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人間の目には視えない「透明のコイン」

不運にも、通ろうとした道が工事中で封鎖されていた。

向かい側から大きな犬が来て、怖くて別の道を行った。

人生、そんな風に「回り道」を要される状況が多々あります。

それで、「なんて自分はツイていないのだろう」「人生は嫌なことばっかりだ」なんて不貞腐れた気持ちが湧くこともあります。

ところが、回り道をした先で、季節の花々が風に混じって香って来る。
絶妙な光と影のコントラストがある空間に、知らぬうちに癒される。
そこにあった景色の感じが、遠い記憶と重なって懐かしい。
少しだけ伸びてしまった歩数が、病気を予防してくれる。

意識せずとも、このように「目に見えない利益」を受け取れることがあります。

ここでちょっと医学的な話をしておくと、東洋医学の世界では、人間の感情は各臓器らにあり、脳はあくまでもそれらを「自覚」するための器官に過ぎないとされています。それを示唆する一つの事例として、脳が死んでも人体は生き続けますが、臓器(特に腸)が死んだ場合、人体は丸ごと機能を停止してしまうといったことが挙げられます。

こうした話からも、人間、もっといえば生物における優先度の比重は、意識的な「自覚」ではなく、むしろ無意識的な「無自覚」の世界にあるという見方ができるのです。

「人間の行動は無意識が9割、意識が1割」
そんな風にも言われる通りです。

ここから、「人生の内で最重要の利益や幸福とは、本人に自覚が無くとも、無意識の方に蓄積されてゆくもの」という風に考えられてきます。

そして私は、無意識の収穫を得るには「回り道」をするほどうってつけなものは無いと思います。何故なら、「不意に」「何となく」こういった行為ほど、意識上にある慣れと確実性でくたびれた行為よりも、無意識の深い領域に届いて作用し易いという体感があるからです。

今や誰もが知るテレビゲーム「スーパーマリオ」の世界でも、メインの道から逸れて上の方に昇っていったり、地下に落ちていったりする内に、チャリンチャリンと軽快な音を立てて、沢山のコインを集められます。

脇道に逸れたつもりが、メインの道を行くよりもずっと早くにゴールまで辿り着けたり、スコアが高くなることだってあります。

実は人生も同じ構造になっていて、私たちにはその「コイン」が目に視えないだけ。そんな風には思えないでしょうか?

今日はたまたまお気に入りの散歩道が工事中で封鎖されており、「ツイてないな……」と思いながら渋々と回り道をした先で、何だか無性に心が軽くなったことから、こんな記事を思い付いたひきこもりなのでした。

「人生周り道をしてしまった」と嘆いていらっしゃる方でも、実はそっちの道には沢山のコインが浮かんでいて、今でも無自覚にそれらに触れては、チャリンチャリンと軽快な音を立て続けているかも知れません。

そして、その回り道とは自覚を超えた領域の「真我(本当の自分)」の導きによる必然であって、見かけ上では意図せぬ「回り道」でありながらも、実は最も重大な気付きが隠された「本当の道」なのかも知れません。

そういうわけで、私は今後もうっかり回り道をして、目には視えない「透明のコイン」を沢山集めてゆけたら良いなと思っています。

いざという時にしっかりと踏ん張れるように、根っこの「無意識」を満たしつつ。


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