寝たきり

『目を覆いたくなる高齢者医療の現実』 vs 『医療・介護の多忙な現場の実情』 この果てしない葛藤から抜け出す唯一の方法とは。



こんにちは、森田です。

Facebookでこんなことをつぶやいたらあっという間にコメントが50件以上つくくらいの大きな反響をいただきまして、びっくりしております。

こちらです。↓↓


で、こちらに頂いたコメントを要約しますと

 「そんな話あり得ない、許せない!」


という感じのご意見が多い一方で、


「でも、施設も人手不足だし、仕方ない面もある。」

 

という方向性のご意見もあり…

みなさんの日頃の葛藤が目に浮かぶような、複雑な思いがしました。

 

この葛藤、本当によくわかります。

僕も研修医時代、呼びかけにほとんど反応もなく、寝たきりで胃ろう、しかも手足を拘束されてたり…そんなおじいちゃんおばあちゃんが病棟を埋めている現実のなかで働いている時期がありました。ちなみに今でもそんな病院はたくさんあります。高齢者施設でも。

たとえばこんな感じ。

(写真はイメージです。)

そんな目を覆いたくなるような現実を横目にしながらも自分はそれに対して何も出来ず、それでも淡々と目の前の業務をこなさなければならない、、この時期僕の頭の中では上記2つの思い、つまり

 

◯このおじいちゃん・おばあちゃんたちはどう思っているんだろう?どうしてこんなことになっているんだろう?誰が悪いんだろう?許せない!という熱い想いと、

 

◯高齢になったら寝たきりになることもある、それは仕方ない。そして現場は人手不足なのに限界までケアをしている。それも仕方ない。という諦めの想い。

 

この2つの思いが24時間常に頭の中をぐるぐる回っていました。

そして、そのぐるぐるの中で仕事をこなし生活しているうちに、悲しいことにだんだん気持ちが「麻痺」してくるんですね。つまり熱い想いが冷めてくる。いや冷めてくると言うより、まさに「麻痺」が近い。それらの光景があまりに日常的になりすぎて、感じなくなってくるんです。

 

もしかしたら、そのまま「麻痺」したままの方がある意味死ぬまで幸せに過ごせていたのかもしれないんですけどね…(^_^;)。

でも、僕の場合はその葛藤の答えを見つけに夕張に行っちゃったんですね。
で、、僕は夕張で衝撃の光景の数々を目にすることになります。

例えば80代の重度認知症の婆ちゃん。

もし都市部に住んでたら、家族もご近所さんもお役所も「まず在宅生活継続は無理」と判断するであろうくらいに、毎日徘徊するし、今の自分のことさえもほぼ分かっていない…。まあ普通に考えれば介護も見守りも大変ですよね。遠方にお住まいのお子さんたちも、たまに帰ってきては心配されていました。そんな状況の中でもそのおばあちゃん、なんと自宅で『独居』してたんです。しかも、雪が降れば自宅の前だけでなく、近所中雪かきして回っていた。どうやら「今のこと」「今日食べたご飯」なんかはすぐに忘れてしまいますが、子供の頃からやっていた「雪かき」や、昔から歩いていた「近所の道」なんかは、なかなか記憶が消えないようでした。そして、そんな婆ちゃんを、地域の人たちも医療・介護の関係者たちも、「本人が困っていないならそれでもいいよね」くらいの軽い気持ちで見守っていました。もちろん、地域の人たちも、彼女が「認知症」であることくらい百も承知、でも彼女を「認知症の婆ちゃん」としてではなく、昔からお世話になっている「◯◯くんのお母さん」として見ていて、徘徊していてもなんとなく見守ってくれていたのです。御本人もあまり困っている感じはなく、とても落ち着いておられました。だからこそ、都会で問題になる徘徊が、僕にはただの「散歩」のように見えたのです。


 一方、僕が夕張に行く前に経験した例…たとえば、都市部の介護施設で暮らす、同じく80代のおじいちゃん。

それまでは独居のご自宅で庭づくりなどを楽しまれていたのですが、軽度の認知症がありたまに近所を徘徊するようになったとのこと。で、遠方にお住まいの息子さんが介護施設への入居を決めたと。その施設は僕が務めていた医療機関によって経営されていたので医療との連携もバッチリ。医師やケアマネさんに勧められての決断でした。

 で、施設に入所されたんですが…施設でご本人にお話を伺うと、口を開くたびに

「騙されてここに連れてこられたんです。花見に連れてってやると言うから息子の車に乗ったら、着いたのがこの施設。先生、お願いだから家に帰してください。お願いです。」

と両手を合わせて拝み倒されます。足腰も達者なので、何度も脱走まがいの騒動を繰り返されていました。

(写真はイメージです。)

しばらくしたらそれも落ち着いて、スタッフもみんな喜んでいたのですが……とはいえそれも、「施設に馴染んできてよかったね」と言う感じより、何を主張しても無駄だということを悟った「諦め」に近い感じでしょうか。僕がかつて感じていた「麻痺」に近い感じかもしれません。口数も少なくなり「帰りたい」ともあまり言わなくなりました。

(写真はイメージです。)


 果たしてこの2例、一体何が違うのでしょう?どうしておじいちゃん・おばあちゃんのの生活の質、いや人生の質が…こんなに違ってしまうのでしょうか。僕は夕張での生活のなかで、診療のなかで、大いに悩んでいました。もちろん、地域によって人々の生活文化も違うでしょう。医療や介護の充実度だって違います。(ま、概して都市部の方が医療・介護は充実しているんですけど…)。後に僕が「きずな貯金」と呼ぶようになる「地域の人たちの繋がり・ネットワーク」だって大きく違うでしょう。

でも、なにかそういう、地域性とかでは片付けられない決定的なポイント、そんなものががあるような気がしていました。そんなとき、僕はある『大きな失敗』を経験してしまいます。そしてそれによって、上記2例の根本的な違いに気づくことになります。

それは、慢性の肝臓病で長く外来に通われていた80代のおばあちゃんでした。病気は一進一退で徐々に進んでいたのですが根本的な治療法はなく、経過を見るしかないという状態。そんなある日、おばあちゃんの病気が急に悪化しました。それまでは元気に畑にも出て、外来にも通われていたのに、顔色は黄色くなり、家で寝込んでいると言うのです。僕は往診し入院を勧めました。根本的な治療はないとはいえ、CTとかエコーとかで検査し医療的な処置をすれば、つらい症状や黄疸を取れる可能性は十分にあるからです。しかし、おばあちゃんは家に居たいといいます。旦那さんのおじいちゃんは黙っています。とりあえずそこでは、家でも出来ること、(血液検査のための採血)をして帰りました。案の定、数値は急上昇していました。命の危険まであるレベルです。

「このまま放ってはおけない!」

僕はすぐさまおばあちゃんの家に行き、札幌の大きな病院で検査・治療してもらうことを提案、半ば強引に救急車におばあちゃんを乗せて札幌の総合病院に救急搬送してもらいました。

…その1ヶ月後、残念ながらおばあちゃんが札幌の病院でなくなったと聞きました。それを伝えてくれたのは旦那さんでした。旦那さんは僕に、今でも忘れられない衝撃的なセリフを言いました。

「あいつは札幌の病院で最期まで、『夕張に帰りたい』って言っていた。家にいた時からもう自分の命のことなんてとっくに分かっていたんだ。だから家でも辛いとも苦しいとも言わなかった。「助けてくれ」なんて一言も言わなかっただろ?どうして本人の気持ちを聞いてくれなかったんだ?どうして最期まで夕張で診てくれなかったんだ?」


これは僕にとって本当に衝撃的でした…。いや、言い訳はいくらでも出来ます。だって、僕の判断は医師としては間違っていなかった(と今でも思っています)のですから…。ただ、その判断は、医師としては間違っていなかったかもしれないけど、それでも僕は、その時の自分が根本的に間違っていたと今では思えます。それは、

「患者さんの人生の大きな決断に際し、医師としての判断のみを重視し、患者さん本人の思いを軽視した、いや、聞こうともしなかった」

からです。

確かに我々医師は現代の先進医療などを使って多くの命を救うことが出来ます。だからこそ、医療従事者の判断は時として、その他すべての意見を消し去ってしまうくらい大きな力を持ちます。

しかし、患者さんの人生は患者さん本人のもの。病気を治すのか治さないのか、命のおわりをどう迎えるのか、医療を使って命を永らえたいのか、たとえ命が短くなってもいいから好きなことをしたい、好きなところに居たいのか、そんな人生の大きな決断の決定権は本人にあるのです。その思いも聞かず、医師の常識の世界を優先して決断してしまった…。その一点で、僕は大いに責められるべき大失敗をしてしまったと言えるでしょう。

この大失敗は、僕の医師人生の価値観を大きく変えました。というのも、そこで先程から問題になっている『大きなポイント』に気づいてしまったのです。

「あれ?!都会の病院で寝たきりのおばあちゃんとか、施設で『家に帰してくれ』と拝み倒しているおじいちゃんたち、いちばん大事な『本人の気持ち』を聞いてもらっていないんじゃないかな?医療・介護の専門職の理論が勝手に、自動的に優先されてしまっているだけなんじゃないかな??」

と。

たしかに病院では、寝たきりのおばあちゃんたちの「本人の思い」を聞くと言うより「医療的な管理」のほうが優先されているような気がします。施設で「家に帰してくれ」と僕を拝み倒しているおじいちゃんも、明らかに「本人の思い」より「周囲の事情」の方が優先されています。

一方、夕張で元気に徘徊していたばあちゃん達。近所の人達も医療介護関係者も、これと言って特別なことをしている風でもなく、自然に「本人の思い」を尊重していました。

それ以来、僕は何より先にまず、ご本人の思いを聞くことに最大限の努力をするようになりました。

鹿児島では運良く、小齊平医師という療養病院の先生と一緒にいろいろな取組も出来ました。その取り組みはこれらの諸々の記事に書いています。


「胃ろうをひっこ抜いてくれと訴える患者さんの話」


「気管切開を拒否する患者さんの話」


胃ろうを抜く?

気管切開をしない?

果たしてそれでいいんでしょうか?

事実、小齊平医師と取り組んできたこうした事例は多くの医師からの批判を浴びました。特に、2015年にNHKのニュース9の全国放送で取り上げられた事例(上記記事とは別の事例です)は「胃ろう外し」の悪例として多くの医師から「それは間違いだ」「胃ろうは邪魔にならないんだから抜かなくてもいい」とご指摘を受けました。

そうです。医学的には僕らのしたことは「間違い」なのです。だって「胃ろう」自体は悪者でも何でもなくただの「便利な道具」。「胃ろう」を外す必要なんて何一つないのですから。

でも、僕ら医師の持つ「医学的正解」と、患者さんやご家族が長い間紡いできた「人生の正解」はまた別物であることも多い。お腹に「胃ろう」の穴が空いていて器具が残っている、ということ自体を苦痛に思う方だっておられるかもしれない。

僕はかつて、「医学的正解」にばかり目を向けて、「患者さんの思いを軽視した結果、大失敗をしてしまいました。しかし、もしかしたらそんな医療業界の常識が、これまでのような写真の状況の根底にあるのだとしたら……果たして僕たち医療・介護従事者はいま、何をするべきなのでしょうか。

(再掲)

(写真はイメージです。)


認知症だからもう「本人の思い」なんて聞けない?そんなことはありません。ちゃんと御本人と向き合えば、本心を聞けることだって数多くあります。もちろん本当の重度の認知症になればそうもいかないでしょうが、そんなおじいちゃん・おばあちゃんだって元気な時代、生き生きしていた時代があったのです。ご家族はそれを知っています。我々は、そんなご家族のストーリーをしっかり傾聴し、気持ちに寄り添っているでしょうか。

そんな面倒なことしていたら人件費やコストが掛かりすぎて大変?そんなことありません。事実、夕張市ではその後、高齢者一人あたり医療費は大きく低下しています。そりゃそうですよね、本人の意思に関係なく全員を延命治療していたら医療費だってかかります。また、本人の意思に関係なく認知症の人を全員施設に隔離・収容していたら、ご本人は「騙された」と暴れるでしょうし、そんな事例に対応をさせられるスタッフも疲弊します。結果、人件費も管理コストも掛かってしまいます(=隔離・収容の管理コスト)。

今世界で注目されている神奈川県藤沢市の「あおいけあ」はこれとは真逆の世界、つまり「隔離・収容はしない、自由にしてもらう」その結果、じいちゃん・ばあちゃんだけでなく、ご家族も、スタッフもみんなハッピー、そんな世界観を実現しています。その結果として「隔離・収容の管理コスト」が不要であることを見事に証明してくれています。



最初の事例に戻りましょう。


この施設の対応は、明らかに「患者さんの思い」にもまして「医療側・介護側の理論」を重視したものです。また、「隔離・収容」を目的とした「高齢者を管理するという意識」の結果生まれてくるものです。

「◯◯だから仕方ない」と言う前に、
本当に当たり前のことですが


「患者さんの思い」を第一に考えてみませんか?


そして本当にそれが出来たなら、実はそこには

「高齢者も家族もスタッフもみんなハッピー」の世界があるのかもしれません。

そしてそれは、「意外にコストが掛からない」ものなのです。


最後にもう一度言います。

「終末期医療の現状は仕方ないんだ!」
「高齢者介護の現場は多忙なんだ!」

と言う前に、

「患者さんの思い」を第一に考えてみませんか?(ノД`)





…以上、いま僕が考えていることでした。

でもこんな僕の考え方、まだまだ突飛かもしれませんけどね(^_^;)

皆さんはどう思われるでしょうか。


(注:個人情報保護のため、患者さんの来歴・背景などは一部改変しています。)


注:この記事は投げ銭形式です。

医療は誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」、
という信念なので医療情報は基本的に無償で提供いたします。
でも投げ銭は大歓迎!\(^o^)/
いつも一人で寂しく(しかもボランティアで)
原稿を書いているので、
皆様の投げ銭から大いなる勇気を頂いております!
ありがとうございますm(_ _)m
投げ銭いただいた方のみ、
ほんのちょっと僕のおまけ日記と画像を貼っております。



ぼくの本

財政破綻・病院閉鎖・高齢化率日本一...様々な苦難に遭遇した夕張市民の軌跡の物語、夕張市立診療所の院長時代のエピソード、様々な奇跡的データ、などを一冊の本にしております。
日本の明るい未来を考える上で多くの皆さんに知っておいてほしいことを凝縮しておりますので、是非お読みいただけますと幸いです。



☆ 2018.9.27追記

 こちらnote記事、公開2日でなんと2000シェアを頂きました。みなさま本当にありがとうございます。その中でいろいろなご意見を頂いたのですが、一部、
「上の写真のような病院は日本の病院の中でもごく一部なのでは?だってテレビでも映画でも出てくるのは手術や救急をするような病院ばかりだし!」
のようなご意見がありましたので、一応そのあたりを注記させていただきます(経済とか統計とかも専門なので(^_^;))。
というのも、残念なことに日本の現状において実はそうではなさそうなのです。それがわかるのがこのグラフ=精神・療養・一般病床の人口あたり病床数(都道府県別)。

下から順番に濃いグレーが「精神病床」、その上の薄いグレーが「療養病床」。つまり、この下から2つまでは一般に思われている「病院」のイメージ、つまり「救急」や「手術」などの急性期医療!という感じではない、どちらかと言うと慢性期医療もしくは介護に近い医療ですね。このグラフの下の2つ、「精神」「療養」の病床を足すだけで、多くの県で全病床の半分以上を占めていることがわかります。)

ちなみに、日本は病床数(人口あたり)世界一の「突出した病院大国」です。世界一多いの日本の病院の中で行われていることの多くがこの記事の内容のようなものだとしたら、、、。
なんだか、「患者さんの思い聞く」たったそれだけで、本質的なところにアプローチするだけで、
高騰する国の医療費医師の過重労働問題も改善しちゃうのかも?とさえ思えてきます。
こうして虫の目から鳥の目で俯瞰してみると、この問題の根の深さ、規模の大きさが、更によくわかるのではないでしょうか。



(再掲)

「胃ろうをひっこぬいてくれ」と訴える患者さんの話


「気管切開を拒否する患者さんの話」


じいちゃん・ばあちゃんも、ご家族も、スタッフもみんなハッピーのあおいけあ




続きをみるには

残り 283字 / 4画像
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)