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【日本アカデミー賞最多8部門で最優秀賞🎉】 平野啓一郎×石川慶監督─『ある男』をめぐる対談を特別公開 【原作小説の試し読みも】

平野啓一郎の長篇を原作とする映画『ある男』が、第46回日本アカデミー賞で作品賞含む8部門で最優秀賞を受賞しました🎉

この快挙を記念して、平野啓一郎と石川慶監督による対談を特別公開いたします!

妻夫木聡さんを主役にキャスティングした理由や、「柄本明さんの演技が凄すぎて演出を変更した」という撮影の裏話も…。小説と映画の表現の違いについても着目しながら、『ある男』について語り合いました。


※この記事は、平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】で昨年11月に開催されたライブ配信ダイジェストです。

【城戸の内面を描き出すために試行錯誤した】

平野:本日はお忙しいところありがとうございます。ちょうど今日(11月30日)、報知映画賞の発表があり、映画『ある男』が作品賞を受賞ということで、おめでとうございます。

石川:ありがとうございます。スタッフも喜んでいます。

平野:原作小説は結構長いので、2時間の映画作品にするのは簡単なことではないと思います。最初に思い描いていたイメージと、最終的に出来上がったものでは、変わった部分もあったのでしょうか?

石川:シナリオが出来るまではいろいろと試行錯誤がありました。自分が書いたメモを読み返して思い出したんですが、城戸を主役として、物語をどういう風にしていくのか、映画の中で城戸の内面的な変化を一体どうやって見せたらいいんだろうと、すごく悩んだんです。小説『ある男』の城戸の内面描写が素晴らしく、これを絶対落としたくないと思いながらも、このまま映像にはできないというジレンマを抱えていました。

平野:一週間前に、イスラエルの小説家であり、映画やドラマ監督でもあるウズィ・ヴァイル氏と対談したんです。彼が英語版の僕の本を読み、『ある男』もすごく気に入ってくれて、映画化されたと聞いて、「城戸の内面描写がすごく詳しいので、どういうふうに映像化したのかすごく興味がある」と言われました。

石川:監督によってはそのままモノローグにしてしまう場合もあるだろうし、それをまた全然違うシーンにする人もいるだろうし、また第三者を登場させてそれを際立たせるという手もあると思います。おそらく誰が映画化したとしても、全然違うものになっただろうなと思うんです。

でもモノローグはちょっと考えられないし、大筋は変えたくないから変に他の人物を登場させるというのも嫌でした。基本的に城戸は聞き役にはなるのだけれども、聞きながらどんどん城戸の中で何かが鬱積していく、という表現をしたい思いながら作っていきました。

例えば城戸の最初の登場シーンでは、飛行機の騒音の中で光が眩しく窓を閉めるとか、城戸の家の近くで工事の騒音がずっと鳴り響くシーンを入れるなど、何か城戸に常にプレッシャーを与える。その一つ一つに、名前の塗り替えを象徴するようなシーンを配置していくことで、映画を見てる人の中に、段々、鬱憤のようなものが溜まっていって欲しい。そういうような方向性で、シナリオを組んでいきました。

【妻夫木聡さんは、透明になることができるスター】

平野:主役として妻夫木さんの顔が思い浮かんだのはどのくらいのタイミングなんですか。

石川:「城戸」は狂言廻しで、下手するとただの聞き役になってしまう恐れがあるけど、最終的には物語の主役として中央に出てこないといけない。そういう人って誰かいる?と脚本家の向井さんと相談しました。そのときに妻夫木さんを思い浮かべました。妻夫木さんはすごいスターで、唯一無二の存在感があるんですけど、同時に透明になることもできる。聞き役として全然邪魔にならないけれども、その存在は忘れられない。すごく特殊な佇まいでシーンの中に居られる珍しい役者だなと思っています。

平野:妻夫木さんは文学作品が原作の映画によく出られていて、『愚行録』もそうだし、『悪人』や『春の雪』もですが、最終的に日常生活から逸脱してしまいますし、狂気とある種の平凡さみたいなものを隣り合わせに持ったような人間を演じられてますね。城戸の場合は、結局そこまではいかない人物なので、ある意味では逆に『愚行録』とかより存在感や強い印象を残すのが難しかったのではないかと思いました。

石川:平野さんが提唱している「分人主義」の概念についても、妻夫木さんに共有しました。各シーンに誰を相手役として置くかで、城戸が変わっていく。笑う時には笑って欲しいし、リラックスするときにはちゃんとリラックスしてほしいとお伝えしました。そういう意味で、同僚役には小藪さんをキャスティングしたし、妻夫木さんに何日も子役と遊んで時間を共有してもらって、自然なお父さんの笑顔や城戸のキャラクターを引き出せたかなと思います。

平野:話をお伺いしていると、石川さんの場合、指揮者とコンサートマスターじゃないですけど、出演者の中でも、主人公をやる役者とは事前に他の役者よりも長くミーティングの時間をとって作っていくんですか。

石川:はい。まさにそんな感じです。前回『蜜蜂と遠雷』を撮った時、指揮者の打ち合わせを見て、その役割と自分がやっている仕事は近いなと思いました。指揮者は、みんなをまとめるための交渉術みたいなものが必要で、タクトをどう振るかで全然音楽が変わってくる一番大事な人。そして今回のコンサートマスターは明らかに妻夫木さんでしたね。

【泣く泣くカットしたシーンも…】

──(参加者の方からの質問)「映画があと1時間長く出来たら、加えたかったエピソードは何ですか?」

石川:多分、あと1時間あっても今と大幅には変わらないだろうと思います。ただ泣く泣く落としたのは、美涼と城戸の新幹線のシーンです。結構お金をかけて新幹線のセットを作り、縦5メーター横10メーターくらいの大きなLEDパネルのスクリーンの前で二人が話しながら、大人の恋愛を感じさせるようないいシーンが撮れたんです。ただ、このシーンの前に、既に城戸と美涼のベクトルが近づいてきているのが、ほのかに伝わっていると感じたので、蛇足だと思いました。本当に役者さんが良すぎて、思ったよりも前のシーンで片がついちゃったというか。映画においてはリズム感というのがすごく難しくて、セリフではなく視覚で一瞬でぱっと伝わるシーンというのは、映画的に処理がしやすい。そこがセリフになってくると、いくら意味のあるものでも、停滞して次のシーンもうまくいかなくなってしまうことが多いんです。

平野:キャストの方々とは、現場でやりながら話していくっていう感じなんですか?

石川:そうですね。映画に関してはあんまり言葉にしちゃうと、こぼれ落ちちゃうものがある気がします。ある感情を「今悲しいです」って言われると悲しいことになっちゃうけれども、本当はもっと複雑ですよね。特に里枝とか、どういう感情で泣いているのか。これを言葉にしようとすると、もう30分でも1時間でも話さないと伝わらない感じがします。それよりもむしろ前後のシーンだとか、例えば、そこで雨が降っていて、その場でカメラがこれぐらいの引きの角度で撮っていてというように、言葉でないところのコミュニケーションで、役者さんには伝わっていると思ってるんですよ。そっちの方が結果的にうまくいくことが多いなと思います。監督として自分は俯瞰して『どう見えているか』は誰よりも分かっているけれど、『どう感じているか』は、役者さんの方が深く理解しているんじゃないかと思っているので、それをこちらが説明するのは違うのかなという気がするんです。

【柄本明さんのパワーが強すぎて、演出を変更した】

──(参加者からの質問)小見浦と対峙した時の、城戸の横顔がアップになるシーンで、表情の微細な変化がとても印象的で圧倒されました。いくつもの感情が現れては消え、また現れるあの表情は、城戸の内面を包括しているように感じました。妻夫木さんとどのようなやりとりがあってあのシーンが出来上がったのかお聞きしたいです。

石川:あの場面が、城戸の中で「人探し」が「自分探し」に変わっていくきっかけになると思っていたので、リアリティは求めずに、むしろ城戸の内面世界として描きました。妻夫木さんと、どのくらい感情を出すべきかも議論しました。映画の中で役者が泣き叫ぶみたいなのは、妻夫木さんも僕も好きではなくて、むしろ感情を押し殺すような感じで何テイクか撮ったのが横顔がアップになるシーンです。

しかし、柄本さん演じる小見浦のパワーがすごく強くて、これはもう城戸が声を荒げないとバランスがおかしくなると思って、妻夫木さんに「ちょっと1回やっちゃいましょう」と追加して撮ったのが、声を荒げるシーンでした。

平野:あの場面はすごく印象的で、ちょっと原作を凌駕しているんじゃないかと感じました。あと、里枝と「ある男」が幸せだった時代が、小説では導入くらいの短さで書いていますが、映画ではかなりしっかり描かれていたのがよかったですね。本当にいい映画に仕上げてくださってとても感謝してますし、また皆さんが観てくれてることはとても嬉しいです。

石川:今日は本当に楽しかったです。平野さんとは何回か対談させてもらってますけど、あらためてじっくりと話ができたのはすごく嬉しかったです。5年後10年後も皆さんに観てもらえているといいなと思います。最新作の『本心』もすごく面白かったので、誰が映画にするのかなと思っているんですけど、将来的にまた平野さんの小説を映画化する機会をいただけたら、ぜひお受けしたいなと思っています。

(構成・ライティング:田村純子)


【原作小説の序章を公開】

平野啓一郎の原作小説は、石川監督が「どう表現すべきか試行錯誤した」という主人公の内面描写や、「泣く泣くカットした」という美涼と城戸の名場面など、映画には収まりきらなかった面白さと感動を味わる一冊です。まずは序章の試し読みからどうぞ!

 この物語の主人公は、私がここしばらく、親しみを込めて「城戸さん」と呼んできた人物である。苗字に「さん」をつけただけなので、親しみも何も、一般的な呼び方だが、私の引っかかりは、すぐに理解してもらえると思う。
 城戸さんに会ったのは、とある書店で催されたイヴェントの帰りだった。
 私は、二時間半も喋り続けた興奮を少し醒ましてから帰宅したくて、たまたま見つけた一軒のバーに立ち寄った。そのカウンターで、独りで飲んでいたのが城戸さんだった。
 マスターと彼との雑談を、私は聞くともなしに聞いていた。そのうち、何かの拍子につい笑ってしまい、話に加わることになった。
 彼は自己紹介をしたが、その名前も経歴も、実はすべて嘘だった。しかし、私には疑う理由がないから、最初はその通りに受け取っていた。
 黒縁の四角い眼鏡をかけていて、目を惹くようなハンサムではないが、薄暗いバーのカウンターが似合う、味わい深い面立ちだった。こういう顔に生まれていたなら、中年になって少々皺や白髪が増えてもモテるんじゃないかと思ったが、そう伝えると、彼は怪訝そうに、「いえ、全然、……」と首を傾げただけだった。
 私のことは知らなかった様子で、恐縮されてこちらが恐縮した。よくあることである。
 しかし、小説家という職業には甚く興味を持っていて、色々と根掘り葉掘り質問した挙げ句、急に感じ入ったような表情になって、「すみません。」と謝られた。私は何ごとかと眉を顰めたが、先ほど教えた名前は偽名で、本名は城戸章良というと明かした。そして、ここのマスターには内緒にしてほしいと断って、歳も私と同じ一九七五年生まれで、弁護士をしているのだと言った。
 ろくでもない法学部生だった私は、法律の専門家を前にすると少々気後れするのだが、そんなことを告白されたお陰で、この時は卑屈にならなかった。というのも、城戸さんがそれまでに語っていた経歴は、人の憐憫を誘うような、ちょっと気の毒なものだったからである。
 私は、どうしてそんな嘘を吐くのかと率直に尋ねた。悪趣味だと思ったからである。すると彼は、眉間を曇らせてしばらく言葉を探していたあとで、
「他人の傷を生きることで、自分自身を保っているんです。」
 と半ば自嘲しつつ、何とも、もの寂しげに笑った。
「ミイラ採りがミイラになって。……嘘のお陰で、正直になれるっていう感覚、わかります? でも、勿論、こういう場所での束の間のことですよ。ほんのちょっとの時間です。僕は何だかんだで、僕という人間に愛着があるんです。―本当は直接、自分自身について考えたいんです。でも、具合が悪くなってしまうんです、そうすると。こればっかりはどうしようもなくて。他に出来ることは、全部やってます。多分、もう少し時間が経てば、そんな必要もなくなると思うんですが。―自分でも、こんなことになるとは思ってなかったんです。……」
 私は、その思わせぶりにやや鼻白んだが、しかし、言っていること自体は興味深かった。それに、私は何となく、萌しかけていた彼に対する好感を捨てきれなかった。
 城戸さんは、更にこう言った。
「でも、あなたには、これからは本当のことを言います。」
 この最初の嘘を巡るやりとりを除けば、城戸さんは気さくで落ち着いた好人物だった。感じやすい繊細な心を持っていて、しかも言葉の端々からは、奥深い、複雑な性格が覗われた。
 私は、彼と話をしているのが心地良かった。こちらの言うことが、よく通じ、相手の言っていることがまた、よくわかったからである。そういう人には、なかなか出会えないものではあるまいか。音楽好きというのも、二人の重要な接点だった。それで、偽名を使うのも、何かよほどの事情があるのだろうと忖度したのだった。
 次に同じ曜日にその店を訪れた時にも、やはり城戸さんは独りでカウンターで飲んでいて、私は勧められて隣に座った。マスターの定位置からは遠い席で、以後、私たちは何度となく、この店のその席で顔を合わせ、夜更けまで語らい合う仲となった。
 彼はいつもウォッカを飲んでいた。瘦身の割に酒が強く、本人は気持ちよく酔っていると言うが、その口調は穏やかで、何時間経っても変わることがなかった。
 私たちは親しくなった。いい飲み友達が出来るというのは、中年になると、案外、珍しいことである。しかし、二人の関係は、ただこの店のカウンターに限られていて、どちらも連絡先を尋ねようとはしなかった。彼は恐らく遠慮していた。私はと言うと、正直なところ、まだ警戒もしていた。そして実は、もう長らく彼とは会っておらず、多分、二度と会うこともないだろう。彼が店を訪れなくなったことを―その「必要」がなくなったことを―私は良い意味に解釈している。

 小説家は、意識的・無意識的を問わず、いつもどこかで小説のモデルとなるような人物を捜し求めている。ムルソーのような、ホリー・ゴライトリーのような人が、ある日突然、目の前に現れる僥倖を待ち望んでいるところがある。
 モデルとして相応しいのは、その人物が、極めて例外的でありながら、人間の、或いは時代の一種の典型と思われる何かを備えている場合で、フィクションによって、彼または彼女は、象徴の次元にまで醇化されなければならない。
 波瀾万丈の劇的な人生を歩んできた人の話を聞くと、これは小説になるかもしれないと思うし、中には「小説に書いてもいいですよ。」と微妙な言い回しで自薦する人もいる。
 しかし、いざ、そうした派手な物語を真面目に考え出すと、私は尻込みしてしまう。多分、それが書ければ、私の本ももっと売れるだろうが。
 私がモデルを発見するのは、寧ろ以前から知っている人たちの間である。
 私も、関心のない人とは出来るだけ交際したくないので、長く続いている関係には、何かあるのである。そして、ふとした拍子に、突然、あの人こそが、捜し求めていた次の小説の主人公なのではと気がつき、呆気に取られるのだった。
 蓋し、長篇小説の主人公というのは、それなりに長い時間、読者と共にあるので、そんな風にゆっくり時間をかけて理解が深まってゆく人の方が、相応しいのかもしれない。

 城戸さんは、二度目に会った時から、偽名を使っていた理由を少しずつ語り始めたが、それはなかなか込み入った話だった。私は引き込まれ、なぜ彼がそれを私に話したかったのかを察し、腕組みしながらよく考え込んだ。「小説に書いてもいいですよ。」とこそ言わなかったが、恐らくはそれを意識していたと思う。
 しかし、私が、本当に彼を小説のモデルにしようと思い立ったのは、別の場所で、偶然、彼をよく知っているという弁護士に会ったからだった。
 私が、城戸さんはどんな人かと尋ねると、その弁護士は即座に、「立派な男ですよ。」と言った。
「あの人は、例えば、どんなタクシーの運転手に対しても、ものすごく優しいんですよ。道を知らなくても、感心するほど、気さくに丁寧に教えてあげるんです。」
 私は笑ったが、しかし、このご時世に―しかも金持ちで!―それはなるほど、なかなか立派なことだろうと同意した。
 その人から他に聴いた話は、色々と意外で、本人が決して口にしなかった胸を打つような事情もあり、私は、城戸さんという、どう見ても寂しそうな、孤独な、同い歳の中年男のことを、ようやく立体的に理解した。やや死語めいた表現だが、彼はやはり、人物なのだった。
 小説を書くに当たっては、この人や関係者に改めて話を聞き、「守秘義務」から城戸さんが曖昧にしか語らなかったことを自ら取材し、想像を膨らませ、虚構化した。城戸さん本人は、職務上知り得たことをここまで人に話さなかっただろうが、小説としての必然に従った。

 たくさんの、それもかなり特異な人物たちが登場するので、人によっては、どうしてこの脇役の方を主人公にしなかったのかと、疑問に思うかもしれない。
 城戸さんは実際、ある男の人生にのめり込んでいくのだが、私自身は、彼の背中を追っている城戸さんにこそ見るべきものを感じていた。
 ルネ・マグリットの絵で、姿見を見ている男に対して、鏡の中の彼も、背中を向けて同じ鏡の奥を見ているという《複製禁止》なる作品がある。この物語には、それと似たところがある。そして、読者は恐らく、その城戸さんにのめり込む作者の私の背中にこそ、本作の主題を見るだろう。
 読者はまた恐らく、この序文のことが気になって、私がそもそも、バーで会っていたあの男は、本当に「城戸さん」なのだろうかとも疑問を抱くかもしれない。それは尤もだが、私自身はそうだと思っている。

 当然に、彼のことから語り始めるべきであろうが、その前に里枝という女性について書いておきたい。彼女の経験した、酷く奇妙で、不憫な出来事が、この物語の発端だからである。(第1章に続く)

「人生のどこかで、全く別人として生き直す」という主題を描き切った傑作長篇。読み進めるうちに、「ある男って、まさに自分のことじゃないか」と思い当たるかもしれません。


日本アカデミー賞受賞を記念して、映画『ある男』は全国劇場で凱旋上映中です!(詳細はこちら

映画と小説、二つの『ある男』を合わせてお楽しみください!

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