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「図書館で借りたってわざわざ言わないで」とお願いできるのだとすれば

(見出し画像は黒石市立図書館の完成記念内覧会時に撮影したものです)

時々SNS上で「図書館で借りた(または無料で楽しんだ)と感想とともにわざわざ伝えないで。気にする人もいるんです」というお願いが祭りになる。

僕はフリーランスの物書きだ。文章を書いてお金をいただいていて、特に今年は単著(「図書館ウォーカー 旅のついでに図書館へ」日外アソシエーツ)を出したので、それが何冊売れるかが今後のキャリアをかなり左右するという状態だ。

また、印税のようにダイレクトに自分の収入に直結しなくても、自分が書いた媒体が売れるかどうかは「この人に仕事を頼めば数字が上がるな」というバロメーターになる。ドラマの配役みたいなものかも。

だから正直言って、僕も「図書館で借りた」と言われると微妙な気持ちになるし、できたら買って欲しいなと内心思っている。同時に、読んでくれてありがとうとも思う。

昨日こんなことがあった。ずいぶん前の、職業訓練を受講していた頃のクラスメートに久しぶりに会って「実は本を出したんすよー」と教えたら、「すげえじゃん!」と言って、すかさずスマホを取り出してアマゾンで検索し、その場で購入しようとしてくれた。今見たら1点だけ残っていた在庫がなくなっていたので、ほんとに買ってくれたみたいだ。これはほんとに嬉しい。

一方で僕は元図書館員でもある。図書館で本を借りるということの「当たり前」や、「どんな人(例えば収入が低くて本が買えない人)でも支障なく本が読めるように」という図書館の意義についても理解しているつもりだ。また、図書館の本も当然「売上」の一部になっている。

最初に書いた「お願い」が「図書館を利用することへの批判」として受け取られているらしいことについては、ずいぶん筋違いな反応だなとは思った。

「感想伝える時にわざわざ図書館で借りたって言わないで」というお願いは、いろんな受け取り方をされているようだけど、結局のところ何がもとになっているかと言うと、

「買わなかった」という事実に対する憤りや悲しさ

以上でも以下でもないように思う。

僕たちクリエイターは、ものづくりをして世の中に発信するうえで、いいことも悪いこともいろんなことを言われる。そして、そういうものだろうとだいたいの覚悟をしてその道に入る。

言われる「いろんなこと」の中には、単純に誉め言葉/批判と割り切れるものだけでなく、言った本人は誉めているつもりでも全然そうは受け取れないものとか、感想としてはとても的外れで逆にこちらが傷ついてしまうような言葉もある。発言者の意思と必ずしも一致しないのが複雑なところだ。

例えば、プロだから文章がある程度うまいのは当たり前なのに、読者に「さすが文章が上手ですね」しか感想がもらえなかったら、ほめてもらっているのは間違いないのに「えっ、それ以上に感じたことはないの?」と思うのは避けられないだろう。

ただ、その人はほんとうに文章のうまさに感動したのかもしれない。それを「マナーだから、うまさだけほめるのは微妙なんですよ」って言えるだろうか?

上で紹介した僕の著書だと「デザインかわいいっすねー」としか言われなかったら、確かにデザインはいいけど、テキストやコンセプトについては何の感想もないのかな?と思ってしまう。

このすばらしい装丁はデザイナーの齋藤一絵さんと、彼女と打ち合わせた編集者によって作り上げられたもので、僕は「おっ、いいですね」くらいでほぼまったくタッチしていない。だからデザインだけほめられても微妙なのだ。でもたぶん、言った人はその時感じたことを正直に伝えたまでなのだ。

そういう言葉を聞いてネガティブな気持ちをくすぐられはしても、それに対して「こいつ、わかってないな」とか「そうか、もっといい文章を書かなきゃ伝わらないんだな」とか思うところも違うだろうし、その先の何につなげるかも人による。

気持ちの良い言葉だけ選んで受け取ってはいられない、というのがクリエイター(やそれにかかわる人々)の現実だろうし、個人的な感覚で言うと、そこからダメージ「だけ」しか感じ取れない人は向いていないんじゃないかとも思う。

だって、人がいろんなことを感じてくれるからこそ、そこに僕たちクリエイターは作品を投げ込むのだし、そのリアクションを感じて、また次の作品を作るのだし。

それなのに、どうして「図書館で読んだ」という一点についてのみナイーブになっちゃうんだろうと僕などは思ってしまう。いろいろ言われる「気になること」「イラつく感想」「ほめているつもりなのにそうは受け取れない」などの一つにすぎないような気がするのだけれど。

根も葉もない誹謗中傷でもない限り、作り手を傷つける意思があろうとなかろうと、受け手は何を言ってもいいのだと僕は思う。それとも図書館で借りた、は誹謗中傷なのだろうか?

別に僕が特別その手の「気になる言葉」に鈍感なわけでもない。むしろ僕は理想と現実(収入、SNSのレスポンス、仕事の数など)の乖離が耐えられなくて一度心を病んだ経験があるので、買った買わないについては気になるほうだ。みなさんにはできるだけ僕の収入や評判につながるように心がけていただきたいとは思っている(笑)

それでも、受け手は「図書館で借りた」と言ってもいいし、僕から「それ、ムカつくからできたらわざわざ言うのやめて欲しい」とお願いすることもない。何度もしつこく書くけど、買ってないと言われたらもちろん少しざわっとはする。それは作り手として、人として当たり前の反応だ。

ただ、図書館で借りたとわざわざ伝えることに対して「気にする作り手もいるので、言わないのがマナーですよ」とお願いできるのなら、他の「たぶん気にするだろうこと、傷つくだろうこと」も言わないほうがいい、ということになる。

単なる感想、批評とかも気になるものは気になることもある。どっちも「ざわっ」と感は同じなのだ。

だから「図書館で借りた」についてのみ言わないでとお願いできるのだとすれば、いったいその線引きはどこにあるのだろう。これはマナーだから言わないほうがいい、一方でこれは正式な批評にあたるから(気にする・傷つくだろうけど)言っても構わない、という判断は、何を以てできるのだろう。

僕としては「買わなかった/買った」とか「買うほどではなかった」とかいう評価軸もあるような気がするのだけど、それは批評ではない、マナーだから言ってはいけないという線引きは妥当なのだろうか?

例えば僕は、仮に誰か知り合いの本を図書館で借りて読んだとしても絶対に「図書館本を読んだ」とは言わない。でもそれは「ものづくりをしてお金をもらっている同士」間のマナーだと思っているからで、それを一般の受け手の方にお願いはできないなあと考えている。

とさんざん書いておきながら矛盾するようではあるけれど、もしあなたの周りにクリエイターがいて、その人を傷つけるようなことはしたくない、できるだけポジティヴに応援し続けたい!と思っている場合は、確かに「借りて楽しんだよー」と言うのは避けたほうがいいかもしれない。

結局のところ「お願い」として受け止められると「なんかちょっと違う」なんだけれど、「そういう可能性もある」という事実の提示だと「そういうこともあるんだ」で済む話なのかもしれない。SNSで祭りになる時も、そもそも最初は後者の意味で発信されているのかもだし。

とりあえず僕は「図書館で借りた」と言われたら、「(どんなにほめていても)買うほどではなかったってことなのかな、次は何があっても買いたくなるようなものを作るように頑張ろう」とモチベーションにつなげるようにしている。その意味では、発奮させてくれてありがとう、ではあるかな。

(終わり)

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