与える。

My spirits infallibly rise in proportion to the outward dreariness. Give me the ocean, the desert, or the wilderness!

私は外部が荒涼としてくるにつれて、いつもきまって元気が湧いてくる。私には、海か、砂漠か、でなければ原生自然地帯をあたえてほしい!

When I would recreate myself, I seek the darkest woods the thickest and most interminable and, to the citizen, most dismal, swamp. I enter a swamp as a sacred place, a sanctum sanctorum. There is the strength, the marrow, of Nature.

私は元気を回復したくなると、どこよりも暗い森や、どこよりも樹木が多く、果てしなく広い、しかも町の人間にとってはこのうえなく陰気な沼地を求めてさまよい歩く。私は、もっとも聖なる場所にはいるようにして沼地にはいってゆく。そこには「自然」の力、つまり自然の骨髄があるのだ。

In literature it is only the wild that attracts us. Dullness is but another name for tameness.

文学において、われわれを惹きつけるのは、野性的な作品だけである。退屈さとは、飼い馴らされたものの別名にすぎない。

In short, all good things are wild and free.

つまり、すべてのよいものは野性的であり、自由である。

I rejoice that horses and steers have to be broken before they can be made the slaves of men, and that men themselves have some wild oats still left to sow before they become submissive members of society. Undoubtedly, all men are not equally fit subjects for civilization; and because the majority, like dogs and sheep, are tame by inherited disposition, this is no reason why the others should have their natures broken that they may be reduced to the same level. Men are in the main alike, but they were made several in order that they might be various.

私は、ウマやウシを人間の奴隷にする前に、まず彼らを飼い馴らす必要があること、人間自身も社会に従順な一員となる前に、若気の過ちを犯すだけの猛々しさをもっていることを、うれしく思っている。明らかに、すべての人間がひとしく文明と折り合っていかれるわけではないのだ。たいていの人間が、遺伝的気質のおかげでイヌやヒツジとおなじようにおとなしく暮らしているからといって、ほかの人間までがもって生まれた性質を飼い馴らされたあげく、他人とおなじ水準までひきずりおろされなくてはならないという理由はない。概して言えば、ひとはみな似たり寄ったりではありけれど、それでも別々につくられているのは、彼らが多様な人生を生きるためである。

Live free, child of the mist—and with respect to knowledge we are all children of the mist.

自由に生きるようにしたまえ、霧の子よ。知識に関しては、われわれはみな霧の子なのだから。

The man who takes the liberty to live is superior to all the laws, by virtue of his relation to the lawmaker.

自由に生きる者は、立法者との関係からいえば、あらゆる法則にまさる者であると言えよう。

That is active duty, which is not for our bondage; that is knowledge which is for our liberation: all other duty is good only unto weariness; all other knowledge is only the Cleverness of an artist.

われわれを束縛しないものこそ、能動的義務である。われわれを解放してくれるものこそ、「真の」知識である。そのほかのあらゆる義務はわれわれをつかれさせるだけであり、そのほかのあらゆる知識は技術の技巧にすぎないのだ。

While almost all men feel an attraction drawing them to society, few are attracted strongly to Nature.

ほとんどの人間が社会の魅力にとり憑かれるのに対して、「自然」に強く惹かれる人間はめったにいない。

So we saunter toward the Holy Land, till one day the sun shall shine more brightly than ever he has done, shall perchance shine into our minds and hearts, and light up our whole lives with a great awakening light, as warm and serene and golden as on a bankside in autumn.

こうしてわれわれは、「聖地」に向かって散策する。やがてある日、太陽はかつてなかったほど明るく輝き、おそらくわれわれの知性や心情の内部にまで差し込んで、あたかも秋の日に堤の斜面を照らす日ざしのようにあたたかくおだやかな、黄金色の、偉大な覚醒の光をもって、われわれの全生涯をくまなく照らすことになるであろう。

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