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そして母になる

些細な事も一瞬で世界に発信できる時代
自分史上ない大きな変化があったが
世界史上ない緊急事態の真っ只中には
生活も医療も人の言葉にも怯える毎日
口を閉ざし部屋に篭り生きて育む10ヶ月と幾日

【 ①引越し
皺寄せについて本気出して考えてみた 】

2021年の春、救急搬送され入院した。妊娠5ヶ月。
原因不明の腹部激痛に緊急手術を目前にし
怖くて怖くてMRIの轟音の中で涙が溢れた。
結局、大きくなった子宮により中が見えづらく確定診断には至らず(内臓系疾患の疑い)
「できれば妊婦のお腹は開きたくない」と医者もメスを置き経過観察入院したのは緊急事態宣言のさなか。

この時に垣間見た「コロナ渦の医療体制」に
これから起きるであろう悪い予感が、色を濃くした。

この夏、東京の医療を正常に保つのは無理ではないかー
新たな命を落としかねない事態に陥るのではないか。
予定する出産の生産期は8月〜9月だった。

どこで出産するか?
パートナーとの家族会議は妊娠発覚から何ヶ月にも及んでいた。
私はつわりが重く長期的に体調不良だったので、関東圏外への移住は平常時よりも困難だった。
自分のみ単体で実家に里帰りすれば、比較的、動きは楽になる。荷造りは最小限で済むし、出産アプリの助言には「里帰りすれば家事を実母に全て任せられて安心ですよ」などと偏った助言もある。
何より面倒なのは「本格的な大移動」でありー
猫2匹とパートナーを東京へ残して帰郷すれば、億劫で身重な引越し作業がパスできるのだ。
しかしながら、「作業量」で人生を決めて良いのか。
これから一緒に生きていくと決めた新しい家族が未曾有の窮地で離れ離れになる事を望めない自分がいた。

「諦めよう」と言ったのは彼の方だった。
「何を?」
「悩み続けても正解は現時点で分からない。都内で安心して出産するという希望を一旦、捨てよう。」
みんなで地方へ引越そう!
都会の大好きな彼が自らそんな事を言うとは思わず、私は狼狽えつつも感謝と闘志が沸いた。
仕方がない。重い腰と腹をあげよう。

妊娠後期という安静の時期に関東から九州へ
大人2人胎児1人と猫2匹の家族、大移動。

搭乗用の猫キャリーも新調.... 

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無事、転居。

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間もなく嬉しくもない予感的中、夏の感染大爆発ー。
全国の妊婦を震え上がらせただろう。

千葉県柏市の「感染妊婦の搬送先見つからず」
死産の報道は、自分と周期が近い事も相まって胸が痛むどころの騒ぎではなかった。
それまで規制の緩やかだった田舎の産院すら、感染者増加により立ち会い面会、付き添いも厳しく制限された。
ハイリスクや出産条件や引越しで流れ流れて4院目、紹介状貧乏になりつつ私の辿り着いた産院もー 8月、規制が強化されてしまう。

(這うように引っ越してきたのに)
臨月の検診で院長にエコーをされながら、やるせ無く目に涙を溜めていた。
「もし今、1人でも患者が出たら分娩も全て断って病院全体を閉めるしかないんだよ... 」
残念そうに諭す院長。この医院は周囲と比べれば、本当に直前まで立会を許可していた。
本来の方針では手放しで「立会も面会もOK」としたいのだろう。その気持ちを抑えての苦渋の決断を、咎める事はできない。

孤独でも産めるだけ幸運との見方もある。
ただ、それほどに心は単純ではない。
妊婦の「鬱病発症率」がコロナ禍では3倍以上に膨れ上がっている統計も、私には見過ごせない辛い現実であった。



(余談)
築年数の高い家屋へ転居してすぐ、劣化した網戸から猫が脱走。重い腹を抱えて探し回る羽目になる。
懐中電灯片手に、夜な夜なボソボソと何か呼びながら徘徊する妊婦.....   ちょっとホラーだったかもしれない。
翌日に猫は自分で帰ってきた。土地勘もなく、よく戻って来れたものだ。(網戸は修繕し更に金網を張りました)

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【 ②陣痛 〜ヒトリノ夜〜 】

笑った数より圧倒的に泣いていた
狂いかけの世界の壊れかけの私が
必死に守り通した君に会えたときは
果たしてどれだけ感情的に
わざとらしいほど劇的に泣くのだろうか

出産は孤独な闘いだった。
数日に渡る長い前駆陣痛の末、日付の変更と共に産院の扉を叩く事となる。

時間外のため「裏口」から入院。ほんの少しは付き添って貰えるのかと思いきや「ご主人は荷物だけ置いて駐車場へ引き返してください」との指示で、玄関から早々に1人になる事に。またエレベーターは使えず階段になるとの事。ギェエ。写真はその瞬間、最大の心細さを抱えた妊婦を、離れる寸前の連れ合いがパッと撮影したもの。「こういう時こそ撮っとこう」「えぇ... わざわざ、そんな写真いるかな?」

なるほど。悲壮感がすごい。

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家族と過ごせないならば助産師や医療スタッフに思い切り頼って依存したかったが、これまた甘かった。
「陣痛はこちらで。」
案内された陣痛室は独房のように見えた。痛みに耐える時間は1人なのかー
午前1時から朝にかけてという最も手薄の時間。
更に私が来たのと同時に別の妊婦は緊急帝王切開になったらしく、院内は騒然としていた。
うーむ。産院で医者は院長1人で。夜中に突然の呼び出し緊急手術なんて珍しくもないだろうが、院長は、いつ寝るのだろう。考えた事も無かったが、こりゃ大変な仕事だと思った。

その後、手術直後らしき院長とすれ違ったので「あ、手術、お疲れ様です」と頭を下げたら「私は大丈夫だから、貴方は自分の心配だけをしたらいいんだよ。」と目を丸くして言われた。

明るい昼間が良かったなぁ。
タイミングが選べるならば。ただ、なんとなく陣痛は夜中になるのだろうと言う予想はずっとあった。
真っ暗な夜、小さな部屋でひとり悶え叫び続けた。人生最大の痛みと苦しみ。頭が真っ赤になって下半身が砕け壊れ迫り来る圧力に狂いそうだ。
無論、何かあればナースコールを押していいのだが.... どうかした異様な痛みと戦うのが陣痛であるし、他に緊急な妊産婦がいる以上、安易に助けも求められない。


強烈な苦しみの絶頂でパーンと弾ける。
こここれが、破水か?!多分?!
ジャバジャバと生温い何かが流れ出て自分の身体ながら他人に乗っ取られたような恐怖を感じる。
何せ初めての事なのに1人だから状況も対処もよくわからない。わけわからん。泣きたくなる。
...もう、助けを呼んでいいのかな?
全身が震え、激痛で手指も声もうまく操作できない。誰か傍にいて欲しい。手を握って言葉をかけて欲しい。
「コロナ渦で贅沢言うな」と呆れられても、そんな事はこんな時代でなければごく普通に叶ったはずなのに。

私は兄弟6人全員が自宅出産という特異な環境で生まれ育った。弟妹4人の出産に立ち会っている。
家族は勿論のこと、妊婦の友人知人、その子供達まで総勢10〜20人に囲まれて一大イベントの様に新たな命を迎えるのが、私の幼少期から知る「お産」だった。
それが素晴らしいとか危険だのは特に考えた事もなく、そういうものなのだと思っていた。

そのため、パートナーの立会すら禁止も普通となったコロナ渦では「え?知らない人たちに囲まれて産むしかないの?!」と驚いてしまった。
新しい家族を迎える人生最大の祭りに、なぜ他人の集団と時間を共有するのだろう。
それが不満なら勝手に家で産めよという話だが、冒頭でも触れたようにハイリスクの高齢初産はそんな挑戦的な選択もできなかった(ギリギリまで迷ったが)。

まぁでも百戦錬磨の助産師さんがめちゃくちゃ素敵で無敵で全て任せちゃえな感じかもしれん。
何とか前向きに考えるも、実際はー 
医療現場の皆さん、非常に忙しい。
他人は抵抗がある等とぬかす妊婦の心などつゆ知らず、知らない人すらも一緒には居てくれなかった。

だからロンリロンリー切なくて
壊れそうな夜にさえ.... ヒトリノ夜....

ポルノグラフィティの昔の曲が脳を掠めたりしつつ
暗く長い夜を越え、空が明るんできた。
6時間ほど、私は1人で陣痛室でうめき暴れていた様だ。
息も絶え絶え破水の連絡を受け、快活な助産師さんが飛んできた。
「うん。うん。いい陣痛、いい破水。そしてあなた、お腹が理想のまんまる!最高よ!とてもいい!」
この人、とにかく褒める。どんどん褒める。

安堵した。今、スパルタを受け入れる余裕はないし、この最悪な痛みも有意義らしい。
「いい陣痛」という言葉に、後の私は何時間にも渡り縋る事となる。
地獄の取り壊し工事のような痛みの中
「いい陣痛... 私の陣痛はいい陣痛...」と唱えることで強引かつ前向きに乗り越えようとしたのだ。

「助産師のN塚です。」小柄で目の大きな女性だった。
私のひとまわり上の年代ぐらいだろうか。
褒めてくれる人はいい。自己紹介も嬉しい。よし、私の心のオアシスを決めよう。今からこの助産師に依存する事にしよう。
ところが頼もしい彼女、シフトで途中から帰ってしまう事が判明。悲しい。また落胆。
まぁ私が勝手に依存先を決めた所でずっと横についてくれる訳でもない。
いつ何人の妊婦が来るやら計算不能な産院の現場、時間は深夜から明け方。人手は少なく優先順位も次々と変わる。

人間の家族の付添いが禁止ならば、いっそ猫と過ごしたかった。我が家の猫は、妊娠中も、実は全て分かっているのではないか?と疑うほど私のお腹にそっと寄り添い、何かを心待ちにしている様だった。

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(猫を院内に入れろ等と交渉はしてません。念のため。)




【 ③出産 〜冷たい水をください出来たらアイスティーください〜 】

ついに分娩台へー 
もう正常な会話も出来なくなっていた。

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©︎いらすとや


覚悟を決めたはずなのだが。
ドラマでしか見たことのない分娩台。
両足を大きく開いて乗せるしかない分娩台。
見れば見るほど拒絶反応が起きる。
私はもう半年以上「仰向け」ができない。
圧迫感で苦しくなるからー

「乗ってください」「.....」ふるふる。
「乗らないと始まりません」「.......」ふるふる。
首を横に振り続ける。別に主義主張ではない。
医療従事者の指示に逆らった事など人生初だ。
何せ、驚くほど身体が一歩も動かないのだ。
横向きでも四つ這いでもいい。ただ、どうしても分娩台のポーズだけが取れない。
気がつけば分娩台の上に静かに登り、仁王立ちしていた。慌てる周囲。
危険ですから降りてください!と助産師。
何でも褒めてくれる彼女も、この時ばかりはそうもいかなかった。私も医療行為を冒涜したいのではない。ただ、「正しい分娩台ポーズ」をしたら壊れてしまうと悟った体がいうことを聞かないのだ。この無意識の行動が、後の私をさらに苦しめる事となる。
「拒絶反応」回路を必死でぶった斬り、祝福への階段とは思えない重い足取りで重い罪を犯した囚人の様に分娩台へ登ったー

観念して大股を開き足を所定の台に乗せると、両足を布で拘束された。
「?!」
もはやまな板の上の産卵鯉、逃げも隠れもしないのに。
分娩台で仁王立ちする奴は縛るしかないという判断だろうか。これにより、時々足を動かしたり少し体制を変えるなどの自由も許されなくなった。
悲しいかな、激痛と意識朦朧により拘束を拒絶する語彙力すら私には残されていない。
ただ、布を結ばれるたびに黙々と解いた。何度も解いた。その度に看護師が結び直す。言葉のない攻防が続く。台詞が吐けずとも一応は言葉の伝わる人間なので、せめて、布で拘束しないとならない理由を先に説明して欲しかったー 



ちなみに私は予めフリースタイル分娩(仰向けを避け妊婦主体の自由な姿勢で産みたい)を希望していたのだが、多少でも反映されたと思える事はなかった。病院という場所で自由を求めるのは無理なのかもしれない。
もう最初から「出産=医療主体。分娩台。拘束」という構図の元、何も知らない方が幸せだったとすら思う。私は余りにも自由な出産を知り過ぎていた。

分娩台が辛くとも短時間で出産できればよかったのだがー 足を大袈裟に開き続けながら痛みに悶える「分娩台拘束時間」は4時間に上り、1人の陣痛室と比べれば同じ空間に確かに人ははいたのだが、やはりどうにも精神は孤独であった。
あまりの心細さ苦しみから看護師さんの手を無意識に握ってしまう。ほんの少し握り返してはくれたのだが....
陣痛というのは「痛い」「痛くない」の繰り返しと認識しており、無痛の時に休もう!と考えていたのだが、実際は「殺される激痛」「激痛」の繰り返しだった。想像と大分グレードが違う。
ある産婦は「10tトラックがお腹に何度も乗り上げた痛み」と表現していた。

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引用: https://select.mamastar.jp/178882/2



この異常な痛みに加え、人生初の「排出禁止の排出欲」いわゆる「いきみ逃し」が重なる。経験がない事もあり私には激痛を上回る苦しみだった。
10ヶ月分の便秘持ちがトイレに駆け込んだら「身体の準備が完全にできるまで数時間は出すな」とトイレの神様に制限され、限界が来ていきむと強引に押し戻される様な感じだろうか。
いきみ逃しについて調べると「四つん這いや横向きで寝そべる姿勢など腹圧がかかりにくい楽な姿勢」とある。
仰向け必須の分娩台を身体が拒絶したのも、本能的な物とすれば無理はない。

コロナ禍、「パートナー」「家族」不在の医療現場での出産は、幾度かシュミレーションした私の頭でも追いつかないほどの辛さがあった。
しかし同時に(医者がいるのだ最悪な状況になっても何とかしてくれるであろう)という最終兵器的な心強さはあった。

何より私がこの病院を選んだのには理由があった。
この界隈では軒並み禁止されてしまった「立会出産」を、8月の感染爆発からの9月の感染者減少を経て、直前に再開した稀有な産院なのだ。
私は毎日感染者数をチェックし検診のたびに「そろそろ再開しますか?」と聞いていた。(プレッシャーかけて申し訳ない)
これについて院長の決断には深く感謝している。
( 2度のPCR検査、ワクチン接種証明、時間は30分と条件は細かに設けられている一方、パートナー、両親、兄弟もOKという対象の幅広さであった。産院によっては「パートナーまたは実母のみ」が多いので、この時代に兄弟姉妹までOKとは想定の広さに感心した )

ついに産まれるのも分読み段階。
本陣痛から12時間。
「パパが来られましたよ〜」
感動の再会!涙!!と思いきや、この時は振り向く気力すらなく、数分後に顔を確認する。フェイスシールドを装着した彼の顔は見た事もないほど青白く悲壮感が漂っていた。
のちに「拷問部屋かと思った」と第一印象を漏らす。
血塗れの空間で断末魔の様な叫びをあげながら両足を拘束された私は、青く赤くゾンビの様な面持ちだったという。
お互いに「なんて顔してるんだ」と感じていた様だ。

ブスコパンやら何やらの投入のち、会陰がバツバツと切られた。
(切られてしまった...というショックと、もう何でもいいから地獄を終わらせてくれという気持ちが4:6)
この会陰切開の恐怖は「切った瞬間」より産後からスタートする場合が多いです。
多くはトラックに轢かれたレベルの陣痛がハイパワーなので、急所辺りをハサミで切られるという本来とんでもねー痛みも掻き消されるそうな...  

ハサミで切られた感触までは覚えているのだが、肝心の赤子出産の瞬間は擬音も湧かない程によく分からないものだった。
10ヶ月分の便秘が解消された感覚、という体験談を読んで密かに楽しみにしていたのにー

状況が読めず呆然とする私に「産まれたんだよ!」とパートナーが伝えに来る。
私は呆気に取られつつ、心が狭くなっていた。
孤独に死ぬ思いをしていたのに産まれる瞬間のみに現れた彼の方が子供を先に見て感動していた事がどうも悔しい(誰のせいでもないのだが)
私だって見たいよ!鏡を足元に備えておけば良かったな。

臍の緒はパートナーがカットした。
産院の用意した事前アンケートにその項目があった。
本人は「立ち会い許可が出るかも分からないし自分がカットしたいかも正直分からない」と言っていたが、どうせ立ち会いが出るかも分からないなら希望しておけば?と私が勧めた。結果的には面白かった、想像と全然違ったと、本人にも良い体験だった様だ。
どちらかが「断固拒絶したい」という場合を除き、パートナーには何でもやってもらった方が良いと個人的には思う。


「パパが抱きますか?」
看護師の声に一瞬迷い、彼は先を譲った。
「いえ、彼女に先に抱かせてください。」
つい先ほどまで私のお腹にいた、温かくて小さな生き物が上半身に乗せられた。軽い。飼ってる猫の方がずっと重い。
恋焦がれていた姿の見えない想い人についに会えたような、あるいは全くの初めましてのような、不思議な感覚だ。

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ああ。きみか。
きみが、無事で本当に良かったよ.....

安堵はあった。しかし、思い描いていた「劇的な対面」とは随分と違っていた。
感動とか感激だのが押し寄せ大号泣、あるいはスッとつたう涙、だと思っていたのにー
涙腺はびっくりするほど微動だにしなかった。

終わった。とにかく終わった。足が痛い。
下が痛い。私の下半身はどうなってるのか。
淡々とした感情ばかりが明確にあった。
4時間にわたり分娩台のステップに布で拘束され、開かれ続けた脚はガックガクに震えている。
今すぐ閉じたい閉じたい閉じたい閉じさせてくださいお願いします
心の叫び虚しく、医師が先ほど切った下を縫合している。すぐに終わるかと思いきや長い。
一体何針縫っているのか聞くのも怖い.....

数字としては初産で12時間という平均値で、つまりは結果的に安産と呼ばれる。
(こ、こ、こ、これで、安産...なの...か....?)
70時間かかったある人の出産を「スーパー難産」と友人が評していたが、もはや死を乗り越えたサイヤ人レベルの強さと凄さだ。眉毛も無くなり顔付きも変わるやつ。

ついに、足を閉じることができた。
看護師さんは積極的に家族写真を撮ってくれ、
やがて申し訳なさそうに「パパはそろそろ...」と帰宅を促された。
短時間ではあったが、『パパ』なる彼は「立ち会えて良かった」と嬉しそうだったし
このほんの少しの時間を確保する迄の道のりが長く容易ではなかった...
本当に出産の寸前(20分前?)ぐらいまで、彼が諸々の条件をクリアし入室を許可されるのかは分からない様な状況だった。ここに全ては書ききれない。

とても心細く不安な出産ではあったがー
少なくとも、出産の直前にコロナ感染し産まれた瞬間からすぐに「母子を引き離され」我が子と2週間以上会うことを許されない産婦の心細さの比ではなかったろう。

出産から2時間余り経過し、
昼過ぎまで私は分娩室に横たわっていた。
白髪の老婆が現れ何事かと思えば「朝ごはんは下げていいですか?」と聞かれる。
そもそも朝食があった事など知らないし知ったところで食える訳もなかった。
あーあ。手つけずの朝食、勿体ない。パートナー君に食べて貰えばよかったな。
しかし貴重な30分の立ち会いを削って入院食を食いに行かせるのも馬鹿である。
死闘の最中、看護師が何度も飲み物を勧めていたが、私はそれすら口にできなかった。「いきみ欲」に拍車がかかりそうで恐怖だったのだ。
もう何も我慢しなくてよい。
綾鷹とお〜いお茶とポカリスエットを続け様に3本飲み干した。

立ち上がる事もできず車椅子で病室に運ばれる。
深夜から一睡もしないまま、昼食。
巨大なエビフライとカレーが正午の光を浴びてキラキラと輝いていた。
つわりに苦しみ、後期は栄養バランスや糖質に振り回される妊娠期間を経て自由になった私の前で、それは確かに眩いほど輝いてはいたのだがー

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つい先ほどまで、3332gの人間を排出するのに命懸けであった人間がこれを食べるのは少々ヘビーに感じた。医学的に問題無かったとしても、私は私の貧弱な内臓が悲鳴をあげそうで怖かった。

この記念すべき日に泣く泣く残した燦然と輝くカレーは、産後1週間以上経ってから「あのときのカレーが食べたい」などと思い出す様になる。
人生の無念な食事シリーズに刻まれて忘れられないかもしれない。


【 ④産後 
この夏は例年より騒々しい日が続くはずさ 】

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乙女心? 
胎盤と一緒に流れ出たまま行方不明さね
と 太々しい気持ちで筆を進めてはきたが、そんな私でも細かに書き記すのは躊躇するほど産後の身体の異変は辛かった。
出産とはドラマや映画の様な、下に布をかけて美しい上半身を写した感動だけで語れるものではない...

昔、仔猫を産むたび悲惨なほどボロボロになっていくのが印象的な野良猫が近所にいたが
今の自分も、ボロボロという表現がぴったりだなぁとしみじみ思う。

身体の機能、器官、あらゆる所で正常な動作が出来ず誤作動を起こしたりもする。
気分転換にTVを点けようとしたとこでリモコンも取れない。背中の辺りに放ってあるのに、手も伸ばせなければ寝返りも打てない。
そういえばナースコールも手が届かない。いや死ぬ気で歯を食い縛れば多分届くのだがー
こんな時に見舞客がいれば、ちょっとした事も気楽に頼めるのだろうな。
人生で一番甘やかされたい期間でありながら、家族、友人知人を病室に呼んで気楽に祝ってもらえる時代ではないのが悲しい。

と恨み辛んでも現状変わらないので
とりあえず目前の赤子の事だけ考えることにする。

当時の新生児室では上から2番目にカウントされるほどのビッグ寄りな我が子。
よくもあれが腹に入っていたものだと驚愕する。どうりで重いし少し歩いただけでも疲れる筈だ。
度重なる諸々の心労と食事制限で体重は殆ど増えなかったのだが、「母の体重が増えなくても子は育つし、体重100キロの母から未熟児が産まれる事もある」と医師に言われ、実際、私の子は平均サイズをキープし、最後は予定日超過により随分と育ってしまった。
「小さいお母さんが大きい子を産むのは本当に大変だったでしょう」と代わる代わる助産師や看護師が労ってくれた
(私は特に小柄ではないのだが)

胎児エコーでは小顔だと言われ続けていたが、産まれてみたら至って普通か丸すぎるぐらいの顔面な我が子。
つぶらで控えめな目元。やけに大きな手足。逞しい眉毛。

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なんでこんなにかわいいのかよー
出産の際、分かりやすく感動的で劇的な瞬間を味わう事はなかったが、じわじわと嬉しい気持ちが湧いた。
それでもやはり涙が出ないのは不思議だった。
あんなに苦労して、こんなに可愛いと思うのに。
つわり中はつらくて何度も泣いた。
アッキーナの死産にも泣いた。虐待事件の報道でも涙が出た。とにかく泣いていた。
陣痛から出産まで問答無用な人生最大の痛みと闘っていたのに、一滴の涙を流す事は無かった。

数日後、我が子の愛おしさに病室で溢れる涙ー 
「産まれてくれてありがとう」
そんな展開も想像し、そうなったらそーゆー記事を書こうと考えていたのに。
うーん。事実は捻じ曲げられない。
最後まで泣かないというのも、まぁそれはそれでリアルだな。死闘の末に涙腺が強化されたのかもしれない。


名前を、つけなくてはー


出生届。子供の保険証発行手続き。児童手当。
乳幼児の医療費申請。高額医療制度の申請。
杉並区で発行された妊婦検診の助成券は地方では使えないので今は全額負担している。領収書と診療明細を揃えコピーし原本と合わせて郵送請求する必要がある。
産後にやるべきことは育児以外にも少なくない。
父母で今一度打ち合わせたいところだが、面会制限があると自由には出来ないのが不便な時代だー
ビデオ通話という手段も何度も使ったが、子供の名前くらいは2人で実際に本人の顔を見て名前を呼んで決めたいという思いがあり
名前が決まらない以上、全ての申請手続きが滞ることが分かった。

何だかとても忙しい夏だったなぁ。
でもまだまだやることあるんやなぁ....


【 ⑤ そして母になる 】

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猫が飛んで来て出迎えた、1週間ぶりの我が家。

家の中が明るく感じた。部屋の隅々から玄関、洗面台まで綺麗に掃除されており、冷蔵庫には南蛮漬けやら煮卵など沢山の作り置きが所狭しと並んでいた。私の入院期間中にせっせと準備していたパートナー君から「タッパーを買い足したよ」と地味な報告。

初めて人間の赤ん坊を見た猫。ギョッとしている

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退院といえど下半身が重く歩くのも座るのも痛い。
また後陣痛というやつも厄介だ(産後にそんなもんがある事も知らんかった)
しばらくは必要最小限の動きで生きていきたいが、新生児がいれば、そう思い通りにもいかないだろう。

入院中は母乳がほとんど出ず悩んでいたが、退院の翌日から突然胸が張り出した。「痛い?痛い、痛い!」
驚き慌てて赤子に吸ってもらうと、次第に痛みが和らぐ。

誰に教えられた訳でもなく、目前の乳に吸い付いて離さず貪欲に飲み続ける生命体。
おまえは不思議だ。
ほんの数日前まで私のお腹に入っていて
出てくればまた私を利用し腹を満たすのに躊躇もない。
朝昼晩と飽きもせず同じ液体を飲み続け、生きよう生き抜こうと必死である。
小さな手で必死に乳房を支え、うっくうっくと喉を鳴らし乳を飲む小さな生き物は、想像していたより力強くも見えるが、それ単体では生きてゆけない「か弱さ」もしっかりとこちらへ訴えている様にも見える。

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こんなにも欲望に忠実で愛しい存在があるのかと感心しー 
不安に苛まれた。

もしも明日この子が
動かなくなったらどうしよう
温かさが失われたらどうしようー

感情は急激に視界へ押し寄せ、頬を伝って落ちていく。
それは目の前の我が子から、他界した家族への想いにも重なっていった。


5年前に兄を亡くした。
当時の兄は現在の私の年齢より若く、結婚して世帯を持ったばかりだった。
2歳下の妹として、ずっとその事実と向き合ったり逃げたり苦しんだり蓋を閉めたり隙間から覗いたりしながら生きてきた。
東京に出たのは良かった。不特定多数の人に作品を売るー 全力で生業と向き合っている時の私は、余計な事を考える暇もなかった。絵を並べれば飛ぶように動いていく吉祥寺や池袋や日暮里で、自分が世界に肯定されている様な気がした。錯覚でいい。何者かに咎め続けられているような加害妄想よりずっといい。
今でも「兄」や「きょうだい」「死」というワードを拾えば胸が苦しくなる。

しかし、この瞬間の私は「兄」の「母」の気持ちに重なっていた(私の母でもある)。
実際、当時の母の気持ちになれた等とは微塵も思っていない。なれる訳がない。私は妹であり、彼の母ではないのだから。
家族それぞれの悲しみは比較も共有もできないがー 
あの日、棺の中で眠る兄を見た、母の悲痛な叫び声が私の脳にフラッシュバックした。
彼女は棺の中に話しかけ、応答に応じない息子の頬に2,3回触れると、家の外に駆け出し、小さくうずくまって声を上げた。聞いた事もない鳥の様に甲高い悲鳴。
その呼び覚まされた記憶と共鳴するかの様に、私は痙攣し叫び声をあげた。
数日前に生まれたばかりの我が子が、何事かと黒目を動かし私の顔をのぞく。

突然、子供を失う。
耐えられない。たまらない。胸が引き裂かれる。
出産した時、身体が破壊されたと思った。
もしこの子を失う事があれば、次に私の何が壊れるだろう。

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私はまだ見ぬ日にも怯える弱い人間だ。
タイトルを華麗に回収したい所だが、あまり世の中に対し、「私がママよ」と主張するのも得意ではない。
母親といふ現象は凄まじいエネルギーを孕んでいて、それは良い方にも厄介な方にも向かうと危惧している。
想像を絶する体験に視野が広がったとも言えるし、一方へ偏ったとも言える。
積極的に「母親になったのだから」を掲げずとも、どうせ本人の預かり知らんところで刻一刻と何かは変わっていくのだろう。
私を強くしたり弱くしたりもしながら。

直近の自分の変化としてはー
眠れる時間が減った。体重も減った。
下半身の痛みで歩いたり座ったりも自由にできない。
その一方で、笑う回数は増えた。圧倒的に。

怪獣の様に泣き叫ばれると滅入る事もあるが
抱き上げた瞬間に泣き止む様は愛しくてたまらない。

痛み、寂しさ、生きづらさ
諸々の気持ちを抱えながら
今日もこの世界のどこかで誰かが母になる

恵まれた時代とは言い難いが
この時代でないと出会えなかった君を
抱きしめて伝え続けよう
溢れんばかりの愛などを

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(Yodan)
今回は、偉大なる「いらすとや」の素材(分娩台)を利用するほどのサボりっぷりを発揮してしまい、曲がりなりにもイラストレーターとしてどうなのよと心配された方もいたかもしれません。
今年に入り、お仕事も制限する中でご不便をおかけしたり、お断りさせて頂いたお客様には申し訳なかったのですが
既にお受けしているお仕事は完成させて
身体や諸々が落ち着いたら育児エッセイなども描きたいな、と思ってます。

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↑  我が家の閉め忘れ防止策。赤子のお尻拭きウェットシートは乾燥するので閉めて欲しい

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そういえば妊娠中にやたらと昔聞いたことのある動揺が歌いたくなりました。そんな変化もあるのかと不思議でした。

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